サイエンスがいっぱい

清水レモン

せっかくだからあらためて自己紹介

「この教室とても静かでしょ」と彼女が言う。
うん。たしかに。ていうか。
「静か。静かだけど。静か過ぎる。なにも聞こえない」おれは答える。
「ね」と彼女うなずく。
あれ?
会話ができて。いる?
前に自分ひとりのとき試したんだが、どんなに声を出しても音が出ている気がしなかった。
自分の声が吸収されていく感じが。今日は、ない。
「落ち着くよね~」と彼女は言いながら「ここ?」
おれの隣あたりを指す。
「うん」いいよ。ていうか、どうぞご自由になんだけど。
「よかった~断られたらどうしようって」思ってたのか?
「なんでまた」そんなことするわけないのに。て、知るよしもないからか。
「これだけ広いのに、なんでわざわざ隣に。て言われたらそれまで」と彼女は肩をすくめる。
「そんなこと? 気にしててもしょうがなくない?」
「それがさ。それがよ。気にしていないとへこまされるんだって」
「へこまされる」
「そ。へこまされるの。なんで隣? て。別にいいじゃんて思う。けど」
「ちなみに友だちとか知り合いとかじゃなくて?」
「いちおう友だち。の、つもり。知り合いの隣じゃないと勝手に座らないよ」と彼女は言ってから、しばらく天井を見上げる。首かしげるみたいに視線を漂わせてから「よほど満席でもないかぎり」おれを見て言った。
「まずここで満席は、ないよね」
「ないよね~」
「そもそも満席になる教室あるのかな」
「あるよ」
「あるの?」
「うん。ある。あるある。だって日本史とか古文とか大人気すぎて入るのやっとだよ」
「そうなの?」
「知らないの?」
知らないなあ知らなかったな。おれ独り言。
独り言に反応するかのように、
「知らないかあ」と彼女も独り言みたいに。こっちを見ないで、視線は壁か天井の方向。よそを見るときの彼女の横顔が、急に別人のように見える。表情が異次元だ。
ここは自習室。
おれは初めて誰かと会う。
自習室で人と話をするのも初めてだった。

「勉強中。だった?」と彼女が訊く。
「うん」おれは嘘をつく。
「邪魔してごめんね~」あやまってる感じがしない。
「邪魔されるのは、むしろ好き」おれは言う。
「好き?」と彼女おれを覗き込む。
好き。好き!?
言葉の切り方が、なんかアレだなアレていうか、あれだ。その挑発的にも見える。
「好きだよ」と、おれは彼女に真顔で言った。告白のイメージで。
彼女が黙る。瞳おおきく見開いて。
え。
えっと。
沈黙なんて秒単位のはず。だから、どうってことない。はず。
なのに、なんでだろう。なんでだろうか。
へんな答をしたみたいな気分に襲われる。
顔の温度が高くなる感じがするのと同時に、視線を外さない彼女がニヤ。って。
ニヤって。
ニヤ! 
って、なんだよなんだよ。
「そっか~」視線はずさないまま「そうなんだ~」つぶやき続けている「そっかあ」いやこれなんだなんなんだろ視線おれがそらしたら負けなのか「そうなんだね~」なにその反応「そっかそっかそっか」心なしか、まばたきすらしていない気がした「そうなの?」
そうなのって。そんな、なんの質問。なんに対しての。と自問自答した瞬間に、
「そうだったのね」と彼女が納得して言う。
そうだったのね。納得?
なんの話だった。っけ?
そうだった。んだよ、んだ。んだけど。
あくまでも『邪魔してゴメ』『いやいや平気だよ』的な、よくあるただの会話だった。はず。あれ。あれれ。あれれれれ?
やばいな。おれがへんなこと意識した精で、ヘンな方向に意識が向いてしまった。完全墓穴のロックンローラー状態。いやいやいや。これ、なに。やだな。どいて。てか、立ち去りたい。
ふふーん。と彼女の吐息。
ふふーん?
そんな吐息音するもんなんだ。
ためしに、おれも。ヴヴふぅん。
「え?」と彼女。
「どうかした」
「なにいまの!」
「いまのって?」
「いまの。ほら、ほらほら。なんか、その。なに。ぶぶぶーん。て」
「言ってないよ」
「言ってないよ? 言ったわよ! ひとこばかにしたみたいな。え。なになになに!」
「あ。気を悪くしたらゴメン」あなたの真似をしてみただけなんです。あなたの吐息音を真似て失敗してヘンな音が発せられただけ。それだけのこと。です。
だからそれ以上あんま指摘しないでくれよ。
「え!?」
「え。て、どした」
「どしたって。なんかさ、それ。ぶぶぶー。て」
「そんなこと言ってないよ?」
「聞こえたの。うん確かに言ってないかもだけど。でも。聞こえた。わたしばかにされた? みたいな」
「誤解と勘違いと聞き間違いだよきっと」
「え! うそ!! ヤダやだヤダわたし。ったら。またへんなことしちゃって。た?」と彼女は明らかに動揺しているような振る舞いと表情。冗談。では、なさそう。あれれ。なにかむしろ困っているようにも見える。
へんな会話の空気を作り出したのは、おれのほう。だから恥ずかしくなって消えたくなったんだけど、それとはまた別次元の波動が生まれてしまった。
これは。
これは、これは。
おもしろいかも!
しれない。
「ばかになんてしてない。すねはずない。しようがない。なんでそんなふうに思った? むしろそっちが気になる」
「ばかにされるのヤなの。だめ。ばかにされると笑えない。わたしのせい? わたしのせい? わたしの?」
「ばかにしてません。ばかは、おれ」
「話が見えないんだけど?」
「おればかだから気にしないでよ。ばかだからヘンなこと言うし、へんな態度になるし、へんな呼吸になる。ていうか鼻かんでいいですか?」
「え! あ。あー~~はい。ハイどう。ぞ?」
「失礼いたします」
ちーん。
やっちまった。
あまり女子の面前で鼻かむなんてしたくないんだけど、猛ダメ限界さらさらのが出てきちゃってた。さらさらの鼻水がおくから怒涛のように流れてくる気配。
むしろ間に合って良かった。
もっかい。ちーん。
彼女おとなしく、おれを見ている。
おれはティッシュペーパーを、これどうしよう。鼻の穴の当たりもほじくるようにティッシュで拭きたいんだけどな、とか思いながら、そうだ横向けばいいんだ、と。おれは横を向く。で、もっかい。ちーん。ティッシュで拭き拭き拭き。
「失礼しました」と向き直った。
「いえいえ」と彼女が言う。表情は落ち着いている。ように見える。
彼女はカバンから予備校テキストとバインダー式ノートとカラフルな花模様のカバーがかかった文庫サイズの本を机に並べた。
なんとなく、その眺め。
なんだろう、この眺め。
いやされる。

授業と違ってチャイムが鳴るわけじゃない。
なんの合図もないし、区切りもない。
自習室ならではの自由な空間が広がっているだけ。
かなり広い。ほんとうに広い。自習室。なにここ。ていうくらい広い。
隣に女子が座っている。わざわざ隣すぐ隣それもピッタリくらい隣に座っている。
余計に広く感じる気がする。
ええと。でもな。でもさ。
知り合いなのか。な?
おれは初めてだと思った。
でも彼女おれを知ってるって。知り合いって。言ってた。あれ? そんなこと言ってなかったか。かな?
動揺したつもりないけど動揺したんだろうな、おれ。よくある話いつものこと。
誰なのかわからなくて『ええと』ていうのも、よくある話。
だから落ち着こう。
きっと知り合いだ。
おさななじみ。では、ない。
学校の同級生。な、わけない。
おなじ地元の子?
かもわからない。
昔どこかで?
たとえば塾。
あるいは予備校。
もしかして塾。
あるいは予備校。
あれ。あれれ。あれれれれ?
さぐればさぐるほど記憶が煙って霧がかかる。
あのさ。と小さな声で彼女が言う。
うん?
おれも小さな声で。あれ。小さな声で聞こえるし届くのか。
なんだか今日の自習室は変な感じ。
『教えて欲しいこと。あるんだけど』と彼女。
口元に手。口元の手のひら。なにその仕草。
ひそひそ話みたいな。ひめごとみたいな空気感。
思わず息を飲んだ。空気を飲む音ノドで響く。うわ。やな音だな。聞かれたか。聞かれてないよな。聞かれてない聞かれてない。うん。
声は届いて会話になっているけれど、小さな物音は消えている。はず。
「うん」と小声で、おれうなづく。
「気を悪くしないで。ね。ほしいん。だけど」
「うん」おれは言う、なんか知らんけど、うん、どうぞなんでも訊いてくれてかまわない知らないことなら答えられない、それだけのことだから「なんだろ。どうぞ」
「あのね」
はい。
「なまえ」
はい。
はい?
ヤバ。知り合いなのに彼女の名前を知らないことに気づかれたか。
なまえ。
なまえ。
名前、名前名前、苗字、姓、名、なまえ名前なまえ苗字なまえ姓。
あー!
ぜんぜん思い出せない!
しょうがないか。ま、いっか。
おれ観念する。観念した。正直になろう。聞かれたら答えよう素直に正直に。
「うん?」と、おれは次の彼女の言葉うながす。
「あのね」彼女が言う「きみの、あなたの、なまえ。おしえて」
おれは瞬時に意外と驚愕と安堵に包まれた。
「えー」おれは声を漏らす。漏らした。漏らすつもりないのに。しまった。
「ごめんね。なまえ教えて欲しい。教えて。なまえ。教えてください」
えー。
と。
「どうしてもその思い出せなくて、思い出せなくてその、あ、だからね。ね。ていうか。なまえ」
おれはチャンスだと確信した。彼女まだなにか言葉を続けそうだったし、ほっといてもいいかなってチラリ思ったんだけど、
「あきらだよ」
はっきり。言った。
いつもより口角あげたつもり。にっ。はっきりハッキリはっきりと、宣言のように。
あきらだよ!
と言った。で続けてすかさず「せっかくだからあらためて自己紹介にしようよ? この自習室では初対面なわけだしさ!」
「ありがとう。やさしいね!」
「あきらだよ。名前呼んでよ」なに言ってんだおれ。
「あきら...さん..うん。そう。そうそう。おいかわくん。ね?」
うん、とおれはうなづく。
なまえはともかく苗字を知っていたのか。ていうことは確かに知り合いなのかも。しれない。そうかもしれないな、知り合い。
で。
君の名は。言って言って言ってよ言って。早く言ってよ言って言って言って。たのむ教えてください教えてくださいませ、ませませませ!
思わず祈る。祈ったよ。
「わたし。あかね。のきなみあかね。です。よ」
あ。
その名前、知ってる。
覚えが。あった。
漢字にすると、軒波亜科子。
幼稚園で一緒だった。卒園のタイミングで引っ越していった。知ってる覚えてる。
あらためて彼女を見た。
やっぱり知らない別人の顔をしている。そんな気がしてしまった。

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