俺は一体何処へ行けば好いのだらう?

ふかふかね

一寸用事があってね

(俺は一体何処にいるのだらう?)
(俺の仲間は何処へ行ってしまったのだらう?)
或日彼が仕事場で机に向ってゐると、誰かが後ろから肩を叩いた。彼が振り向くとそこには小使の少女が立っていた。少女は彼に紙片を渡した。見ると少女の字で短い手紙が書かれてあつた。その内容は彼が少女の家に遊びに来ることを催促するものであつた。その手紙を読み終ると、彼は直ぐ机の上の時計を見た。針はもう夜の十時を指してゐる。
(こんな時間だ! もうこんな時間になつたのか!)
彼は少時呆然としてしまつた。それから急いで仕事を片付けると、帽子を手に持ち、大急ぎで外へ出た。外は既に暗くなつてゐた。空には月が出てゐるらしく、雲が仄白く光つてゐるのが見えた。街の中は静かであった。時々犬が吠えるのが聞えるだけだつた。彼は足早に歩いた。彼の家は町の外れの方にあるので、そこへ行くには幾つも曲り角を曲がらなければならない。その上途中で橋を一つ渡らなくてはならないのであつた。
彼は橋の所まで来ると立ち止り、息を休めるために欄干にもたれ掛かつて川を眺めた。川は夜の中に黒くうねつて流れてゐる。川の水はその表面だけ鏡の様に滑らかであらうが、その底に潜める水の色は闇のために全く見えないのである。水面には幾つかの星が映り込んでゐる。それが時折ちらついて見えたりする。けれども水の暗い色は何時見ても変ることがない。川の流れる音は何時聞いても耳に快く響く。
(俺もあの川に流れて行つたらどうなるのだらう?)
そんなことを考へるのは無意味だといふことは彼にはよく解つてゐた。(そんなことは出来はしないぞ!)彼は自分に言ひ聞かせた。然しそれと同時に自分が妙に悲しい気持になり、深い溜息が出て来るのを感じた。彼にはそれが何故なのかわからなかつた。彼は又歩き出した。すると今度は何時の間にか街並が消え、周囲に田圃と畑しか見えなくなつていた。道の両側は一面の田畑である。遠くの方で牛の鳴く声が聞えてくる。空は曇つてゐるのか星は見えない。風が吹く度に木がざわざわと音をたてる。静かな闇の中にその音ばかりが異様に大きく響いてくる。道端に立つ街灯の光に照らされながら、彼は黙々と歩き続けた。やがて前方に家々が見え始めた。それらの家の屋根は黒い大きな塊りのやうに見えるだけで、個々の区別が全くつかない程暗かつた。どの家の中にも灯が一つもないからである。彼は更に足を早めた。そして漸く目的地に着いた頃には、汗びっしょりになつてゐた。
「今晩は」
玄関の戸を叩くと中から返事がした。戸を開けると其処には老父が一人立つてゐた。老人の顔は蒼ざめてゐたが、それでも微かに笑つて見せた。老人は彼を招じ入れると茶の間へと案内した。そこは薄暗く、かすかに線香の匂いが漂つてゐた。仏壇の前に蝋燭立てが置かれてあり、白い煙が一筋上の方へ伸びてゐる。壁掛け時計の時を刻む音が微かにきこえるばかりであつた。
「今日は遅かったねえ」
「ええ」
「仕事は大変かね?」
「ええ」
「そうかね」
二人の間に沈黙が続いた。それは長い間続いたのであつたかどうかわからない位長いものに見えた。そのうちに少年は床の間の前に座り、手持無沙汰そうにそこらを見廻したりした。部屋の片隅に置かれた古い箪笥の上には小さな置物がいくつも並んでゐる。その中に熊の人形も混つてゐた。その熊の眼玉は大きく見開かれ、口をあんぐり開けてゐる。それは何かを訴えようとしてゐるかの様でもあり、又嘲り笑ってゐるかの様でもあつた。
「お父さん」
「何だい?」
「お母さんは何処へ行ったのです?」
「うん、一寸用事があってね、出掛けたんだ」
「そうですか」
「ところでお前は本当に勉強が嫌いなのか?」
「え? まあ、嫌ひですね」
「それならそれでいいが、しかし勉強をしなければ、お前、困るよ」
「はあ」
「お前の友達の多喜二君なんか、大学へ入つても、みんなから馬鹿扱いされて、随分苦労したらしいよ」
「さうですか」
「それで結局退学して仕舞つたんだそうだ」
「…………」
「お前はあんなふうにはなりたくないだろう? それなら少しは努力したらどうなんだ? いやならいやでいいが、それならそれで仕方がないじゃないか」
「…………」
少年は黙つて下を向いてゐた。彼は何と答へていいのか分らなかつたのである。

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