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俺は一体何処へ行けば好いのだらう?

ふかふかね

悠々自適の生活

彼は確に落伍者だつた。それは誰に問はずしても明らかなことだつた。しかし誰も彼を馬鹿にしたりはしないのだつた。何故なら皆それぞれに何かしらの仕事をしてゐたからであつた。学校の先生たちは子供たちを教え導くために日夜努力を重ねてゐるし、銀行員たちや役所勤めの人々にしても同じことだつた。又農家の子弟たちも親の仕事を手伝って農作業などを手伝つたり、あるいは家業を手伝つたりして一日を送つてゐる者も大勢ゐた。中には親の財産を譲り受けて悠々自適の生活を送ってゐる者や、株取引などで莫大な富を築いた者もいたかも知れない。そういう彼等には一見何の悩みもない様に見えるけれど、実は誰もが心の中では自分の人生に対して深い疑念を抱いてゐるのであつたのだ。つまり世の中には自分と似た様な境遇にいる人たちが多数存在するにも拘らず、自分だけがどうしてこんな目に遭わなければならんのか? 自分は他の者たちより劣ってゐるのか? 自分が駄目な人間だからか? いやそうではない筈だ……などと一人思い悩んでゐることに違ひないのだ。ところが多喜二の場合はどうであるか? 多喜二の父親は教師としてかなり有能だと云はれながら三十代半ばにして死んでしまったのだが、多喜二自身は未だに何の才能もなく、将来の希望さえ見出せない状態なのであつた。多喜二の父が死んだ時には大勢の人達が葬式に来てくれ、その中には親友と呼べるほどの人も交じってゐたのだが、多喜二自身は未だその人たちと一度も会つたことがなく、手紙のやり取りすらもしたことがないのであつた。多喜二の母が亡くなった時も多くの人たちが弔文を寄せてくれたり手紙をくれたりしたのだが、多喜二はそれを母の墓前に供えるだけで直接返事を書くこともなかったのであつた。そして多喜二の青春時代は殆ど暗い影に包まれてゐたといつても過言ではない状態だつた。
そんな訳で多喜二は既に四十歳近い年齢に達してゐたのだけれど、依然として独身のまま独り淋しく暮してゐたのであつた。しかも彼は誰からも尊敬されることもなく、世間的には何の価値もない人間だと見做され、軽蔑されてゐたのであつた。しかも彼はそのことを自分でも知つてゐたし、またそれを充分承知してゐたのだ。しかし彼はそれで諦めてしまった訳ではないのだつた。寧ろ逆なのである。むしろそのことが一層彼を追いつめて行く結果にもなつたのだ。それは何故か? それは彼が誰よりも何よりも自分自身を信じたいと思い続けて来たからだつたのだ。しかし幾ら信じてみたところで所詮虚しいだけであることが判つた時、彼の心の中は空虚なものとなるばかりなのであつた。するとそれまで辛うじて保ちつづけてゐた理性が忽ち崩壊し、次にはその反動が強過ぎて精神錯乱に陥ることも度々あったのであつた。その時彼はもはや人間として生きていくことはできないのではないかといふ恐怖に襲われ、絶望の淵に沈み込んでしまふのが常であつた。そしてその度に彼は神に助けを求めてみたものの、答は何も返って来ず、ただ虚しく響いて来るだけなのであつた。

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