明日の話とか昨日の事とか、そんなことより今日が大事で辛いぐらい大変で。

清泪(せいな)

ロト6、当たったよ

 桃子は十五分ほどで自宅に着いた。
 自転車も飲酒運転で罰則されるのは重々承知であったが、自転車を押して歩いて帰るには大変だったので乗って帰ってきた。
 妙に強く感じた孤独感が酔いを覚ましてくれて、ふらつく事なく自転車を漕げた。

 下から自宅を見上げる。
 集合団地の四階、部屋に明かりはついていない。
 階段を登り、家の前に辿り着くと鞄から鍵を取り出した。
 その鍵を静かに差し込むと、ゆっくりと回す。
 深夜の帰宅だ、家族に迷惑をかけないように音に気をつける。

 ドアを開け中に入ると、入るのと同様に静かにドアを閉めた。
 玄関入ってすぐ右手が桃子の部屋、真っ直ぐに数歩正面にあるのが弟の部屋。
 左手の通路の先に台所があり、その奥に母親の部屋がある。
 玄関で音を立てないように靴を脱ぐと、手を伸ばして自室のドアを開けた。
 自室に入ろうとすると、弟の部屋のドアが開く音がした。

「姉ちゃん……」

 寝間着姿の弟がドアを少し開け顔を出していた。
 嫌な予感がする。
 酔いが急に回って吐きそうな気分だ。
 悪戯をして許しを乞う様な弟の声、そして暗い表情。
 ああいつものだ、と桃子は思った。
 いつも通り、自身の幸せについて考える余裕ができたら来るのだ。
 新たな不幸が、やって来るのだ。
 そして、幸せなんて考える余裕などなくなるのだ。

「姉ちゃん、あのさ、本当にごめん。俺、仕事クビになった」

 どう答えたのか覚えていない。
 クビになったという弟の気持ちを察して、慰めを言ってやったのだろうか。
 それとも、幸せを考える余裕を奪う不幸を持ち込んだ弟を罵倒したのだろうか。
 桃子は気づけば自室の敷きっぱなしの布団にうつ伏せに倒れ、顔を埋めていた。
 服も化粧もそのままで、ただ今抱いている感情を上手く整理できずに泣いた。
 嗚咽は溢さない様にして、涙だけを流した。

 桃子自身の収入だけで家族を食わしていけるほど、高給取りではない。
 弟がすぐにでも再就職をする可能性だってもちろんあるが、今感じるものはひたすら闇であった。

 梅華が言う未来を桃子が考えた時、見えてくるのはただただ闇であった。
 自分は底の無い沼にハマっているのだと思う。
 どう足掻こうとも、時と共にジワジワと沈んでいく。
 未来に見えるのはそうして沈みきった自分の視界だ。
 沼、だ。

 助けとして差し伸べてくれる手はいくらでもあった。
 しかし、それを上手く掴めなかった。
 今、沼にどこまでハマっているのだろう。
 腰の辺りまでか、胸の辺りか。
 もう首の辺りかもしれない。
 足掻くことも手遅れなのかもしれない。


 携帯電話が鳴った。
 外用に着信音を大きくしていたので、慌てて止めようと起きあがった。
 放り投げた鞄をまさぐり、携帯電話を取りだし通話ボタンを押す。
 押してから、液晶に梅華の名前が表示されている事に気づいた。
 こんな時間に何だ?、と思ったがカーテンから僅かに光が射し込んできている事に桃子は気づいた。
 わたしは寝ていたのか?
 TVの下に置いてあるDVDレコーダーのデジタル時計を見ると8:23となっていた。
 最悪だ、と桃子は呟いた。
 呟いて何が最悪なのかと疑問に思ったが、頭も胸もモヤモヤとしたものを抱えていた。

 携帯電話から何か大声が聞こえて、通話ボタンを押したままだったことを思い出す。

「桃子、桃子っ! もしもし、聞いてる!?」 

「ああ、うん、ごめん。どうしたの、こんな朝から?」

「お、落ち着いて聞いて。さ、さくら、さくらがね。さくらが、死んだの」

 梅華の震える声が頭に響く。
 しかし、言葉の意味が理解できずにいた。
 唐突に何を言っているのか。

 
「さ、さくらね、昨日帰った後、か、彼氏と二人で、マ、マンションから飛び降りたって」

 人づての言い方。
 警察から聞いたのか、さくらの両親から聞いたのか。
 何処か他人事の様に聞こえる。
 ニュース番組で流れる日替わりに起こる事件の様に。

「遺書っていうか、か、書き置きみたいのがあってさ。ロト6当たったから死にます、ってさ」

 梅華の震えた声が泣き声に変わっていく。

「そのロト6、当たったの三等なんだって。き、九十七万円。はは、九十七万円で死んじゃった、さくら」

 そこまで言い終わると、電話越しに梅華が泣き崩れたのがわかった。
 ロト6の三等、その言葉にやっと桃子はさくらの事だと実感が湧いた。
 まだ死んだというのが信じられないが、TVの中の他人事ではないのだけは確かだ。
 まだ死んだとは信じられないので悲しみは感じなかった。
 代わりに桃子には自身でも変だと思う考えが、頭にこびりついていた。
 
 自殺。

 ああ、その方法があったのか。
 それがただ沼に沈んでいくだけの現状から抜け出す為の唯一の方法かもしれない。
 それがわたしの幸せかもしれない。

 泣きわめく梅華の声を聞きながら、桃子はその考えに憧れさえ抱き始めていた。

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