高嶺の花と呼ばれた君を早く僕のものにしたい

森本イチカ

胸が痛むのはどうしてだろう


 倒れた日、目が冷めた時には尊臣はもう居なかった。自分でも驚いている。あれほど男の人に触れられることが怖いのに、尊臣の手だけは大丈夫だったのだ。怖いどころか安心でき、もっと触れていて欲しい、そう思ってあんな大胆なことを……
(なんで!? どうしたの私っ!?)
 医局の自分のデスクに座っていた華は頭を抱えた。
(やっぱり幼馴染だから大丈夫ってことなのかしら?)
 うぅ〜と悩んでいると「桜庭先生っ!」と呼ばれた。
「はい、どうかしました?」
 いつもの皆がイメージしているクールな華に切り替える。看護師の話を聞きながら廊下を急ぎ歩くと病室から怒鳴り声が聞こえた。
「佐藤さん、どうかしましたか〜?」
 華が病室に入ると更に怒鳴り声は増す。
「だから何度も言っているだろう! 俺は女の医者は嫌なんだ。しかもお前まだ若いだろう? そんな若造に俺の手術を任せられるか! もっと腕のいい医者を連れてこい!」
 病室のベッドに座っている男性が喚き散らしている。
 ――佐藤一郎(さとういちろう)五十代男性、胃がん、ステージ1。胃を温存するため、内視鏡による外科手術を予定。
「佐藤さん。大丈夫ですよ。桜庭先生は何度も内視鏡の手術は経験なさってますから」
 看護師が佐藤をなだめるが頑固じじいと言う言葉がよく似合う外見の佐藤は中身も頑固のようで、看護師の話に聞く耳を持たない。
 華は呆れて、佐藤の近くに寄り口を開いた。
「佐藤さん。私もきちんと経験を積んでちゃんと医師免許ももっていますから、大丈夫ですよ。早期発見でしたし、難しい手術ではありませんが万全を尽くして挑みますので安心なさってください」
「いんや、こんな細っこい体のやつに出来るはずがねぇだろう。ほれみろ、ケツに肉がねぇじゃねぇか」
「やっ……」
 ひゅっと喉の奥が鳴る。佐藤は手を伸ばし、大胆に華の尻を揉むように触った。華に対して罵声を放っているくせに、少し顔が緩んでいるところが気持ち悪い。心臓がピキッと凍りつき、ザワザワと身体の細胞がざわめきだす。
 キモチワルイ、サワラナイデ。
 悪意のこもった接触ほど怖いものは無い。華はすっと身体を引き、佐藤から距離をとった。
「佐藤さん、また来ますからよく考えてくださいね」
 震えそになる声を悟られないよう華は喉に力を入れて絞り出した。
 病室を出て、どっと溜息が出る。佐藤には困ったものだ。今回の尻を揉まれる行為は初めてだったが、佐藤はたびたびセクハラじみた発言や、女医にたいする暴言を吐いていた。看護師の間でも佐藤はセクハラをしているようで華も胸元をじーっと見られ続けたこともある。
「はぁ」
 医局についた華は自分のデスクに座りまた頭を抱えた。医者になることは小さい頃からの夢だった。小学二年生の頃に父親を癌で亡くした時、担当医だった先生がとてもよくしてくれたことを今でも華はよく覚えている。こんなお医者さんになりたい、と小さいながらにも思い華の夢へと変化した。そして父親が亡くなって悲しんでいる時に励ましてくれたのが尊臣だ。医者への夢も尊臣が応援してくれたから、男性恐怖症になっても小さな頃の思い出のおかげで乗り切ることが出来た。友達の力とは偉大だ。
 でもやっぱり、挫けそうになるときは何度もある。頑張れ、頑張れって自分に言い聞かせてきたけれど、今回は少し堪えるものがあった。じわりと目元が熱くなり、鼻の奥がツンと痛んだ。
「桜庭先生?」
 華の頭の上から優しい声が降り注いできた。ハッと我に返った華はいそいで気持ちを立て直して顔をあげると、心配そうに華を見つめる尊臣と目が合った。
「高地先生……」
「体調は大丈夫? 俺、昨日緊急オペが入っちゃって桜庭先生の様子を見に行けなかったから心配で」
「き、昨日は本当にありがとうございました。でももう大丈夫なんで、ご心配お掛けしました」
 華はペコリと頭を下げ、顔を上げるとほっと一安心と顔に書いてある尊臣と目が合った。
「ならよかった。あの、さ。さっき看護師に聞いたんだけど、203号室の佐藤さんに色々言われたんだって?」
 ガチャっと華のデスク隣のワークチェアを引き出し、尊臣は座った。長い脚を組み、華の顔をじぃっと見つめる。昨日は意識を戻した後すぐにまた眠ってしまい、面と向かってちゃんと話すのは尊臣がアメリカから帰ってきて初めてだ。
「あ、あぁ、そのこと。確かに言われたけど大丈夫よ。女医が舐められるのなんてよくある話でしょう」
「患者であろうと、許せないね。華、その……触られたってのは本当か?」
「ええ、まあ少しね」
「……患者とはいえ、許せねぇな」
 尊臣の目元がギリッと一瞬険しくなる。
「仕方ないわよ。患者さんだって自分が病気でいっぱいいっぱいなのよ」
 そう頭では思っているはずなのに、思い出しただけでぞっと身体中に鳥肌が立ちそうだ。華は思わず自分の両肘を抱きしめ、俯いた。
「怖かったよな。俺がその場にいればその患者にガツンといってやったんだけど」
 ガラッと尊臣が座っているワークチェアが動き、華との距離が縮まった。ポンっと頭の上に重みと暖かさを感じ、華はほんの少し視線を上げる。
 わ……なによ……
 目を細めてなんとも言えない、自分のことを愛おしそうに撫でる尊臣が視界に映った。
「そんなことしたら尊臣くんが訴えられちゃうわよ」
 尊臣は「まぁ確かにな」と呟き、華をじっと見た。漆黒の、なんの濁りもない、真っ直ぐな瞳が華を捉える。
「華は医者の夢をちゃんと叶えたんだな」
「あ、うん。まさか尊臣くんも医者になってるとは思いもしなかったけどね」
 ドキドキドキドキ。どうして尊臣相手にこんなに緊張しているのだろう。やっぱり唯一仲のいい友人だとしても男だから? 唯一男性恐怖症でも触れられる人だから? わからない。わからないけれど心臓が痛いくらいに早く動いている。
「まぁな。医者になれてよかったよ。こうして華とも会えたしな」
 よしよしと華の頭を撫でた手はそっと離される。
「私も唯一の友達だった尊臣くんに会えてよかった」
 それは本当に思っている。こうやって本音で話せる人は華にとってはとても少ない貴重な存在だ。
「華、あのさ――」
「高地先生少しいいですか?」
 看護師が医局のドアから顔を出し、尊臣を呼ぶ。
「呼んでるわよ」
 華は自分のパソコンに向かって身体を動かし、尊臣は「今行きます」と看護師に声を掛けた。
「桜庭先生、後で話があるからさ、また後で」
 尊臣はパソコンを見ている華に聞こえるよう身体を屈めて、耳元に囁いた。
(な、なによ……)
 こそばゆい。耳を触るとホッカイロのように熱かった。




 その日の夕方、尊臣が203号室の佐藤に華の腕は確かで、とても優秀な先生だと佐藤をなだめてくれたと華は風の噂で聞いた。現に佐藤の病室に様子を見に行くと佐藤は手のひらを返したかのように華に対しての態度が変わっていた。これほど佐藤の態度がかわるなんてどんなことを尊臣は言ったのだろう。凄く気になり、色々なお礼を兼ねてのコーヒーを自動販売機で購入した華は尊臣を探すため、病院内をうろちょろ歩き回った。
(どこに行ったのかしら。急患とかもいないはずだし)
 しばらく歩いても見つけられなかったので諦めて医局に戻ることにした。
「――高地先生っ」
 ん? 
 明らかに尊臣の名前を呼んだ女性の声がした。尊臣が近くにいるらしい。どうせならこの手に持っているコーヒーだけでも渡そうと華は声のもとに歩き進めた。
(こっちから聞こえた気がしたけど)
 廊下に面して三つ並んだ患者用の衣類や、シーツ類を収納してある部屋の一つの扉が開いている。普段はきちんと閉まっているはずなのに、どうしてだろうと不思議に思った華は扉に近づいた。
 閉めておこうと扉に手を伸ばした瞬間、中に人影が見えた。
(えっ……)
 思わず身体がピシリと固まる。扉の奥に見えたのは亜香里に抱きつかれている尊臣だ。
「私、高地先生が好きなんです」
「早見さん」
 尊臣は抱きつく亜香里を離そうと亜香里の肩に手を置くが、亜香里はめげずに力一杯尊臣に抱きつく。
「先生のためなら私なんだってしますから。好きなんです。私じゃダメですか?」
「早見さん」
 尊臣は堅い声で亜香里の名前を呼び、身体を自分から離す。
「ごめん。俺、好きな人がいるって言ってあったよね? だから早見さんの気持ちには応えられないんだ」
「知ってます! それでも、それでも好きなんです。二番目でもいいです。付き合ってくれませんか?」
 うるうると瞳を潤ませ、恋に必死な女の子は同性の華にも凄く可愛く見えた。
「早見さん、俺はその人のことしか見てないから、ごめん」
 亜香里の瞳からはポロポロと涙が零れ落ちる。
「私を振ったこと後悔しますからね!」
 泣きながら笑った亜香里は小走りで扉へ向かってくる。あ、まずい、と思ったときにはもう遅く、勢いよく出てきた亜香里と肩がぶつかった。
「あっ……えっと……」
 なんて言えばいいのかわからず口籠ると亜香里はフンッと華を睨み、小走りで駆けていく。その背中を見つめながら華も歩き出した。
(尊臣くんに好きな人がいるのは私も知ってたけど、あんなに可愛い子を振っちゃうほどその子のことが好きなのね……)
 なぜかチクリと胸が痛み、手に持っていたコーヒーの缶を華は両手でぎゅっと握りしめた。冷たいコーヒーは華の手をどんどん冷たくしていく。そのままこの胸の痛みも冷たさで麻痺してしまえばいいのに。

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