私の想いが開花するとき。

森本イチカ

2

 あれから里穂は必死で自分に言い聞かせた。
 自分には夫がいる。自分はもう結婚しているのだ。そう何回言い聞かせただろう。
 とにかく忙しくしていれば少しは頭の中から宏太が消えてくれ、必死で仕事を進めては他の人の手伝いも積極的に引き受けた。カチャカチャとキーボードを叩き、仕事に没頭していると「里穂」と大好きな声で呼ばれて、また心臓が跳ね上がる。恐る恐る後ろを振り返るとやはり宏太が立っていた。


「ど、どうしたの?」
「里穂、今日暇? 同期の皆が俺のお帰り会するって張り切ってるんだけど、里穂も来れるか?」
「あ〜、ごめん! 今日は早く帰らなきゃいけなくて、ごめんね」


 ごめんっと両手を合わせ、里穂は笑って見せた。
 本当は早く帰らなきゃなんて、そんなことはない。今日だってきっと健治は早くに帰ってくることはないだろう。だけど、少しでも近い距離に、長い時間一緒に宏太と過ごしたらきっと宏太の手をもう振りほどけ無い。それくらい宏太を男として更に意識してしまっているのだ。


「そっか、今日は旦那が早く帰ってくるんだな。良かったじゃん! じゃあ里穂はまた今度な」
「うん、また誘って」


 宏太は里穂の頭をぽんっと軽く叩いて「はいよ〜」とひらひら手を振りながら帰っていった。
 宏太に触れられた頭はまだ熱をしっかりと持っていて脳がくらくらする。


「……なにがまた誘ってよ。行ったら駄目なことくらい自分が一番よく分かってるはずなのに」


 はぁ、と大きく溜息をついた里穂はデスクにがんっと額をぶつけた。どうしていとも簡単に宏太は里穂の気持ちを揺さぶりかっさらっていくのだろう。自分には夫がいるのだから。何度もそう言い聞かせるがそれでも答えはもうすでに里穂の中では分かっていた。
 ただ、認められないだけ。
 もう一度あの唇の熱に触れたい。そう思っては駄目だと頭の中で繰り返しても、結局最後は宏太への想いが溢れ出してしまう。
(あぁ、駄目だ。もっと健治との思い出に浸れば宏太への思いももう一度蓋ができるはず……)
 時刻を確認するとまだ夕方の六時半だ。健治とのデートで行ったことのあるバーにでも寄ってみようかと考えて里穂は一人で会社を出た。
 健治との数少ない思い出の場所。一度だけデートで行ったことのあるバーが会社から三駅ほどは離れたところにある。一人電車の人混みに紛れて思いでのバーに向かった。
(懐かしいな……)
 薄暗い夜になりかけの道に小さく光る看板が見えててきた。まだお見合いしてすぐの頃に健治に連れてきてもらったバーはとてもオシャレで普段おじさんたちが賑わうような居酒屋しかいかない里穂にはとても新鮮で輝いて見えたことは今でも覚えている。
 カランカランと扉が開くたびにどこか懐かしい鐘の音が鳴るのがこの店の良いところだ。外にいても小さく聞こえてくる扉が開く音に目線を向けると男の二人組が仲睦まじく腕を組んで出てきたところだった。
(時代だな〜。同性カップルなのかな?)
 あぁ、そう言えば自分も昔はああやって健治とあの扉を出てきたっけ。
 懐かしいなぁなんて思った矢先だ。腕を組んでいる男の顔が看板の小さな明かりに照らされてはっきりと見えた。


「え……?」


 ――健治だった。
 見間違えただろう、そう思いたくてもしっかりと見れば見るほど自分の夫の健治にしか見えなかった。健治は普段はシックで落ち着いた色のネクタイを好んでつけているはずなのに今日に限って赤色ストライプと派手なネクタイをつけて家を出ていったのでよく覚えている。短く整えられた黒髪にスーツ姿、そして赤のストライプのネクタイ。
 パシャ。


「今どきのスマホって本当に画質がいいんだよなぁ」


 案外冷静にバックからスマホを取り出して写真を撮っている自分がいた。画像をアップすればよく分かる。優しい顔をして相手の男の顔を見つめている健治の顔がなんだか別の人のようだった。
(こんな顔、私には見せたことないな……)
 里穂はお店に入ること無くそのまま健治と男の後をゆっくりと着いていった。取り乱して涙を流すこともなく、ただただ二人の背中を見つめながら歩く。もしかしたら心の奥底ではもうこうなる展開が予想できていたのかもしれない。


「ははっ……」


 笑いがこみ上げてくる。健治と男はなんの躊躇いもなく流れるようにラブホテルへと消え去っていった。ラブホテルの前で里穂は一人立ち尽くし身体の奥底から湧き上がる悲しみが乾いた笑いとなって口から溢れ出してくる。
 なんて惨めなんだろうか。
 確かに自分も心の中には特別に好きな人がいた。それでも健治となら夫婦としてやっていけるような気がしていたけれど、きっと健治の中では最初からこの関係はおわっていたのだろう。だって一度しか身体を重ねていないのだから。それにその理由も健治が男の人とラブホテルに入った事で分かったような気がした。その事実に対してもっと早く気づいて、もっとお互いに話していたら少しは違ったのだろうか。それとももっと積極的に自分から誘っていればまた違った未来があったのだろうか。いや、多分根本的に無理だったのかもしれない。健治はきっと同性愛者だったんだ。ぽっとでの女との浮気なんてレベルじゃない。あの二人はきっと長い期間誰にもバレないように愛を育んでいたのかもしれない。自分との結婚はきっとカモフラージュてきなところだろうか。似た者同士が結婚するってよく聞くけど本当だ。自分だって宏太への思いのカモフラージュとして健治と結婚したのだから。
 手でギュッと握っていたスマホが震えた。
 宏太からの着信だ。
(なんでこんなタイミングで……)
 なかなか鳴り止まないスマホは里穂の手の中で長く震えている。


「もしもし?」
『もしもし里穂? みんなが里穂呼べってうるさくてさ。もう家ついちゃった? 一杯だけ顔出さない?』


 居酒屋にいるのだろう、わいわいした周りの声が宏太の電話越しに聞こえてくる。それでも宏太の声は鮮明にしっかりと聞こえ、宏太の声を聞いただけなのに涙が視界を歪めて周りがよく見えない。


「あ〜、ごめん。もうそろそろ電車きちゃうから」
『里穂、お前今どこ? 迎えに行ってやる』


 周りのガヤガヤとした音をかき消すような宏太の低くて太い真剣な声色にドクンと心臓が大きく高鳴った。宏太は里穂の少しの変化にも昔からすぐに気づいてはフォローしてくれたりと世話を焼いてくれていたのだ。もしかしたら泣いているのを気づかれたのかもしれない。必死で声を殺して普通を装っていたはずなのに、呆気なく宏太には見破られてしまう。夫の健治は里穂の変化に一切気づかなかったのに。気づかないというよりも興味がなかったのだろうと今日、今、実感してしまった。


「……帰るよ」
『里穂、俺がお前を迎えに行きたいの。すぐ行くから待ってろ一人で帰るな』


 どうしてこの声はぐちゃぐちゃに溶かすように感情をかき回すのだろう。会いたい。宏太に会いたい。ずっとずっと大好きだった宏太の声だけでこんなにも身体は熱くなり心が一瞬で宏太に引き抜かれていく。


「……M駅の近くのラブホテル」
『は、はぁ!? 今から行くから動くなよ! 絶対にな!』
「ううっ……うん……ごめ、こうた……」


 瞳の縁にしがみついていた涙は力が抜けたように一気に落ちた。それでも必死で声を押し殺して流れてくる涙を手のひらで何度も拭うけれどなかなか止まらない。むしろ泣くな、泣くなと強く思うに連れ思いとは反対に身体は感情をむき出しにしようとする。


「里穂っ!」


 勢い良くタクシーから出てきた宏太は里穂をぎゅっと力強く抱きしめた。


「宏太……」
「お前こんなところでなにしてんだよ!」
「ごめっ、でも、ここに入っていちゃってさっ、ははっ」
「もういいから、お前俺んとこ来い」


 宏太の真剣ですこし怒った顔が里穂の視界をいっぱいにする。


「こう、んっ……」


 宏太の息を直に感じた。燃えるように熱くて舌が溶け出しそう。何度も何度もキスの合間に息を吸い直し唇が二人の液ですべるたびに紡ぎ直した。
 ぶわっと涙が溢れ出す。宏太が好きだ。大好きだ。
 健治が里穂の知らない人、しかも男と不倫していた事実も辛かった。本気で好きではなかったとはいえ、家族になろうと決めた人だったから。けれど里穂も本気で健治のことを好きではないことが健治にも伝わってしまっていたのだろう。健治の不倫は自分のせいだ。それに健治だけを責めるなんてことは出来ない。こうして抱きしめられているこの腕を自分はいっさい振りほどこうとしないのだから。宏太のことがどうしても忘れられなかった自分のせい。


「来る、だろう……?」
「ん、いく」


 こうなったのは自分のせいとだと思っていてもこの手を振り解けない浅はかな女なのだ。手をぎゅっと握りしめられタクシーに乗り込む。バックミラーに映る運転手さんの気まずそうな顔にはっと我に返り恥ずかしさでどうにかなりそうだった。それでもこの手を解かないのはもう宏太への気持ちを抑えられないから。



 タクシーを降りてからも離れることのない手を引かれ宏太のアパートの玄関ドアをくぐってしまった。
 もう後戻りは出来ない。


「へっ!? ちょっと宏太!?」


 ひょいっと身体を横抱きに持ち上げられ宏太はずんずんと部屋の奥へと進んでいく。里穂はもう覚悟を決めて宏太の首に手を回した。
 ゆっくりとベットに背をつけられ、宏太は里穂の上に跨ると、早急に着ていたワイシャツを剥ぐようにして脱いだ。


「里穂、ずっと好きだった。やっぱり転勤になる前にお前に告白しておくんだったってすげぇ後悔してる」


 宏太は壊れやすいガラス細工を触るように里穂の頬を優しく包み込む。


「宏太、私も本当はずっと宏太のことが好きだった……今だってっ、んっ」


 言葉を遮られ、口塞がれた。舌を絡ませ深い口付けになり息が荒々しくなる。


「んっ……んぅっ、んんっ……」

 ぎゅっうっと抱きしめられ背中に回ってきた腕の力も強い。負けじと里穂も宏太の背中に腕を回し、しがみついた。酸欠になりそうだ。宏太とのキスは身体が溶けそうになる。


「里穂」


 宏太の顔を見上げると初めて見た表情をしていた。
 こんなに艶っぽくって雄の目をした宏太なんて、初めて見る。それが嬉しくてじわりと泣きそうになった。もう健治のことなど頭の隅にもなく全部宏太で埋まっている。誰も入る隙間もないくらいに。宏太しかいない。
 宏太の手が服の中に滑り込んでくる。その手付きは少し荒くて早急に自分を求められているような気がした。


「こう、んっ……」


 ブラのホックを外され大きな手で柔らかな膨らみを優しく包み込まれる。それだけでも嬉しくてじんっと足の付根が濡れだしてしまった。
 全ての衣類を脱がされ宏太の前に全てを曝け出す。恥ずかしくて顔から火が出そうだ。


「里穂の顔すげぇ真っ赤。かわいい」
「は、恥ずかしいからあんまり見ないで」


 両手で胸元を隠し身体を捩った。


「ずっと見たかった。この身体を他の男が見たと思うと嫉妬でどうにかなりそうっても俺がグダグダしてたのがいけないんだよな」
「こう、た?」
「でも、もう遠慮はしない。お前の旦那から里穂のこと奪うから」
「んんっ……あぁっ」


 唇が重なり宏太の手が身体の敏感なところを這う。触れられたところが気持ちよさと歓喜がぐちゃぐちゃに混ざり合い溶け出しそうだ。

「あ……」


 するりと左手の薬指から指輪が抜かれた。カタンと小さな音を鳴らしてベット横のサイトチェストの上に置かれる。視線を横にずらし寂しそうに置かれた指輪を眺めていると視界をショットダウンするかのように頬を手のひらで包まれた。力強い重低音の声に誘われるように視線を宏太に戻すと視線がしっかりと絡み合う。


「もう、外してもいいだろう?」


 宏太は本気だ。目を見れば分かる。ずっと見てきたのだから。里穂は覚悟を決めてコクリと頷いた。


「あっ……」


 宏太の舌先が薬指を這う。執拗に指を舐められ吸い上げられる。そこにあった指輪の痕跡を消すかのように丁寧に、何度も。
 指先を愛撫され、体中を愛撫され、恥ずかしくて目を閉じれば淫靡な音が鮮明に聞こえてしまい、目を開けると宏太の余裕のない表情が見えた。キュンと胸が締め付けられる。男の人に求めてもらえる喜びを里穂はこの日初めて味わった。


「里穂、好きだよ」


 愛の言葉を囁かれ何度も宏太を受け入れた。強くガシガシと腰を打ち付けられ必死で受け止める。ぽたりと宏太の額から流れ落ちてきた汗でさえ愛おしい。


「宏太、好き。大好き」


 宏太への思いはもう綺麗に開花して閉じることはない。何度も何度もお互い愛の言葉を繰り返して、相手が今目の前にいることを必死で確かめあった。夢でありませんように、と触れ合うことで現実だという喜びを噛みしめる。


「宏太っ、こうたっ……んぅ、ん、ん」


 四肢をしっかりと宏太に絡みつけ、唇を重ね合いまるで一つに溶け合ってしまったかのように身体の全てを密着させた。汗で濡れた肌がより一層吸着感を増やしてくれる。



「っ……ごめん、里穂っ……も、俺限界だわ。里穂が俺の腕の中にいることが嬉しすぎて……イきそ」


 人を愛し、愛されることがこんなにも嬉しいことだったなんて。里穂の瞳からは快楽と感動の入り混じった涙が頬を濡らした。
 より一層激しさを増した宏太の動きを里穂は全身で受け止めていると、身体の先々が痺れ始め甘い声が大きくなってしまう。チカチカと視界が揺れ始め、宏太の息が詰まったと同時に視界が弾けて一瞬目の前が真っ白になった。


「里穂、もう俺お前のこと手放せないからな」
「ん……」


 磁石のように引き合い、身体を抱きしめあった。宏太のドクドクと動く心音が心地の良い眠気を誘ってくる。
(あぁ、好きな人に触れながら眠るってこんなにも心も身体も安心して眠れるのね……)
 いつぶりだろう、里穂は足を伸ばし猫のように丸まらずに眠りについた。

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