【コミカライズ化!】リンドバーグの救済 Lindbergh’s Salvation
3-3 ★ 寝ぼけているのかい、晴樹?
王族の人生は泥濘に喩えられる。嫉妬、怨嗟、涙を呑んだ人命の上に、王城は成り立っているからだ。築城に費やした五百年を「歴史と伝統」という言葉でひとくくりにするのはあまりにもお粗末である。泥のような因果の中に、王子の僕は一人で佇んでいる。
ドプリと足元で濁った音がした。視線を落とすと両足は膝まで泥に浸かっていて、周囲は灰色の靄に包まれていた。
――夢だ。僕はまた夢を見ている。
泥濘だと思った僕の人生。心象は沼となって僕の夢に現れたようだ。虫や鳥、蛙の声が聞こえない。前後左右に泥沼が広がっている。僕の身体は膝丈以上に沈むことも、ましては浮かぶことも無かった。
「こんな泥を歩き続けるなら、玉座なんていらない」
僕の弱音は涙とともに泥に沈んでいく。誰も聞いちゃいないならと、僕は何度も何度も弱音を吐き捨てた。
「王子なんてもう御免だ。王様なんかなりたくない! こんな人生誰かにくれてやる!」
どうせ夢の中なのだ。何を叫んだって構わないだろう。
「チャールズ! 何を弱気なことを言っているの!」
靄に包まれた曇天から、その言葉は唐突に降ってきた。
「母上?」
「貴方が次の王様なのよっ、チャールズ!」
雷のような怒鳴り声が響き渡る。母は異常なまでに「おまえが次の王」だと僕に刷り込んだ。
――母上は知っていたのではないか。アルフレッド兄上がいることを。
父上は一度も「おまえが次の王だ」とは口にしない。母上亡き後も、僕の将来について語ることは今まで一度も無かった。叱られることはあっても、期待されること、褒められることは皆無。「父の厳しさは愛のある鞭撻」だと勝手に解釈していた自分が恥ずかしい。はじめから父は僕に期待などしていなかったのだ。
――どうか……どうか僕を見て下さい、父上!
激しい自己顕示欲に、既視感があった。
いつか僕は同じように「僕を見て」と誰かへ手を伸ばしたことがある。
「おい、どうした?」
ハッとして瞼を開けると視界は真っ暗。軋む身体をゆっくりと起こす。どうやら僕は机に突っ伏して寝ていたようだ。空のように青い瞳と目が合う。背広にネクタイをしめた黒髪の青年が心配そうに僕の顔をのぞきこんでいた。
――この人は! お葬式の夢に現れた……先生?
首を吊った少女の棺の前で泣いていた先生に間違いない。
「うなされていたよ。悪い夢でも見たのかい?」
「夢? ここは……どこ?」
鉄製の脚がついた椅子と机、真四角の部屋と、緑色の黒板。窓は夕日色に染まっていた。
「寝ぼけているのかい。見ての通り教室だよ」
「教室? とするとここは……学校か?」
「どこだと思った? 異世界? それとも王様の住むお城とか?」
先生は「冗談だよ」と笑った。
「忘れ物を取りに来たら、君がうなされていたから、心配で」
先生は、隣の席に腰掛け、机に頬杖をついた。
「正月にも盆にも本家で顔を合わせるのに、最近はあまり話せていなかったね。ここに来てからは一度も。俺が突然、教育実習で来たものだから、吃驚しただろう?」
「えっ、ええと……」
「君が俺の従兄弟だとは誰も気付いていないみたいだよ。名前は似ているけど姓は違うからね」
「貴方と僕が……従兄弟?」
「まだ寝ぼけているのかい、晴樹?」
――晴樹。晴れた樹。僕の名前だ。
見たことない言語が頭に浮かぶ。ヴェルノーン王国の文字よりも複雑なつくりの文字だ。なぜ僕は読み方を知っているのだろう。
「先生。貴方は……」
「二人の時は、先生はよしてくれ、従兄弟なんだから。良樹でいいよ」
――先生の名前は良樹。なるほど、確かに僕の名前と似ている。
「最近遠ざけられているのが気がかりだったんだ。やっぱりおばさんが、俺を苦手なせいなのかな?」
「おばさん、って?」
「失礼。君のお母さんさ」
――僕の……晴樹の母は、良樹が苦手?
「分かりません……僕には」
「そっか、困らせて御免よ。それじゃ」
良樹が教室を去る。
「待って」
他にも聞きたいことがある。
この世界のこと、貴方のこと。
僕は良樹を追って、教室を飛び出したが、つい今し方廊下に出たばかりの彼の姿が無い。
――幽霊みたいに良樹が消えた?
廊下の奥から話し声が聞こえる。【図書室】と看板のかかった突き当たりの部屋からだ。部屋の扉は開放されていたので、僕も書の森へ足を踏み入れる。話し声の聞こえる方へそっと近付いた。
【つづく】
ドプリと足元で濁った音がした。視線を落とすと両足は膝まで泥に浸かっていて、周囲は灰色の靄に包まれていた。
――夢だ。僕はまた夢を見ている。
泥濘だと思った僕の人生。心象は沼となって僕の夢に現れたようだ。虫や鳥、蛙の声が聞こえない。前後左右に泥沼が広がっている。僕の身体は膝丈以上に沈むことも、ましては浮かぶことも無かった。
「こんな泥を歩き続けるなら、玉座なんていらない」
僕の弱音は涙とともに泥に沈んでいく。誰も聞いちゃいないならと、僕は何度も何度も弱音を吐き捨てた。
「王子なんてもう御免だ。王様なんかなりたくない! こんな人生誰かにくれてやる!」
どうせ夢の中なのだ。何を叫んだって構わないだろう。
「チャールズ! 何を弱気なことを言っているの!」
靄に包まれた曇天から、その言葉は唐突に降ってきた。
「母上?」
「貴方が次の王様なのよっ、チャールズ!」
雷のような怒鳴り声が響き渡る。母は異常なまでに「おまえが次の王」だと僕に刷り込んだ。
――母上は知っていたのではないか。アルフレッド兄上がいることを。
父上は一度も「おまえが次の王だ」とは口にしない。母上亡き後も、僕の将来について語ることは今まで一度も無かった。叱られることはあっても、期待されること、褒められることは皆無。「父の厳しさは愛のある鞭撻」だと勝手に解釈していた自分が恥ずかしい。はじめから父は僕に期待などしていなかったのだ。
――どうか……どうか僕を見て下さい、父上!
激しい自己顕示欲に、既視感があった。
いつか僕は同じように「僕を見て」と誰かへ手を伸ばしたことがある。
「おい、どうした?」
ハッとして瞼を開けると視界は真っ暗。軋む身体をゆっくりと起こす。どうやら僕は机に突っ伏して寝ていたようだ。空のように青い瞳と目が合う。背広にネクタイをしめた黒髪の青年が心配そうに僕の顔をのぞきこんでいた。
――この人は! お葬式の夢に現れた……先生?
首を吊った少女の棺の前で泣いていた先生に間違いない。
「うなされていたよ。悪い夢でも見たのかい?」
「夢? ここは……どこ?」
鉄製の脚がついた椅子と机、真四角の部屋と、緑色の黒板。窓は夕日色に染まっていた。
「寝ぼけているのかい。見ての通り教室だよ」
「教室? とするとここは……学校か?」
「どこだと思った? 異世界? それとも王様の住むお城とか?」
先生は「冗談だよ」と笑った。
「忘れ物を取りに来たら、君がうなされていたから、心配で」
先生は、隣の席に腰掛け、机に頬杖をついた。
「正月にも盆にも本家で顔を合わせるのに、最近はあまり話せていなかったね。ここに来てからは一度も。俺が突然、教育実習で来たものだから、吃驚しただろう?」
「えっ、ええと……」
「君が俺の従兄弟だとは誰も気付いていないみたいだよ。名前は似ているけど姓は違うからね」
「貴方と僕が……従兄弟?」
「まだ寝ぼけているのかい、晴樹?」
――晴樹。晴れた樹。僕の名前だ。
見たことない言語が頭に浮かぶ。ヴェルノーン王国の文字よりも複雑なつくりの文字だ。なぜ僕は読み方を知っているのだろう。
「先生。貴方は……」
「二人の時は、先生はよしてくれ、従兄弟なんだから。良樹でいいよ」
――先生の名前は良樹。なるほど、確かに僕の名前と似ている。
「最近遠ざけられているのが気がかりだったんだ。やっぱりおばさんが、俺を苦手なせいなのかな?」
「おばさん、って?」
「失礼。君のお母さんさ」
――僕の……晴樹の母は、良樹が苦手?
「分かりません……僕には」
「そっか、困らせて御免よ。それじゃ」
良樹が教室を去る。
「待って」
他にも聞きたいことがある。
この世界のこと、貴方のこと。
僕は良樹を追って、教室を飛び出したが、つい今し方廊下に出たばかりの彼の姿が無い。
――幽霊みたいに良樹が消えた?
廊下の奥から話し声が聞こえる。【図書室】と看板のかかった突き当たりの部屋からだ。部屋の扉は開放されていたので、僕も書の森へ足を踏み入れる。話し声の聞こえる方へそっと近付いた。
【つづく】
「恋愛」の人気作品
書籍化作品
-
-
1260
-
-
1
-
-
32
-
-
20
-
-
35
-
-
145
-
-
93
-
-
0
-
-
11128
コメント