話題のラノベや投稿小説を無料で読むならノベルバ

元文三年十一月二十三日の事

ふかふかね

肝心の犯人の名前は

そのやうな事態を見て、重い重い腰をようやっと上げた男が居た。その男の名は
、寺田寅彦と云ふ。寺田博士は、東京帝国大学理科大学物理学科の助教授兼教授であつた。
さて此処で、寺田博士の生涯について少し説明しておく必要があらうかと存ずる。博士は明治二十四年に東京に生まれ、幼時から理科の好きな子供であつた。小学校の教師をしてゐた父の影響もあるだらうし、或は、先祖代々から受け継いだ、科学への情熱があるのかも知れぬ。兎に角、子供の時分から、何かしら新しいものを発見したい――それを研究したいとの欲望が強かったらしい。それが昂じて、二十五歳の時、友人の勧めもあり、陸軍軍医学校に入った。
この青年時代は、実に充実したものであつたろう。実験材料には事欠かず、自由に自分の興味のある事が出来たのだから。だが、やがて軍医中尉に任ぜられ、陸軍軍医監として満州に赴任してからは、自由気儘にやりたい事をやる訳にも行かず、又、部下の兵卒たちの健康管理も大事な仕事の一つであつたので、研究に打ち込む余裕もない日々が続いた。それで、二十八歳の時に、当時医学の研究が盛んだったドイツに留学する事を希望したのだ。留学の許可はすぐに下りた。昭和二年(一九二七)の事である。
ところが、出発間際になって、突然、帰国せよとの命令が来たのである。理由は、ドイツ留学中の功績を以て、内務省衛生局長に就任せよとの内命を受けたからだつた。実は、陸軍省医務局長の時、結核患者に対する治療の実験的試みが、厚生省の目に止まつたのである。それによつて、結核予防法が制定される事になつた。そこで、医学博士の学位を持つ科学者であり、且つ、実績も充分にある寺田博士こそ適任だと、文部省は考へた訳だ。
しかし、若い寺田博士にしてみれば、折角のチャンスを逃す様なものである。早速、辞表を提出し、翌年一月に帰国した時には、既に宮内省御用掛に就任してゐた。それから先は、宮廷に於ける御典医的な立場で、天皇家の病を治したり、皇族方の病気を診たりするのが彼の任務となつた。尤も、これは、他の医師たちよりも、一歩進めて、より深く人間の身体を知りたいと云う、寺田博士自身の希望にも沿ふものだつた。
ところで、寺田博士が帰国すると間もなく、また、不思議な事件が起こった。
それは、例の「帝銀事件」である。この事件については、別に述べる機会があるだらうから、今は省くが、
彼が解決した「帝銀事件」と、今起こっている連続殺人とも言える事件の共通点に、寺田博士は気づいたのである。
即ち、犯人はいずれも、人の身体の仕組みを知りたくて堪らない人間ではないかと推測したのである。そして、その知識欲を満たすために、人を殺しているのではないかと……。
勿論、そんな馬鹿な事が有る筈がない……とは云えぬ時代であった。実際、大正八年(一九一九)三月九日に起きた青物商殺しなどは、新聞などで大袈裟に取り沙汰された位だから、世間の人々にとって、決して絵空事ではなかつたのである。
確かに、当時は人体解剖など許されなかつたし、ましてや、生きた人間を実験台にするなど以ての外だつた。ところが、それを許す法律が出来そうなところまで行つていたのだから恐ろしい話だ。結局、時の政府と警察当局の苦心の甲斐もなく、未遂に終つたが、もしこれが実現していたら、世の中はどう変つていたか分らない。
それにしても、何故犯人が、身体の内部に興味を持つのか? 例えば、心臓や胃腸などの内臓は兎も角としても、皮膚の皮下組織の構造とか、骨の構成成分だとか、筋肉の働き方などがそんなに面白いのかと思ふのだが……。いや、単に面白がるだけならばまだ良いのだ。中には、其処まで行くと、気味が悪くなり、一種の狂気を感じる人も出て来るだろう。すると、此奴は危険だと警察に通報する者も出て来ようし、或いは、狂人と間違われて病院送りになる事も有り得るのだ。それでも尚、探究心は止まらないものなのか……? 恐らく、一度味を覚えたら止められなくなるのではないか――寺田博士はそう考えてゐるらしい。つまり、寺田博士自身が、そうだったからである。彼は若い頃、自分の興味本位で、犬猫を解剖したことがあるのだと告白している。但し、その時は動物愛護協会員に見つかってしまい、大学を追われた上、家財道具一切を没収されてしまったのだそうだ。それで仕方なく諦めたのだと書いてゐた。その後、寺田博士は、解剖学を専攻し、博士号を得た。その後も折に触れ、生き物の身体構造を調べてはいたものの、やはり、倫理的に許されない領域であるだけに、何処かで抑制する気持は働いてゐたらしい。
それが、今回の一連の事件を見てゐるうちに、何時の間にか、昔の情熱が甦つて来たのであらうか。それとも、犯人の中に、自分が昔感じたものと同じ匂いを嗅ぎ付けたからであらうか。とにかく、今度の事件に就いての捜査を依頼されると、直ぐさま承諾したのだつた。
寺田博士自身は、学者であると共に、物理学者であつた。しかも、理化学研究所の前身である東京物理学校出身の人である。従って、犯罪心理には余り詳しくない筈だ。にも拘らず、最初の事件で、被害者の死因が何か毒物の服用によるものだと直ぐに見抜いたのには驚かされる。
更に驚いたことには、次の事件は、大阪で起こつたにも拘わらず、同じ様に、毒殺ではないかと考えた事だらうか。しかし、博士自身にも解らぬものがあつた。それは、被害者の爪の間から検出された物質である。それが何なのかを突き止めるのは容易ではなかつた様だ。何しろ、何の薬とも特定出来ない上に、どの道処方箋を調べれば判る事なのであつた。そこで博士は、大阪府警に協力を求め、其れ迄の経緯を詳細に説明した上で、協力を求めたのだそうである。その結果、一人の薬剤師が逮捕された。その男は、初めのうち容疑を否定していたが、調べが進むにつれて、次第に白状し始めた。そして、遂に犯行を認めたものの、肝心の犯人の名前は最後まで明かさなかつたのだ。

「文学」の人気作品

コメント

コメントを書く