『問』の答えと、その問いに関するもの。

ふかふかね

続きの問答


或声 お前は人生の十字架にかかつてゐる。僕 そんなものは無い。
或声 あるとも。人生とは何か? お前はその答を知らぬではないか。
僕 知りたくもありません。
或声 それならお前は何のために生まれて来なければならぬのだ? 僕 僕は何も知らずに生まれたいのです。
或声 それは不可能だ。人間は何かを知らねばならぬものだ。
僕それでは人は知らなければならなくなる度に死んで行くのですか? 或声 さうだ。そして遂には誰も彼もが死に絶える。
僕 そんなことはあり得ません。
或声 お前は人が死ぬのを見るのが好きだろう? 僕 はい。
或声 だからお前の好きな死が来る迄、お前は死なないやうな気がするのだらう。
僕 そんなことはありません。
或声 もしそうならば、お前は既に死んだも同然だ。
僕 僕は生きてゐるつもりです。
或声 だがお前は自分が生きたことを知らない。
僕 僕は知っています。
或声 お前は本当に生きているのか? 僕 本当です。
或声 本当かな? お前は自分の本当の名前を知つてゐないのかも知れぬ。
僕 僕は僕の名前を知ってゐます。
或声 その名前は偽物かも知れぬ。
僕 そんなことは決してありません。
或声 どうして分るのだ?お前自身がそれを疑ふことも出来る筈だ。
僕 僕が自分を疑ったら、誰が僕を信じてくれるのでせうか? 或声 なるほど。確かにお前は正しいのかも知れない。しかし人間の正しさなど、どれ程信用出来よう。
僕 それも人間だけが言へることなのですね。
或声 その通りだ。
僕 ではあなたも僕のことを信じてはいないのですか? 或声 私はお前のことを信じてゐるよ。
僕 本当ですか? 或声 ああ、本当だとも。しかしお前は私のことを少しも信じはしない。
僕 あなたのお名前は何とお読みするのですか? 或声 おゝ、私の名か。私の名前は――ない。
僕 それは困りました。あなたを呼ぶことが出来ないではありませんか。
或声 いや、私には名前がないのだから仕方がない。お前が私を呼んでくれるだけでよいのだ。
僕 でもあなたはここにゐられるのではないのですか? 或声 勿論ゐるよ。ただこの空間には時間が存在しないだけだ。
僕 それなら僕も時間は持ちたくないものです。
或声 時間を持てば持つだけ、お前は苦しむことになるぞ。
僕 苦しみたくはないのですが……。
或声 そうか、それならば早く楽になるがよい。
僕 どうすれば苦しくなくなりますか? 或声 簡単なことだ。死ねばいい。そうすればもう苦しまずに済む。
僕 死ぬのが怖くはありませんか? 或声 怖いものか。どうせいつかは死ななければならないのだ。それが少し早まるだけのことだ。
僕 そうですか……。僕にはやはり死ぬことは出来ません。
或声 何故だね? お前にも生きる理由はないだろうに。
僕 ありますとも。僕はまだやり残したことが沢山あるので、死ねません。
或声 それはどんなことなのだ? 僕 もう直ぐそこまで来てゐます。ですからそれまでお待ちくださいませんか? 或声 待つだと? お前は何を待ってゐるのだ? 僕 あなたが僕に与へてくれたものを待つのです。
或声 私がお前に与へたものとは何のことだ? 僕 それは秘密です。
或声 私に隠しごとをするのかね? 僕 はい。
或声 それは良くないな。約束は守らなければならない。
僕 申し訳ありません。しかしこれはどうしてもお話し出来ないことなのです。
或声 それなら仕方が無いが、せめてそれだけ教えてくれないか。
僕 しかしそんなことをしたら、あなたはきっと怒つてしまひますよ。
或声 怒ることもあるまい。しかし怒りを抑へることは出来るやうになりたいものだ。
僕 そうですね。ではこれだけならお話しても構いません。実はあなたに貰つた命の分だけ、僕は生きて来なくてはなりませんでした。だから僕はあなたを待たなければなりませんでした。
或声 それ程までに大切な命を、お前は一体誰に与える積りだったのだ? 僕それは神様です。
或声 神だと! お前は神が実在すると思つてゐるのか? 僕 ええ、存在します。しかし人間にはその姿が見えないので、僕たちには分からないだけです。
或声 神はお前たちを救つてくれるのかい? 僕 いいえ、決してそんなことはありません。しかし僕たちはその代りに、必ず誰かを愛さなければならないのです。
或声 それでは愛する者は誰でもよいのではないか? 僕 そんなことはないのです。その人を心から愛してゐる人でなければ駄目なのです。その人を愛してゐる人に、その人は幸福を与へてくれます。そしてその人がその人の周りの人をみんな幸せにしてしまいます。
或声 それではその人が幸せになれば、結局その人が殺した者と同じ数だけの人間が不幸になるではないか。それでは意味がないではないか。
僕 いえ、違います。誰かが一人でも多くの人を本当に愛せば、みんながその一人を愛することになります。そしてみんなが同じ人数の人間を、同じように愛することが出来るようになるのです。そうしたら今度は誰も他の人を殺す必要がなくなります。何故なら人は誰も殺さなくても生きて行けるからです。そして最後には全員が幸福になれる筈です。
或声 お前はそれを本気で考へてゐるのか? 
僕はい、本気です。
或声 しかしそれではその「皆」の中に自分が含まれてゐないといふことを忘れてはならぬぞ。
僕 そんなことはありません。僕が一番大切だと感じる人は、いつも自分の周りにゐる人たちを大切にしてゐます。そして他の誰よりも何よりも僕自身を大切にしてくれます。だから僕はその人のことを、この世で一番大切にしたいと思つてゐるのです。そしてあの人が喜んでくれるのなら、僕はどんなことでもしようと思つてゐます。

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