私の想いが開花するとき。

森本イチカ

3

 眩しい朝日に逆らいながら歩き進めて自分の家の扉を開けた。健治は家にいるようで靴が無造作に脱ぎ散らかっている。
(嫁が朝まで帰らなくてもなにも心配しないのね)
 いっさい連絡がなかったことに改めて自分の存在の意味を思い知らされる。居ても居なくても気にならない存在なのだ。いつもならきちんと靴を直してあげるが今日はそのままばらばらに飛んでいる健治の靴を横目に自分の靴をきちんと揃えた。


「ただいま」


 バクバクと心臓はうるさいのに気持ちは物凄く落ち着いている矛盾の中家に中に入る。寝室をそっと開けると健治はぐぅぐぅと寝息を立てていた。その光景にふっと笑いが込み上げてくる。ああ、やっぱり心底健治は自分に興味がないんだなぁと思いながら静かにドアを閉めた。
 ザワつく気持ちを落ち着かせるためにシャワーをさっと浴びて、インスタントのコーヒーを淹れた。明るいリビングの中ソファーに腰を下ろしコーヒーの香りをたくさん吸い込んだ。はぁと息を吐いた瞬間ガチャリとリビングのドアがあき、健治がだるそうに頭を掻きながら起きてきた。


「はよ」
「おはよう」


 何時に帰ってきたの? どこに行ってたの? なんの一言もなく健治は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しごくごく飲み始めた。
(もしかして私が朝帰ってきたことにさえ気づいてないの?)
 里穂はゴクンとコーヒーを一口飲み、コーヒーの揺れる表面を見つめながら口を開いた。


「昨日ね、久しぶりに健治が結婚する前に連れて行ってくれたバーに一人で行こうとしたの。でもね、入れなかった。なんでだと思う?」


 健治にゆっくりと視線を移すと初めて見る表情をしていた。皮肉なものだ。昨日から健治のいろんな表情をみているなんて。そして自分ではあんな写真のような、あの人に向けられていた顔を見せてもらえることはきっと永遠にないだろう。


「知らない。なんでだ?」
「健治がすごく幸せそうな顔してたから。あなたが男の人とラブホテルに入っていくのをこの目で見たの」
「……そうか」


 健治はシンクに視線を落としなにも言ってこない。健治がなにを考えているのか一年一緒に過ごしてきはずなのに里穂には全く想像することが出来なかった。
 里穂はポケットから外した指輪を取り出しカタンと小さな音を立ててソファーの前のローテーブルに置くと、その音に反応したのか健治が顔を上げ、驚いた顔を里穂に見せてくる。
(また、健治の新しい顔が見れた。それがこんな時だなんて、ね)


「あの人のことが好きなの?」


 健治からの返事はない。その代わり今まで見たこともないような青ざめた顔を里穂に見せた。


「あのね、私健治とならごく一般的の幸せな家庭が築けるんじゃないかなって思って結婚した。でもずっと一人で寂しかった」
「里穂……」


 自分はなんて都合のいい言葉を並べているんだろう。それでも気持ちはもう変わらない。もう自分の心の中に健治は一ミリもいないのだ。


「離婚しましょう」
「本気か?」


 もう驚く様子もなく、いつもの表情のない健治に戻っていた。


「私も健治もお互いに最初から結婚に対して本気じゃなかったから、こういう結果になったんだと思う。私、健治が私のことをいつかは求めてくれるんやないかって思ってた。そしたら私も健治のこと本気になれるかもって、でもたった一回しか私達セックスしてない。会話だって最低限、よく言えば同居人みたいなものだったよね」
「それは……そうだな」
「でも健治だけを責められない。私だって健治に歩み寄ろうとしなかったから」
「里穂……」
「……ごめんね」


 健治だけが悪いんじゃない。罪悪感からなのか、それとも本当に少しは健治のことを愛していたのか、瞳から流れ出しそうな涙の理由が自分でも分からなかった。


「好きな奴と、なにか進展でもあったのか……?」


 思いがけない言葉に動揺が隠せない。心臓がバクバクと壊れそうなくらい大きく鳴っている。


「……私に好きな人がいるって気づいてた、の?」
「ん、ああ。僕のことも好きじゃないってのも最初から気づいてたよ。むしろ僕にはそれが好都合だと思って里穂と結婚したんだ。周りは結婚結婚ってうるさいし、でも男同士じゃ結婚なんてできないだろう? 誰にも自分がゲイだって打ち明けてないんだ」
「っ、ごめんなさい……健治は気づいてくれていたのに私はなんにも気づかないで」


 ずっと自分に興味がないのだとばかり思っていた。そう思っていたのに一番遠くにいると思っていた人が一番里穂の気持ちに気づいていたなんて。


「里穂、幸せになれ。僕は里穂を恋として好きにはなれなかったけど、人としては好きだったよ。ずっと騙しててゴメンな」


 里穂の瞳から溢れ出すように涙が流れ落ちる。最後の最後にこの人のために流せ温かな涙がこんなにもあったなんて。


「拭きな」


 健治が手渡してくれたタオルでぐしゃぐしゃになった顔を拭きながら、しばらく泣きはらした。健治は里穂に振れること無く、ソファーの隣に座ることもなく、ただただ、泣いている里穂をキッチンからさりげなく見ている。
 何分間泣いていたかは分からないけれど、この場にずっといることも辛くて、申し訳なくて、いろんな気持ちが入り混じり、居た堪れなくなった。



「あ、あの、荷物は後で取りに来ます」
「あ、ああ。分かった」


 まさか自分が不倫漫画とかでよくある言葉を使うとは思ってもいなかった。タオルを握りしめたまま立ち上り、健治の顔を見ること無く玄関に進む。健治が後を追いかけてくる様子もなく、里穂は躊躇なく玄関を出た。


「あっけなく終っちゃったんだな」


 お互い嫌いでこんな結果になったわけじゃない。お互い嫌いじゃないけど、他に好きな人がいたのだ。
(とりあえず、実家に帰る? いやまだなんて言えばいいか考えてないし、とりあえずビジネスホテルに泊まるしかないか)
 一度立ち止まりスマートフォンでビジネスホテルを検索した。
(わ、結構この辺にもビジネスホテルって色々あるんだな〜) 


「里穂」


 低くて優しい声。やっと落ち着いた涙がまた溢れ出しそうになる。後ろを振り返ると大好きで、忘れられなくて、声だけで泣きそうになるくらい心を揺らがしてくる大好きな人が居た。


「宏太……どうして?」
「里穂が泣きながら出てくるんじゃないかなぁと思って。正解だったな」
「宏太……」
「おいで、全部俺のせいにしていいから。俺がもっと早く里穂に気持ちを伝えてればこんなに里穂を泣かさなかったのに……でも、それでもお前が欲しかった」


 大切にするはずだった人を傷つけても、私の本能はこの男を欲しがっている。
 両手を広げて受け入れてくれる宏太の胸の中に飛び込んだ。
 好きで好きで、息が詰まるくらい、好き。

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