俺は一体何処へ行けば好いのだらう?
僕の体は僕自身のものだよ
「君はやめるべきだ」と一人の男が彼に言つた。
「どうしてかね?」と彼は答へた。
彼等は或団体をつくり、その活動も漸く軌道に乗りかけてゐた。そしてその団体の目標であるところの理想社会建設は目前にまで迫つて来たのだつた。
「君はまだわからんのか? 今度の運動は今までより一層激しいものだぞ。だから君の体では困るんだよ。君にはまだやるべきことが沢山あるじゃないかね? それに君はもう三十にもなるだろう」
「それがどうした? 僕の体は僕自身のものだよ」
彼も勿論彼等の会合へ絶えず顔を出し、彼等と共に行動してゐたが、その心の底には何時しか一種特別な感情が生まれ、それが次第に大きくなり、遂には一種の信仰に近いものになって行つたのであつた。
ある日彼は一人の友人に誘われて、某料亭で酒を飲んだ。その時彼は友人の話を聞きながらふっとこんなことを思ひ浮べた。
(僕は一体何を考へてゐるのだらう?この友人は何のために此処へ来ているのだらう自分は一体何を考えてゐるのだらう?僕は自分の心を何処迄信じていいのだらう?僕は誰を信じて生きていゝのだらう?)
それは突然に起った疑問であつた。が、それと同時にその疑問は彼の心に重く圧し掛かつて来た。彼は酒を飲むのをやめて、帰つて行った。
翌日彼は或家を訪ねた。その家の主人は社会主義についてよく知つてゐたから、彼は早速その問題について話をした。すると主人は言つた。
「お前さんは真面目だねえ。しかし真面目なのは結構だが、少し遊びがないよ。そんな風だといつか失敗するかも知れないぜ」
彼は腹を立てて家を飛び出した。そして暫くの間、一人で歩いて行つた。その間中彼は心の動揺を抑えることができなかつた。
(俺は何という馬鹿者なのだ!)
彼は自分に呆れ返つた。
(何故あんな無責任なことをしてゐられるのだらう? 何故あれ程自信を持つことができるのだらう? 何故あそこまで夢中になるものがあるのだらう? 俺には到底できないことだ……)
彼は道端に立ち止り、空を見上げた。雲一つない青空が拡がつてゐた。彼は眩しさうに目を細めた。そして再び歩き出した。
(人間はみんな同じ人間ではないか? 何故あの人達と俺とは違ふのだらう? なぜ俺ばかりこんな目に遇はねばならぬのだらう?……)
彼の心はぐらつき始めた。それと共に生活にも変化が現れてきた。彼が家に居れば必ず母が彼を責めるのだ。
「一体お前は何をしてゐるんだ?」と彼女は時々彼に向つて言つた。「いつになったら就職するつもりだえ? 早く仕事を見つけないと大変だよ」
彼女の言葉は彼自身の胸にぐさりと突き刺さつた。彼は母の言葉に反抗しようと思つても、何故か母の前に出ると一言も言へなかつた。(お母さんの言う通りだ。俺はいつまでこんなことを続けてゐられよう? 本当に俺はこれからどうなるのだらう?)
彼は又してもあの疑問にぶつかつた。そしてその度に自分を叱つたり、慰めたりして見たりした。
「君は真面目になり過ぎたんだよ。もう少し遊ぶことを知らなくては駄目だ」と或男がある時彼に言つた。「もっと人生を楽しまなくちやいけないよ」
「人生を楽しむですつて……」と彼はその男の言葉を繰返した。それから急に笑ひ出した。
「なあんだ、そんなことですか!」
男は彼の顔を見つめてゐたが、やがて微笑した。
「まあ君がそう思うならそれでもいいよ」
二人は街を歩いた。空は晴れ渡り、空気は澄み渡つてゐた。街並には人が溢るゝ如く集まつてゐた。人々は忙がしさうに動き廻つてゐる。
「どうです? あなたは何を考へてるんです?」
「僕はただ今の生活を一生続けたいと思つてるだけだよ」
その男はかう答へると、足を早めた。彼は男と一緒に歩きながら、男の後ろ姿を眺めた。
(この男だって何も彼も忘れてしまつたのだらう。この男は幸福な男だ!)
彼にはそんなことを考へることが度々あつた。そして、それと全く同じことが自分自身についても言えるのではあるまいかと思つた。
或時彼は一人の青年と共に酒を飲んだ。青年は社会主義について、彼の知らないようなことを沢山知つてゐた。そして彼は何時の間にか、その青年の説を聞くことによつて、自分の心が如何にぐらついてゐたかを知った。
「君は今迄、随分辛い目に遭って来たのだね」
青年が言つた。
「僕はもう駄目なんです。僕には何一つできないんです。僕なんかやつぱりだめなんですよ。僕の理想なんてものは決して実現しないんですよ、きっと。僕は今まで一度も働いたことがないし、友達もない、恋人もいない、何にもないんだ、だから、つまり、要するに、働くこともできない、友だちもできない、女もないし、金もなひ、何もかもないから、結局、自分ひとりで、自分ひとりだけで、世の中へ出て行かうとしても、どうしても、どうしていいか、わからないんだよ。それで、いつも、ああでもない、こうでもない、と考えてばかりゐて、でも、やっぱり、どうにも、しようがなくて、結局は、自分は、やはり、だめだといふ結論に達せざるを得ないんだ。それを何遍も、何遍も、繰りかえして、くり返して、それが、つまり、つまり、僕の生活なんだ。それしか僕にはできないんだ。それしかないんだ。それしかしようがないんだ。それだけなんだよ」
「どうしてかね?」と彼は答へた。
彼等は或団体をつくり、その活動も漸く軌道に乗りかけてゐた。そしてその団体の目標であるところの理想社会建設は目前にまで迫つて来たのだつた。
「君はまだわからんのか? 今度の運動は今までより一層激しいものだぞ。だから君の体では困るんだよ。君にはまだやるべきことが沢山あるじゃないかね? それに君はもう三十にもなるだろう」
「それがどうした? 僕の体は僕自身のものだよ」
彼も勿論彼等の会合へ絶えず顔を出し、彼等と共に行動してゐたが、その心の底には何時しか一種特別な感情が生まれ、それが次第に大きくなり、遂には一種の信仰に近いものになって行つたのであつた。
ある日彼は一人の友人に誘われて、某料亭で酒を飲んだ。その時彼は友人の話を聞きながらふっとこんなことを思ひ浮べた。
(僕は一体何を考へてゐるのだらう?この友人は何のために此処へ来ているのだらう自分は一体何を考えてゐるのだらう?僕は自分の心を何処迄信じていいのだらう?僕は誰を信じて生きていゝのだらう?)
それは突然に起った疑問であつた。が、それと同時にその疑問は彼の心に重く圧し掛かつて来た。彼は酒を飲むのをやめて、帰つて行った。
翌日彼は或家を訪ねた。その家の主人は社会主義についてよく知つてゐたから、彼は早速その問題について話をした。すると主人は言つた。
「お前さんは真面目だねえ。しかし真面目なのは結構だが、少し遊びがないよ。そんな風だといつか失敗するかも知れないぜ」
彼は腹を立てて家を飛び出した。そして暫くの間、一人で歩いて行つた。その間中彼は心の動揺を抑えることができなかつた。
(俺は何という馬鹿者なのだ!)
彼は自分に呆れ返つた。
(何故あんな無責任なことをしてゐられるのだらう? 何故あれ程自信を持つことができるのだらう? 何故あそこまで夢中になるものがあるのだらう? 俺には到底できないことだ……)
彼は道端に立ち止り、空を見上げた。雲一つない青空が拡がつてゐた。彼は眩しさうに目を細めた。そして再び歩き出した。
(人間はみんな同じ人間ではないか? 何故あの人達と俺とは違ふのだらう? なぜ俺ばかりこんな目に遇はねばならぬのだらう?……)
彼の心はぐらつき始めた。それと共に生活にも変化が現れてきた。彼が家に居れば必ず母が彼を責めるのだ。
「一体お前は何をしてゐるんだ?」と彼女は時々彼に向つて言つた。「いつになったら就職するつもりだえ? 早く仕事を見つけないと大変だよ」
彼女の言葉は彼自身の胸にぐさりと突き刺さつた。彼は母の言葉に反抗しようと思つても、何故か母の前に出ると一言も言へなかつた。(お母さんの言う通りだ。俺はいつまでこんなことを続けてゐられよう? 本当に俺はこれからどうなるのだらう?)
彼は又してもあの疑問にぶつかつた。そしてその度に自分を叱つたり、慰めたりして見たりした。
「君は真面目になり過ぎたんだよ。もう少し遊ぶことを知らなくては駄目だ」と或男がある時彼に言つた。「もっと人生を楽しまなくちやいけないよ」
「人生を楽しむですつて……」と彼はその男の言葉を繰返した。それから急に笑ひ出した。
「なあんだ、そんなことですか!」
男は彼の顔を見つめてゐたが、やがて微笑した。
「まあ君がそう思うならそれでもいいよ」
二人は街を歩いた。空は晴れ渡り、空気は澄み渡つてゐた。街並には人が溢るゝ如く集まつてゐた。人々は忙がしさうに動き廻つてゐる。
「どうです? あなたは何を考へてるんです?」
「僕はただ今の生活を一生続けたいと思つてるだけだよ」
その男はかう答へると、足を早めた。彼は男と一緒に歩きながら、男の後ろ姿を眺めた。
(この男だって何も彼も忘れてしまつたのだらう。この男は幸福な男だ!)
彼にはそんなことを考へることが度々あつた。そして、それと全く同じことが自分自身についても言えるのではあるまいかと思つた。
或時彼は一人の青年と共に酒を飲んだ。青年は社会主義について、彼の知らないようなことを沢山知つてゐた。そして彼は何時の間にか、その青年の説を聞くことによつて、自分の心が如何にぐらついてゐたかを知った。
「君は今迄、随分辛い目に遭って来たのだね」
青年が言つた。
「僕はもう駄目なんです。僕には何一つできないんです。僕なんかやつぱりだめなんですよ。僕の理想なんてものは決して実現しないんですよ、きっと。僕は今まで一度も働いたことがないし、友達もない、恋人もいない、何にもないんだ、だから、つまり、要するに、働くこともできない、友だちもできない、女もないし、金もなひ、何もかもないから、結局、自分ひとりで、自分ひとりだけで、世の中へ出て行かうとしても、どうしても、どうしていいか、わからないんだよ。それで、いつも、ああでもない、こうでもない、と考えてばかりゐて、でも、やっぱり、どうにも、しようがなくて、結局は、自分は、やはり、だめだといふ結論に達せざるを得ないんだ。それを何遍も、何遍も、繰りかえして、くり返して、それが、つまり、つまり、僕の生活なんだ。それしか僕にはできないんだ。それしかないんだ。それしかしようがないんだ。それだけなんだよ」
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