生々流転 〜繰り返される夏休み〜

桐谷碧

美波の秘密

「今日はお客さんと会うから出掛けるよ、部屋は適当に使っていいから、帰るなら鍵はポストに入れて……、いや美波が持っててくれ、スペアキーあるし」

 彼女はその嘘をまったく疑う様子もなく陽気に「いってらっしゃ~い」と新婚夫婦のように玄関まで見送ってくれた。

 マンションを出ると歩いて一分の人形町駅に向う、今思えば駅から近いほうが何かと便利だという理由で決めたマンションだったが、駅を使う事など殆どないことに気が付いたのは住み始めて半年以上経ってからだった。

 人形町という街を知ったのは偶然だった、会社員時代の取引先がこの近くにあったので月に何度か足を運ぶうちに中央区という東京の真ん中にも関わらず、古い町並みの落ち着いた雰囲気が気に入った。基本的にはオフィス街なのであまり喧騒がない場所ではあるが夏休みということで休みを取っているサラリーマンも多いのであろう、何時もよりもさらに人は少なかった。

 地下鉄の階段を下ってスマートフォンを改札口にかざす、さらに階段を降りると駅のホームが現れた。北千住方面、つまり都心とは逆方向に向う日比谷線に乗り込むと空いている席に腰掛けた、車内はポツポツと空席があるが座っている中年女性から若い男に至るまで漏れなくスマートフォンをイジっている、ともすればそれは異様な光景であった、そう言えば自分がスマートフォン、以前は相棒と呼んでいた機器を最近ではあまり使用していない事に気が付いた。

 当然それは美波が入り浸るようになってからだが、二人で何もしていない時間でもスマートフォンを使用する時間が減った、そんな時間があれば彼女の事を考えていたかった。

『え、地元? 赤羽だけど知ってるかな』

 海の帰り道でさり気なく聞いた貴重な情報だった、それまでは人形町で生まれ育ったと勘違いしていたがどうやら夏休みに母方の実家に遊びに来ているという事だった。

 十七歳が夏休みの全てをおばあちゃんの家で過ごすという事に若干の違和感を覚えたが、もし美波が地元には居たくないと考えたら辻褄も合う、九月一日に自殺する理由が家庭の問題にしろ学校の問題にしろ赤羽にそのヒントがあると想察した。 

 十分もかからずに上野駅に到着した、調べによるとここで乗り換えだ、エスカレーターで上がり地下鉄の改札をでる、少し歩いて行くとJRの改札口が見えてくる、ここでも都心とは逆方向の大宮行きの京浜東北線に乗り込んだ、どんどん都心から離れていくがどうやら赤羽はギリギリ都内との事だった。

 十五分程で目当ての駅には到着した、思っていたよりも遥かに大きな駅に軽く舌打ちした、小さな街であれば情報も集めやすいが、これだけ大きな駅だとかなり困難な捜索になると予感した。とは言えこの方法で確実に情報を得られるとも思っていなかったので逆に諦めの境地に達した、美波が生まれ育った街を探索して歩くだけでも有意義な時間だ。

 スマートフォンの地図アプリを起動して美波から聞いた赤羽駅から一番近い中学校を表示させた。『赤羽第一中学校』どうやら歩いて五分ほどだ、少し歩くとアーケードの商店街が見えてくる、その中に入り少し歩くと商店街の中に突然その中学校は現れた。

 目の前にはパチンコ屋とゲームセンターがある、パチンコのパの部分だけが照明が壊れていて遠くから見るとチンコに見えた、中学校がある場所としては劣悪過ぎる環境のようだが、美波にような人間に育つのであればあまり因果関係はないのかも知れない。

 校門は開いているが中の様子を見ることはできない、しかし夏休みなので部活動の練習をしている可能性は高いと見ていた、全国を狙うようなソフト部なら尚更だ。

 時刻を見るとまだ昼過ぎだった、幾らなんでもこんなに早く部活が終わるとも考えにくい、せっかくなので中学校をぐるりと一周して見て回る事にした。校舎に囲まれてグラウンドの様子が伺えなかったが校門の丁度裏側に回ると急に視界が開けた、L字型の校舎はこちら側にはなくて金網のフェンスで囲ってある、もちろんグラウンドは丸見え、そこには威勢のいい掛け声とハツラツと白球を追いかける女の子達の姿があった。

 しばらく練習に釘付けになった、ソフトボールを見るのは初めてだが思った以上にレベルが高い、下手な野球部よりも上手いかもしれないと考えていた、すると何やら視線を感じる、視線の先には自分を見ながらヒソヒソと話す犬を連れた主婦らしき女性が三人いた、安易な彼女たちが考えている事はすぐに理解した、怪しい男が中学生をイヤラシイ目で観察しているとでも話しているのだろう。

 暇な奴らだ――。

 この程度の街に住んでいる人間の程度の低さを垣間見た気がした、そんな噂話をしている暇があれば無能な自分の子供の将来でも考えてやれ、心のなかで毒づくとその場を離れた。

 再び校門の方に出ると真っ黒に日焼けした中学生の男の子達が校門に吸い込まれていくところだった、すぐにピンときてその中の一人に話しかけた。

「君たち野球部かな?」

「はい、そうです」

「ソフト部がグラウンド使ってるけど」 

「午前と午後で交代制なんです」

「そうなんだ、暑いけど頑張ってね」

「ありがとうございます」

 白い歯を見せた少年は礼儀正しく頭を下げると颯爽と仲間の後を負っていった。ナイスタイミング、丁度ソフトボール部は練習が終わる時間だったようだ。しばらく待っていると制服に着替えた精悍な女の子達が出てきた、先頭を歩くショートカットの女の子に話しかけた。

「ちょっとごめんね、顧問の先生はいるかな」

「田淵先生ですか、ええ、職員室にいると思いますが」

「申し訳ないんだけど呼んできて貰えないかな、雑誌の取材なんだけど、少しインタビューしたいんだ」

 軽い歓声が上がった、自分たちの部が取材対象だと察したのだろう、彼女は待っててくださいと言うと、踵を返して校内に戻っていった。

 

「私こう言う者です」

 昨日急遽、名刺屋に発注した名刺を渡した。

『月間ベースボール現代  記者 斉藤 陸』

「記者さんですか?」

「ええ、ソフトボール部の特集を予定していまして、立ち話で構いません、少しお時間頂けますか」

 オリンピックの公式種目からも外されて、人気がある種目とは言い難いスポーツに取材が入ることに違和感を感じて警戒される事も予想したが、田渕と名乗る五十絡みの男性顧問は是非にといった態度で応じてくれた。

「赤羽第一中学校がソフト強豪校と呼ばれはじめたのはやはり田淵顧問の力量によるところが多分にあると思いますが」

 まずは軽く持ち上げておいて相手の口を滑らかにする事にした。

「いえいえ、彼女たちが精一杯頑張っている結果ですよ、そもそも野球部と同じグラウンドを使用しないといけないにも関わらずソフトが使用できるのは、人気のある野球部が優遇されて――、しかしながら――」

 少し水を向けただけで田淵は延々と話し始めた、主に比較対象にされる野球部との犬猿の仲についてだったが話を聞いてみるとなるほど、少し気の毒な気はした。

「しかしながらそんな環境のなかでついに、全国でベスト四に入る快進撃を見せた訳ですが、その時のメンバーは覚えていますか」

「もちろんですよ、すごい子達でした、特にエースの橘は絶対的な存在でした、しかし癖のあるメンバーをまとめ上げていたキャプテンの星野の存在は欠かせないでしょうな、どんな時も諦めない姿勢――」

 ビンゴ、早速お目当ての名前が登場した

「あれから九年、ずっと全国大会出場は逃していますが今年のメンバーは凄いですよ、もしかして記者さんもそれを聞きつけ――」

 あれから九年――。

 彼は何を言っているのか、美波が中学三年で全国大会に出たのならば二年前の間違いだろう、まだボケるような年齢には見えないがなぜか心臓の鼓動が速くなるのを感じた。

「田淵顧問、全国に行ったのはその一回だけですよね?」

 話を遮って質問した。

「ん? そうですよ、後にも先にもその一回です」

「それは二年前の事ですか?」

「いやいや、もう九年前になるよ、あの時のメンバーもすっかり大人になってね、二年前なんか当時の連中で集まって酒を酌み交わした時は時間の流れが――」

 ボケた訳でも冗談を言っている訳でもなさそうだ、念のために確認する。

「あの、先程の星野と言うのは星野美波さんで間違いありませんか」

「みなみ、みなみ……、名前ですか、そう言われてみると自信がないなあ」

 僕はスマートフォンを取り出すと、一昨日、海で撮影した美波の写真を田淵に見せた。

「この女の子ですよね」

「そうだ、そうだ、懐かしいな、すごい美人で男子生徒に人気があったなあ、あんなに明るい子がまさかねえ……」

 急に歯切れが悪くなる、混乱する頭と上がり続ける心拍数で目眩がした。美波は年齢を偽っていたのか、何の為に。それよりも田淵が濁した会話が気になった。

「何かあったんですか、彼女に」

「うーん、私もその時の集まりで知ったんだけどねー、当時のメンバーが全員集まっているのにキャプテンの姿がない、星野は欠席かと聞きましたよ」

「それで」

「ええ、星野は高校二年の二学期が始まる日に自殺したそうです」

 



 それからの記憶が曖昧だった、どうやって帰って来たのかも覚えていない、人形町に着いても家に帰らずにカウンターがある飲み屋に入った。もしまだ家に美波がいたらどんな顔をしていいか分からなかったからだ、不思議と恐怖心はなかった。もし何かを恐れているのだとすれば、それは彼女を失ってしまうことだ。例え幽霊だろうと自分のそばにずっと居てくれていい、程度の低い人間達といるよりも百倍良かった。しかし自分が真実を知ってしまった事で彼女がいなくなってしまうのではないか、その恐怖を考えると家にも帰れずシラフでもいられなかった。

 午前様を過ぎて酩酊状態になった所でようやく店を出た、流石にこの時間では帰っているに違いない、もっともどこに帰っているのかは不明だが。

 それでも玄関を開ける時には緊張が走った、電気は真っ暗で人がいる気配はない。電気を付けるとダイニングテーブルにメモが置いてあった。

『海斗くんへ お仕事お疲れさまです。 お鍋にスープを作っておいたから夜食にどうぞ。 あなたの愛する美波より』

 ふっ、小さな笑みがこみ上げた、なに言ってるんだか小娘が、いや待てよ、実際に生きていれば二十四歳のはずだから、まあそれでも小娘か……。しかし二十四歳ならば二十八歳の自分と一緒にいてもなんら不思議ではないのでは。

 そこまで考えて馬鹿らしくなった、十七歳だろうが二十四歳だろうが美波は美波だ関係ない、年齢で人を好きになったり嫌いになったりする訳じゃないのに、どうして年の差があると変異な扱いを受けてしまうのだろうか。結局嫉妬か、自分にできないことを他人がやろうとしたり、やっていたりすると悔しくて仕方がない、しかし認めたくないというチンケなプライドは相手を避難することで溜飲を下げているに違いない。

 下等な生き物――。

 結局、他人に対する評価は高校三年の頃から変わることはなかった、美波に出会ったことでその想いはより強固になった節さえもある。

 十七歳の美波を絶望させたこの世の中を憎んだ、死んで彼女の元に行けるのであれば、今すぐにでも死んで構わない。シンクの下から包丁を取り出すと首筋に当てる、ひんやりとした刃物の冷たさが心地よかった、このまま頸動脈を切れば美波の元に行けるのだろうか、分からなかった。

 包丁を元あった場所にしまうとコンロに火をかけた、せっかく作ってくれたスープを飲まないのは勿体ない。琥珀色のコンソメスープには具が沢山入っていた、ウインナー、ブロッコリー、人参、玉ねぎ、自分の好物ばかりのスープを飲んでいるとなぜか涙が溢れてきた。

「美波……」

 会いたい――。

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