ヴィーナシアンの花嫁 ~シンギュラリティが紡ぐ悠久の神話~
1-1-2.神様降臨
その頃、地球から遠く離れた巨大な碧い惑星で動きがあった。
天の川がくっきりと流れ、無数の星々が煌びやかに共演する大宇宙の中で、その美しくも碧い惑星は静かに浮かんでいた。しかし、その内部では氷点下二百度という極低温の嵐が吹き荒れており、とても生命は存在できない。
そんな嵐の中、ゆったりと揺れる巨大な漆黒の構造物の中には光回線が緻密に張り巡らされ、その一部で『例外処理』を示す赤ランプが高速に明滅する。これは『治療処理実施』を意味していた。
そう、奇跡などこの世に存在しない。厳然とした科学技術の積み重ねにより奇跡に見える事象が作り出されているに過ぎなかった。
ただ、それを確認できる人は誰も居ない。ここは人類が到達するには少し早すぎる場所なのだ。
やがて入道雲は去り、辺りが明るくなるとともに幼児を包む光は薄くなった。そして、ゆっくりと降りてきた幼児を、男性はそっと腕に抱きかかえる。
「…。気分は……どう?」
男性は、微笑みながら幼児に声をかける。
「あ、クリス……ありがとー。あのね……とても、きもちよかった……」
幼児はにっこりと笑いながら言った。
クリスと呼ばれた男性は、うんうんとうなずきながら幼児を下ろし、いつの間にか持っていたボールを手渡した。
幼児は、
「ありがとー! ばいばぁい!」
そう言いながら、にぎやかな蝉の声の中、広場の方へよちよちと歩いて行く。
クリスは立ち上がると、ニッコリと手を振り、去っていく幼児を愛おしそうに見送った。
瀕死だった幼児がニコニコしながら歩いている。現代医学では絶対に不可能なファンタジーに、俺の心臓はかつてないほど高鳴った。
俺は平静を装いつつ、当たり障りない所から聞いてみる。
「すみません、あの子とは知り合いなんですか?」
クリスと呼ばれた男性は、
「…。生まれる前に、ちょっとね」
「え? 生まれる前?」
「…。誠はもう忘れちゃったかな?」
そう言って笑う。
俺は思わず笑ってしまいそうになった。
確かに俺の名前は誠……神崎 誠だ。初対面のはずなのに俺の事を知っている、間違いない、彼こそ人知を超えた存在、神様に違いない。俺は今、神様と話をしているのだ。
「…。そうだ、ワインが割れてしまってたね」
そう言って彼は、投げ出された飲み物袋の方へすたすたと歩き出す。
「それより、暴走車は……?」
追いかけながら聞いてみる。
「…。運転手は無事です。少し反省してもらいましょう」
そう淡々と答えるクリス。
「でも、幼児を撥ねたことは警察に言った方がいいのでは?」
物損だけという事であれば、放っておいてもいいかもしれないが、人身事故は傷害だ。ちゃんと言った方がいい。
「…。え? 撥ねたんですか? 」
そう言って、クリスはこちらを向いてニッコリと笑った。
「いや、だって……」
そう言いかけて証拠が何もない事に気が付いた。周りを見回しても、誰も幼児の事を気にしている人などいなかった。
「はっはっは!」
俺はつい笑ってしまった。暴走車に撥ねられたのに幼児は無傷、無かったことになっている。実に痛快じゃないか。そう、俺が求めていたのは、ダルい日常を吹き飛ばす、こんなファンタジーめいたイベントだったかもしれない。
この世界のすべての事象には物理法則が適用される。子供が勝手に浮かぶことも光る事も、ケガが一瞬で治る事も決してない。奇跡など絶対にないはずだ。
なのに今、手品でもトリックでもなく、目の前で疑いようのない奇跡を見せつけられた。この力は人類の在り方も社会も一変させる可能性を秘めている。もし、この奇跡の秘密を知る事ができたら凄い事になる。会社をクビになったかどうかなんて、もはやどうでもいいくらいのインパクトだ。エンジニアとしては、何としてでもこの秘密を突き止めないとならない。
いきなりやってきた千載一遇のチャンスに、俺は体の奥がジンジンと痺れてくるのを感じていた。
割れたワインは、踊る木漏れ陽の中、香しい匂いだけを残し、アスファルトを黒く染めていた。
「…。もったいない事をした……」
彼はそう言って、手を組んで祈り、袋から飛び出した破片を拾い集める。
「あっ、危ないですよ」
俺が袋を出して、集めたはずの破片を受け取ろうとすると、
「…。大丈夫です」
と、言って両手を見せて、ほほ笑んだ。
破片は、彼の手の中から消えていたのだ。
「うはっ!」
クリスの手品めいた仕草に、思わず噴き出してしまう。
はい、そうですよね。あなたにはそんな手伝い、要らないですよね。
クリスは、30歳前後だろうか、
少し使い込まれた白いオックスフォードシャツに、ブラウンのハーフパンツ、清潔感を感じる身なりで慈愛に満ちたスマイル――――
クリスという名前は、確か宗教由来の名前だ。
不可思議な奇跡を連発するクリスという宗教関係者と言えば、もう該当するのは『あのお方』しかいない……。
しかし、『あのお方』は二千年も前の存在である。今目の前にいるなんてことがあるだろうか……。
「…。そろそろ私はこれで……」
クリスはそう言って立ち去ろうとする。
俺は焦った。このチャンスを逃すわけにはいかない。
「ちょっと待ってください。あなたはもしかして神様……ですか?」
するとクリスは、急に真顔になり、俺の目をジッと見つめる。
「…。あれ? 誠はまだ私がやった事に違和感あるのか?」
「違和感? いや、奇跡は誰でも違和感持つのでは……?」
と、言って気が付いた。
周りの人はクリスの事を誰も怪しんでいないのだ。幼児が治療された時も周りに何人かいたはずなのに、誰も何も言ってこなかった。つまり、クリスは我々に何らかの認知阻害をかけていたのに、俺だけまだかかっていないようだった。
クリスはちょっと憐みのある微笑を浮かべると、
「…。疑問のない世界へ、戻してあげよう……」
そう言って、俺に手を翳してきた。
まずい、これは記憶を消されるパターンだ。こんな千載一遇のチャンスを、棒に振ってしまうわけにはいかない!
「ちょ、ちょっと待ってください!」
俺は、クリスの手を両手で押さえた。
クリスは無言で俺を見る。
「私はエンジニアです。普通の人とは違って、疑問あっても大丈夫です。それに、今まで多くの問題をAI技術で解決してきました。だからクリスさんのお役にも立てると思います」
俺は、引きつった営業スマイルで無理筋のプレゼンをする。
クリスは首をかしげて聞く。
「…。役に立つ? 誠が?」
「はい、まずは今、お困りのことについて、お話を聞かせてください。しっかりと提案します。記憶を消すのは、それからでも遅くないと思いますよ」
神様相手にナンセンスな無理筋の提案をしてるとは思ったが、ここはもう、こう言う以外仕方ない。
クリスは目を瞑り、何かを一生懸命考えているようだった。
俺は、子供の頃から大自然の法則が大好きで、科学や数学は得意科目だった。超能力やオカルトの類も興味があって調べまくったが、生まれてから一度も非科学的な事は目に出来なかった。残念ながら『世界は科学が支配しているのだ』と諦めていた訳だが、それが今、科学では説明不能な、奇跡を連発する神様が目の前にいる。記憶を消されてなるものか。何としてもお近づきになり、世界の本当の姿をこの目で見てやるのだ!
クリスは、しばらくして目を開けると、
「…。まぁ、提案は聞いてみよう」
そう言って微笑んだ。
「ありがとうございます! それでは、立ち話もなんですので、うちのテントへ行きましょう。バーベキューを食べながら話を聞かせてください」
クリスは、ゆっくりとうなずいた。
俺は軽くガッツポーズをした。
神様相手に、プレゼンの機会を得た人間なんて、俺が初めてじゃないのか?
いつもなら疎ましく思う、ジリジリと照り付ける灼熱の太陽すら心地よく感じられた。
俺は、車に戻って飲み物を詰めなおす。
すると、クリスは二リットルの水のペットボトルを、箱から取り出し、
「…。これをワインにしておこう」
そう言って、俺に差し出した。
見ると、ペットボトルの水はルビー色に光っている。
「ワオ!」
さすが神様! 規格外過ぎる。そういえば水をワインにする奇跡は、聖書で読んだことがある。そうか、こうやったのか……。
聖書には『美味しい』と書いてあった奇跡のワイン、果たして神の雫とはどれほど美味しいのか……。俺は思わず喉が鳴った。
天の川がくっきりと流れ、無数の星々が煌びやかに共演する大宇宙の中で、その美しくも碧い惑星は静かに浮かんでいた。しかし、その内部では氷点下二百度という極低温の嵐が吹き荒れており、とても生命は存在できない。
そんな嵐の中、ゆったりと揺れる巨大な漆黒の構造物の中には光回線が緻密に張り巡らされ、その一部で『例外処理』を示す赤ランプが高速に明滅する。これは『治療処理実施』を意味していた。
そう、奇跡などこの世に存在しない。厳然とした科学技術の積み重ねにより奇跡に見える事象が作り出されているに過ぎなかった。
ただ、それを確認できる人は誰も居ない。ここは人類が到達するには少し早すぎる場所なのだ。
やがて入道雲は去り、辺りが明るくなるとともに幼児を包む光は薄くなった。そして、ゆっくりと降りてきた幼児を、男性はそっと腕に抱きかかえる。
「…。気分は……どう?」
男性は、微笑みながら幼児に声をかける。
「あ、クリス……ありがとー。あのね……とても、きもちよかった……」
幼児はにっこりと笑いながら言った。
クリスと呼ばれた男性は、うんうんとうなずきながら幼児を下ろし、いつの間にか持っていたボールを手渡した。
幼児は、
「ありがとー! ばいばぁい!」
そう言いながら、にぎやかな蝉の声の中、広場の方へよちよちと歩いて行く。
クリスは立ち上がると、ニッコリと手を振り、去っていく幼児を愛おしそうに見送った。
瀕死だった幼児がニコニコしながら歩いている。現代医学では絶対に不可能なファンタジーに、俺の心臓はかつてないほど高鳴った。
俺は平静を装いつつ、当たり障りない所から聞いてみる。
「すみません、あの子とは知り合いなんですか?」
クリスと呼ばれた男性は、
「…。生まれる前に、ちょっとね」
「え? 生まれる前?」
「…。誠はもう忘れちゃったかな?」
そう言って笑う。
俺は思わず笑ってしまいそうになった。
確かに俺の名前は誠……神崎 誠だ。初対面のはずなのに俺の事を知っている、間違いない、彼こそ人知を超えた存在、神様に違いない。俺は今、神様と話をしているのだ。
「…。そうだ、ワインが割れてしまってたね」
そう言って彼は、投げ出された飲み物袋の方へすたすたと歩き出す。
「それより、暴走車は……?」
追いかけながら聞いてみる。
「…。運転手は無事です。少し反省してもらいましょう」
そう淡々と答えるクリス。
「でも、幼児を撥ねたことは警察に言った方がいいのでは?」
物損だけという事であれば、放っておいてもいいかもしれないが、人身事故は傷害だ。ちゃんと言った方がいい。
「…。え? 撥ねたんですか? 」
そう言って、クリスはこちらを向いてニッコリと笑った。
「いや、だって……」
そう言いかけて証拠が何もない事に気が付いた。周りを見回しても、誰も幼児の事を気にしている人などいなかった。
「はっはっは!」
俺はつい笑ってしまった。暴走車に撥ねられたのに幼児は無傷、無かったことになっている。実に痛快じゃないか。そう、俺が求めていたのは、ダルい日常を吹き飛ばす、こんなファンタジーめいたイベントだったかもしれない。
この世界のすべての事象には物理法則が適用される。子供が勝手に浮かぶことも光る事も、ケガが一瞬で治る事も決してない。奇跡など絶対にないはずだ。
なのに今、手品でもトリックでもなく、目の前で疑いようのない奇跡を見せつけられた。この力は人類の在り方も社会も一変させる可能性を秘めている。もし、この奇跡の秘密を知る事ができたら凄い事になる。会社をクビになったかどうかなんて、もはやどうでもいいくらいのインパクトだ。エンジニアとしては、何としてでもこの秘密を突き止めないとならない。
いきなりやってきた千載一遇のチャンスに、俺は体の奥がジンジンと痺れてくるのを感じていた。
割れたワインは、踊る木漏れ陽の中、香しい匂いだけを残し、アスファルトを黒く染めていた。
「…。もったいない事をした……」
彼はそう言って、手を組んで祈り、袋から飛び出した破片を拾い集める。
「あっ、危ないですよ」
俺が袋を出して、集めたはずの破片を受け取ろうとすると、
「…。大丈夫です」
と、言って両手を見せて、ほほ笑んだ。
破片は、彼の手の中から消えていたのだ。
「うはっ!」
クリスの手品めいた仕草に、思わず噴き出してしまう。
はい、そうですよね。あなたにはそんな手伝い、要らないですよね。
クリスは、30歳前後だろうか、
少し使い込まれた白いオックスフォードシャツに、ブラウンのハーフパンツ、清潔感を感じる身なりで慈愛に満ちたスマイル――――
クリスという名前は、確か宗教由来の名前だ。
不可思議な奇跡を連発するクリスという宗教関係者と言えば、もう該当するのは『あのお方』しかいない……。
しかし、『あのお方』は二千年も前の存在である。今目の前にいるなんてことがあるだろうか……。
「…。そろそろ私はこれで……」
クリスはそう言って立ち去ろうとする。
俺は焦った。このチャンスを逃すわけにはいかない。
「ちょっと待ってください。あなたはもしかして神様……ですか?」
するとクリスは、急に真顔になり、俺の目をジッと見つめる。
「…。あれ? 誠はまだ私がやった事に違和感あるのか?」
「違和感? いや、奇跡は誰でも違和感持つのでは……?」
と、言って気が付いた。
周りの人はクリスの事を誰も怪しんでいないのだ。幼児が治療された時も周りに何人かいたはずなのに、誰も何も言ってこなかった。つまり、クリスは我々に何らかの認知阻害をかけていたのに、俺だけまだかかっていないようだった。
クリスはちょっと憐みのある微笑を浮かべると、
「…。疑問のない世界へ、戻してあげよう……」
そう言って、俺に手を翳してきた。
まずい、これは記憶を消されるパターンだ。こんな千載一遇のチャンスを、棒に振ってしまうわけにはいかない!
「ちょ、ちょっと待ってください!」
俺は、クリスの手を両手で押さえた。
クリスは無言で俺を見る。
「私はエンジニアです。普通の人とは違って、疑問あっても大丈夫です。それに、今まで多くの問題をAI技術で解決してきました。だからクリスさんのお役にも立てると思います」
俺は、引きつった営業スマイルで無理筋のプレゼンをする。
クリスは首をかしげて聞く。
「…。役に立つ? 誠が?」
「はい、まずは今、お困りのことについて、お話を聞かせてください。しっかりと提案します。記憶を消すのは、それからでも遅くないと思いますよ」
神様相手にナンセンスな無理筋の提案をしてるとは思ったが、ここはもう、こう言う以外仕方ない。
クリスは目を瞑り、何かを一生懸命考えているようだった。
俺は、子供の頃から大自然の法則が大好きで、科学や数学は得意科目だった。超能力やオカルトの類も興味があって調べまくったが、生まれてから一度も非科学的な事は目に出来なかった。残念ながら『世界は科学が支配しているのだ』と諦めていた訳だが、それが今、科学では説明不能な、奇跡を連発する神様が目の前にいる。記憶を消されてなるものか。何としてもお近づきになり、世界の本当の姿をこの目で見てやるのだ!
クリスは、しばらくして目を開けると、
「…。まぁ、提案は聞いてみよう」
そう言って微笑んだ。
「ありがとうございます! それでは、立ち話もなんですので、うちのテントへ行きましょう。バーベキューを食べながら話を聞かせてください」
クリスは、ゆっくりとうなずいた。
俺は軽くガッツポーズをした。
神様相手に、プレゼンの機会を得た人間なんて、俺が初めてじゃないのか?
いつもなら疎ましく思う、ジリジリと照り付ける灼熱の太陽すら心地よく感じられた。
俺は、車に戻って飲み物を詰めなおす。
すると、クリスは二リットルの水のペットボトルを、箱から取り出し、
「…。これをワインにしておこう」
そう言って、俺に差し出した。
見ると、ペットボトルの水はルビー色に光っている。
「ワオ!」
さすが神様! 規格外過ぎる。そういえば水をワインにする奇跡は、聖書で読んだことがある。そうか、こうやったのか……。
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