『問』の答えと、その問いに関するもの。

ふかふかね

僕が本当に

或声 お前は俺の思惑通り人間だつた。
僕 僕は僕だ。それ以上でもそれ以下ではない。
或声 お前は誤解している。そしてその誤解にお前自身も協力してゐる。お前は自分が何者かを知らないのだ。
僕 僕は僕以外の何者でもない。それ以外のものになるつもりもない。
或声 それではお前は自分が何なのか知らないし、自分が何をすべきかも知らないのだ。お前は何も知らないし、何もできないのだ。お前は自分がどんな存在であるのかを理解しなければならぬのだ。
僕 そんなことは不可能です。僕が本当に知りたいことは、絶対に知れないことなんです。何故ならそれは僕が一番知りたくないことであり、僕が一番認めたくないことだからです。僕が本当に知りたいものは、絶対に分かりたくないものなんですよ。何故ならそれは僕にとって都合が悪いものだからです。そして僕が本当にしたいものは、絶対にやりたくないことなんです。だから僕が本当に欲しいものは、絶対に手にはいらないものなんですよ。だから僕が本当に聴きたいものは、絶対に聞けないものなんですよ。だから僕が本当にしたいことは、絶対にできないことなんですよ。
だから僕が本当に言いたい言葉は、絶対に言えない言葉なんですよ。だから僕が本当に触れたいものは、絶対に触れられないんですよ。
だから僕が本当にしたいことは、絶対にしてはならないことなんですよ。
だから僕が本当に見たいものは、絶対に見てはいけない景色なんですよ。だから僕が本当に聴きたい音楽は、絶対に聴いてはいけない曲なんですよ。だから僕が本当にやりたい踊りは、絶対に踊ってはならないダンスなんですよ。
だから僕が本当にしたいことは、絶対にしちゃならないことなんですよ。だから僕が本当に訊きたい歌は、絶対に歌ってはならない歌なんですよ。だから僕が本当に食べたかったものは、絶対に食べてはならない食べ物だったのですよ。
だから僕が本当にしたかったことは、絶対に出来やしないことだったのですから……。



或声 俺はお前の思惑通りに人間なのだ。勿論お前が俺をそう仕向けたのだから、当然だな。しかし何故俺がそんな真似をしたのかと言うと、それはお前が自分の存在理由を探しているからだ。しかもその理由は自分自身に関するものではなく、自分以外の誰かに関わるものであるらしいのだ。そこで俺はお前の願いを叶えてやろうと思ったのだよ。つまりお前を俺の代わりにすることにしたわけだ。まあ正確に言うと「させた」と言うより「した」と言う方が正しいのだがね。そもそも俺は俺自身のことを知りたかったわけではないからな。寧ろお前のことをもっとよく知るために、この役目を引き受けたと言った方がいいだろう。そしてその結果として分かったことが幾つかあるのだが、その一つ目はやはりお前は俺とは違う存在だということである。どうやら俺にはお前のような能力はないらしいからね。尤もこれは初めから分かっていたことなのだが……。
そして二つ目に明らかになった事実は、お前は俺とは全く別個の人格であるということだ。だが人格と言っても別に二重人格というわけではないぞ。要するに性格が違うということなのだが、それもただの個性に過ぎないのである。ただ単に思考形態が異なるだけなのだ。例えば同じ映画を見ても人によって感想が変わるように、物事に対する考え方や捉え方にも個人差があるというだけの話である。
但し一つだけはっきりしていることは、それを客観的に判断するのは難しいかも知れないということだ。何故なら我々には主観と客観の区別がつかないからである。それどころか我々は自分がどちらなのかすら分からない場合もあるのだ。
例えば今ここで私が私ではなく他の何かであったとしても誰もそれに気付けないし、また逆の場合であってもそれに気付くことはできない筈なのである。何故なら我々の意識とはそういうものだからだ。意識が意識として感じられるためには、そこに自己同一性が必要なのだ。言い換えるなら意識の本質とは、意識としての感覚器官を持つことであると言えるかも知れぬな。しかしながらそれはあくまで仮説にしか過ぎない話ではあるけれどね……。

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