【コミカライズ化!】リンドバーグの救済 Lindbergh’s Salvation
1-7 ★ チーズマン館長
秋の夜長が明ける時は、月と星の歌が恋しくなる。
くすぐったくて、昨夜は何度目覚めたことか。
なんだか眠り足りない。
まだ夜が長くても良いのにと思った朝は初めてだった。
――それにしても、昨夜のアルは……。
いつもの彼と違っていた。
原因があるとしたら、一つしか思い当たらない。
「あれって……ただのシロップじゃないわよね?」
朝食の席で、私は向かいに座るアルをじっと見た。テーブルには食膳係が運んでくれた出来たての朝餉が所狭しと並んでいる。アルは焼き立てのパンにジャムを塗る手を止めて、私へちょっとはにかんだ。
「一体なんのお酒が入っていたの?」
「お酒じゃないよ。あれは媚薬さ」
「またまた~。あんなにかわいい兎の蓋がついた媚薬があるもんですか」
「信じるも信じないもミミ次第。ところで身体の調子はどう?」
「べ……別に、何も、いつも通り、だけど」
――私がこんなに恥ずかしがっているのに、どうして貴方はすまし顔なのよ。
「アルに一つだけ言いたいことがあるのよ」
「なに? なんでも言って」
アルは笑顔で訊ねてきた。
「アルは自分を不器用だと言うけれど、私はそう思わないわ。それとも貴方が読んでいる猥本の影響?」
アルは真っ赤になった。
我が家の狼さんから、ついに一本とったわ。
「な、ななな、な……なんで知って……」
「書斎を掃除中に偶然見つけちゃってね」
「ま、まま、まさか読んだ?」
「ええ。予習になったわ」
両手で真っ赤な顔を覆う旦那様が、野獣なのか乙女なのか分からない。いつぞや書斎で見つけた本を開けて吃驚、花乱れる色めきときめきの世界だったのである。
「私も以前、女性向けの猥本を読んだことがあるけど、男性向けは内容が凄いのね。読んでみたら意外と面白かったわ」
目が金魚のように泳いでいる旦那様を、面白おかしく眺めながら食事を進める。
――私の旦那様は、想像以上に初心な人らしい。
アルがこんなに動揺することってあったかしら。我が家に逃げ込んできたチャールズが、棺桶からドッキリをかました時以来だわ。
食後の片付けが済むと、私たちは出発の準備を始めた。
管理人と従業員に御礼を告げ、次の目的地へと発つ為、厩のオスカルを迎えに行く。
「オスカル。今日は活き活きしているわね」
「オスカルもご馳走を頂いたな?」
「ヒヒン!」
毛並みは綺麗にとかれ、濡れ羽色の光沢を放っている。厩の管理をしていたあのおじさんがオスカルの世話をしてくれたのだろう。
「さあ、出発しようか。――ん?」
「アル。どうしたの?」
彼は朝の木漏れ日差す森をじっと見つめていた。
「人の視線を感じたけど、気のせいか」
「誰もいないわよ。幽霊って朝にも出るのかしら?」
「出るかもね。ただの気のせいだよ。最近、騒がしかったから、ちょっと敏感になっていただけさ」
彼と私は馬車の支度を調え、湖畔の森を後にした。オスカルは軽やかな足取りで下り坂や曲がり道を悠々と過ぎていく。
正午、チーズマンという町に到着した。町へ入ると要塞のような白亜の城がそびえている。この領地を治めていたチーズマン一族の居城だ。王政は廃止され、貴族制も撤廃された後、あの城は美術館として開放されているそうだ。
銀杏並木の小道を抜け、城へ辿り着く。馬車の繋ぎ場の近くに、入場に関する規制と拝観料が記されていた。
「案外、ここの拝観料って高いのね」
司祭の妻になって良かったと思うのは、あらゆるモノの常識的な価値に敏感になったことだ。
「チャールズが拝観券を先に手配してくれていたから、手出しは無いけどね。ヴェルノーンの王都は、美術館も博物館も無料で入れるのになぁ」
教育や芸術に触れる機会は、貧富の差に関係なく等しく与えられるべしという先代国王の改革で、ヴェルノーンの公共文化施設は拝観料を撤廃し、維持費は国が負担しているのだ。
城内は迷路のように入り組んだ場所もあれば、日の光が燦々と降り注ぐ広間や、風の吹き抜ける展望台もあり、景観の美しさを優先した間取りであった。展示された美術品の数もなかなか立派なものである。日焼けしないように、それらの品々はどれも窓から離れたほの暗い場所に飾られていた。
「素晴らしい。ここで名画に出会えるなんて」
澄んだ青空を前に、野原に膝をついて祈りを捧げる修道士の姿が描かれている。
「本当に美しいわ」
名画を二人で鑑賞していると。
「あの、すみません」
私たちの背後から女性の声が聞こえた。振り返るとそこに、蜜柑色の髪の若い女性が立っている。彼女は目を月のように丸くして私たちへ見入った。
「間違っていたらごめんなさい。もしやお二人は、リンドバーグ夫妻ではございませんか」
「はい。そうですが」
私が答えると、彼女はたちまち破顔して、ぐっと距離を縮めた。
「やっぱり! お二人のことは新聞で存じています。もしやご旅行ですか?」
私とアルは同時に肯いた。
「光栄ですわ。まさか噂のご夫婦が、私の城にお越し下さるなんて!」
「貴女の城?」
私は思わず聞き返した。
「皆さん驚かれます。私、メラニー・チーズマンと申します。城主であり、当美術館の館長を務めております」
メラニーはしなやかにお辞儀をした。
【つづく】
くすぐったくて、昨夜は何度目覚めたことか。
なんだか眠り足りない。
まだ夜が長くても良いのにと思った朝は初めてだった。
――それにしても、昨夜のアルは……。
いつもの彼と違っていた。
原因があるとしたら、一つしか思い当たらない。
「あれって……ただのシロップじゃないわよね?」
朝食の席で、私は向かいに座るアルをじっと見た。テーブルには食膳係が運んでくれた出来たての朝餉が所狭しと並んでいる。アルは焼き立てのパンにジャムを塗る手を止めて、私へちょっとはにかんだ。
「一体なんのお酒が入っていたの?」
「お酒じゃないよ。あれは媚薬さ」
「またまた~。あんなにかわいい兎の蓋がついた媚薬があるもんですか」
「信じるも信じないもミミ次第。ところで身体の調子はどう?」
「べ……別に、何も、いつも通り、だけど」
――私がこんなに恥ずかしがっているのに、どうして貴方はすまし顔なのよ。
「アルに一つだけ言いたいことがあるのよ」
「なに? なんでも言って」
アルは笑顔で訊ねてきた。
「アルは自分を不器用だと言うけれど、私はそう思わないわ。それとも貴方が読んでいる猥本の影響?」
アルは真っ赤になった。
我が家の狼さんから、ついに一本とったわ。
「な、ななな、な……なんで知って……」
「書斎を掃除中に偶然見つけちゃってね」
「ま、まま、まさか読んだ?」
「ええ。予習になったわ」
両手で真っ赤な顔を覆う旦那様が、野獣なのか乙女なのか分からない。いつぞや書斎で見つけた本を開けて吃驚、花乱れる色めきときめきの世界だったのである。
「私も以前、女性向けの猥本を読んだことがあるけど、男性向けは内容が凄いのね。読んでみたら意外と面白かったわ」
目が金魚のように泳いでいる旦那様を、面白おかしく眺めながら食事を進める。
――私の旦那様は、想像以上に初心な人らしい。
アルがこんなに動揺することってあったかしら。我が家に逃げ込んできたチャールズが、棺桶からドッキリをかました時以来だわ。
食後の片付けが済むと、私たちは出発の準備を始めた。
管理人と従業員に御礼を告げ、次の目的地へと発つ為、厩のオスカルを迎えに行く。
「オスカル。今日は活き活きしているわね」
「オスカルもご馳走を頂いたな?」
「ヒヒン!」
毛並みは綺麗にとかれ、濡れ羽色の光沢を放っている。厩の管理をしていたあのおじさんがオスカルの世話をしてくれたのだろう。
「さあ、出発しようか。――ん?」
「アル。どうしたの?」
彼は朝の木漏れ日差す森をじっと見つめていた。
「人の視線を感じたけど、気のせいか」
「誰もいないわよ。幽霊って朝にも出るのかしら?」
「出るかもね。ただの気のせいだよ。最近、騒がしかったから、ちょっと敏感になっていただけさ」
彼と私は馬車の支度を調え、湖畔の森を後にした。オスカルは軽やかな足取りで下り坂や曲がり道を悠々と過ぎていく。
正午、チーズマンという町に到着した。町へ入ると要塞のような白亜の城がそびえている。この領地を治めていたチーズマン一族の居城だ。王政は廃止され、貴族制も撤廃された後、あの城は美術館として開放されているそうだ。
銀杏並木の小道を抜け、城へ辿り着く。馬車の繋ぎ場の近くに、入場に関する規制と拝観料が記されていた。
「案外、ここの拝観料って高いのね」
司祭の妻になって良かったと思うのは、あらゆるモノの常識的な価値に敏感になったことだ。
「チャールズが拝観券を先に手配してくれていたから、手出しは無いけどね。ヴェルノーンの王都は、美術館も博物館も無料で入れるのになぁ」
教育や芸術に触れる機会は、貧富の差に関係なく等しく与えられるべしという先代国王の改革で、ヴェルノーンの公共文化施設は拝観料を撤廃し、維持費は国が負担しているのだ。
城内は迷路のように入り組んだ場所もあれば、日の光が燦々と降り注ぐ広間や、風の吹き抜ける展望台もあり、景観の美しさを優先した間取りであった。展示された美術品の数もなかなか立派なものである。日焼けしないように、それらの品々はどれも窓から離れたほの暗い場所に飾られていた。
「素晴らしい。ここで名画に出会えるなんて」
澄んだ青空を前に、野原に膝をついて祈りを捧げる修道士の姿が描かれている。
「本当に美しいわ」
名画を二人で鑑賞していると。
「あの、すみません」
私たちの背後から女性の声が聞こえた。振り返るとそこに、蜜柑色の髪の若い女性が立っている。彼女は目を月のように丸くして私たちへ見入った。
「間違っていたらごめんなさい。もしやお二人は、リンドバーグ夫妻ではございませんか」
「はい。そうですが」
私が答えると、彼女はたちまち破顔して、ぐっと距離を縮めた。
「やっぱり! お二人のことは新聞で存じています。もしやご旅行ですか?」
私とアルは同時に肯いた。
「光栄ですわ。まさか噂のご夫婦が、私の城にお越し下さるなんて!」
「貴女の城?」
私は思わず聞き返した。
「皆さん驚かれます。私、メラニー・チーズマンと申します。城主であり、当美術館の館長を務めております」
メラニーはしなやかにお辞儀をした。
【つづく】
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