【コミカライズ化!】リンドバーグの救済 Lindbergh’s Salvation
7-2 ★ 家族を守らなければ
「あなたの言葉に私は救われたわ」
振り返るとそこに、若い女性の輪郭がぼんやりと浮かび上がっていた。
墓地の光景が霞み、日没の空の下に平行な白線が現れた。白線の真ん中に立つ少女の姿が段々と明らかになる。黒髪の、下三角の大きな襟がついた服を着ている。十三、四の少女の姿は夕日に透けていた。二重の瞼は憂鬱そうに落ち、長い睫は涙に濡れている。
彼女の首には、縄で絞めたような赤い痕があった。
――首に縄? まさかこの子は……。
「私に囚われて絶望しないで。悪魔と死神を引き寄せてしまう」
ガシャァンと鉄の塊が砕けたような轟音が鳴り響く。自転車よりも重厚な二輪の乗り物が白線の真ん中に横転していた。機械からあふれ出す油は、血のように真っ赤だ。血の海の中に文字がぎっしり羅列した論文と、参考書が散らばっていた。
「先生は歩道の前で停まったのに、後ろの車がアクセルとブレーキを踏み間違えて、ぶつかったの」
少女は横転した二輪の乗り物を指差す。乗り物は消えており、黒髪碧眼の青年が血だまりの中に仰向けに倒れていた。
助けなければと、血だまりへ踏み入ったその時。
――痛い、痛い、身体が引きちぎれそうだ。俺は死んでしまうのか。
負傷した彼の心の声と、全身がねじ曲がったかのような苦痛が俺を苛む。膝を突き「これは夢だ」と心の中で繰り返したが、
――いっそ死んでしまいたいと思っていたじゃないか。
彼の絶望が、この不幸を引き寄せたというのだろうか。
――あの子を救えなかった俺に、教師になる資格なんて無かった。
あの子のお葬式に参列してからは、何を勉強しても毎日が空しくて……。
――救えなかった。助けたかった。
彼の懺悔と後悔は全て、自分のこと、アルフレッド・リンドバーグとして追体験された。
「良樹先生」
夕日に透けた少女が、血まみれの良樹の手に触れた。
――良樹先生。懐かしい名前だ。
ここでない世界の言語が頭に浮かぶ。なぜ知っているのだろう。なぜ読めるのだろう。良樹という名前に愛がこめられた気がする。
「ありがとう。貴方の存在が私の安らぎでした」
少女の言葉で、良樹と俺は一切の苦痛から解き放たれた。良樹が目を閉じた瞬間、ふわりと身体が軽くなる。
人が一生を終える時は、鳩が飛び立つように一瞬のことなのだ。今際の苦痛を彼と共有して、疑いようのない一つのことを理解した。
――良樹は、前世の俺なんだ。
人を救えなかった後悔と、教師の夢を諦めた理由、破れた内臓の不規則な脈動、胃酸と血のまざる悪臭を誰が知っているというのだろう。俺しか知り得ないものだ。
「アル。アルフレッド、起きて」
ミミの声で、重い瞼を開ける。
「すごい汗よ。大丈夫?」
ミミが汗を拭ってくれた。そこはキャベンディッシュ邸の応接間で、どうやら俺は長椅子に腰掛けたまま、うたた寝をしていたようだ。ミミ、彼女の両親、ロビン弁護士、ナンシーが心配そうに俺を見つめていた。
「ごめん。大事な準備の最中に、うたた寝をしてしまうなんて」
「疲れがたまっているのよ。なんだか悪い夢を見ているようだったわ、アル」
「うん。自分が死ぬ夢を見て」
――良樹。前世の最期を夢に見た。それから……。
「父が亡くなった時の夢を見て」
「アルのお父様は同じ司祭様だったのよね? お名前は、ポールさん」
ミミには結婚前に、父が司祭だったこと、母親は俺を産んですぐ他界したことを告げていた。
「お父様は……どんな方だったの?」
ミミは遠慮がちに訊ねた。不安そうな表情から察するに、俺が亡き父のことをあまり話さないので、何か事情があるのではと考えているようだ。
「性格はそっくりだったけど姿は全く。俺は父の本当の息子ではなかったからね」
「えっ、そ、そうだったの?」
「ポール司祭は育ての父で、本当の父親は別にいる」
――とうとう、ミミに話してしまった。
実父の婚外子という生い立ちには、どんなに自分の心に嘘をついても劣等感がつきまとう。実父が誰かを彼女に悟られたくなくて、極力その話題を避けていた。
――ミミの両親には話していたけれど。
結婚前、俺の生い立ちについて訊ねられたことがある。愛娘を嫁がせる相手のことだから、訊ねられるのは当然だ。実父の名前だけは伏せて、ありのまま説明した。ミミの両親はそれ以上は聞かず、快く結婚を承諾してくれた。
「貴方の実父は一体どなたなの、アル?」
――本当のことを言ったら、きっとミミを傷つけてしまう。
「養父は名前を教えてくれなかった。ただ、国教会で名の知れた者の婚外子とだけ」
「国教会の? 主教様の誰かとか?」
真隣からミミが、じーっと俺を見つめた。なんだかドキドキして落ち着かない。
「ミミが気付かないのなら、それで良いと思うわ」
夫人の言葉に心臓がドクンと音を立てた。
――気付かないのなら? この言い方はまるで。
「お母様は分かったの?」
夫人は肯くと、俺と目を合わせた。
「分かります。貴方には確かに、あの方の面影があります」
「実は私たちは、前から気付いていたんだ」
キャベンディッシュ卿の言葉で冷や汗がふきだした。
「血縁を気にしてはなりませんよ。貴方は司祭の鏡で、美徳があります」
「育てのお父様がどれほど慈しみ愛したか、君を見れば分かる。天国から今の君を誇らしく見守っているに違いない」
愛娘のミミだけでなく、ご夫妻が俺の気持ちも汲んでくださるとは思わなかった。
「ありがとうございます。天国から父が見守っているなら尚更気は抜けません。うたた寝してすみませんでした。準備の続きをしましょう」
――この人たちを……家族を守らなければ。
【つづく】
振り返るとそこに、若い女性の輪郭がぼんやりと浮かび上がっていた。
墓地の光景が霞み、日没の空の下に平行な白線が現れた。白線の真ん中に立つ少女の姿が段々と明らかになる。黒髪の、下三角の大きな襟がついた服を着ている。十三、四の少女の姿は夕日に透けていた。二重の瞼は憂鬱そうに落ち、長い睫は涙に濡れている。
彼女の首には、縄で絞めたような赤い痕があった。
――首に縄? まさかこの子は……。
「私に囚われて絶望しないで。悪魔と死神を引き寄せてしまう」
ガシャァンと鉄の塊が砕けたような轟音が鳴り響く。自転車よりも重厚な二輪の乗り物が白線の真ん中に横転していた。機械からあふれ出す油は、血のように真っ赤だ。血の海の中に文字がぎっしり羅列した論文と、参考書が散らばっていた。
「先生は歩道の前で停まったのに、後ろの車がアクセルとブレーキを踏み間違えて、ぶつかったの」
少女は横転した二輪の乗り物を指差す。乗り物は消えており、黒髪碧眼の青年が血だまりの中に仰向けに倒れていた。
助けなければと、血だまりへ踏み入ったその時。
――痛い、痛い、身体が引きちぎれそうだ。俺は死んでしまうのか。
負傷した彼の心の声と、全身がねじ曲がったかのような苦痛が俺を苛む。膝を突き「これは夢だ」と心の中で繰り返したが、
――いっそ死んでしまいたいと思っていたじゃないか。
彼の絶望が、この不幸を引き寄せたというのだろうか。
――あの子を救えなかった俺に、教師になる資格なんて無かった。
あの子のお葬式に参列してからは、何を勉強しても毎日が空しくて……。
――救えなかった。助けたかった。
彼の懺悔と後悔は全て、自分のこと、アルフレッド・リンドバーグとして追体験された。
「良樹先生」
夕日に透けた少女が、血まみれの良樹の手に触れた。
――良樹先生。懐かしい名前だ。
ここでない世界の言語が頭に浮かぶ。なぜ知っているのだろう。なぜ読めるのだろう。良樹という名前に愛がこめられた気がする。
「ありがとう。貴方の存在が私の安らぎでした」
少女の言葉で、良樹と俺は一切の苦痛から解き放たれた。良樹が目を閉じた瞬間、ふわりと身体が軽くなる。
人が一生を終える時は、鳩が飛び立つように一瞬のことなのだ。今際の苦痛を彼と共有して、疑いようのない一つのことを理解した。
――良樹は、前世の俺なんだ。
人を救えなかった後悔と、教師の夢を諦めた理由、破れた内臓の不規則な脈動、胃酸と血のまざる悪臭を誰が知っているというのだろう。俺しか知り得ないものだ。
「アル。アルフレッド、起きて」
ミミの声で、重い瞼を開ける。
「すごい汗よ。大丈夫?」
ミミが汗を拭ってくれた。そこはキャベンディッシュ邸の応接間で、どうやら俺は長椅子に腰掛けたまま、うたた寝をしていたようだ。ミミ、彼女の両親、ロビン弁護士、ナンシーが心配そうに俺を見つめていた。
「ごめん。大事な準備の最中に、うたた寝をしてしまうなんて」
「疲れがたまっているのよ。なんだか悪い夢を見ているようだったわ、アル」
「うん。自分が死ぬ夢を見て」
――良樹。前世の最期を夢に見た。それから……。
「父が亡くなった時の夢を見て」
「アルのお父様は同じ司祭様だったのよね? お名前は、ポールさん」
ミミには結婚前に、父が司祭だったこと、母親は俺を産んですぐ他界したことを告げていた。
「お父様は……どんな方だったの?」
ミミは遠慮がちに訊ねた。不安そうな表情から察するに、俺が亡き父のことをあまり話さないので、何か事情があるのではと考えているようだ。
「性格はそっくりだったけど姿は全く。俺は父の本当の息子ではなかったからね」
「えっ、そ、そうだったの?」
「ポール司祭は育ての父で、本当の父親は別にいる」
――とうとう、ミミに話してしまった。
実父の婚外子という生い立ちには、どんなに自分の心に嘘をついても劣等感がつきまとう。実父が誰かを彼女に悟られたくなくて、極力その話題を避けていた。
――ミミの両親には話していたけれど。
結婚前、俺の生い立ちについて訊ねられたことがある。愛娘を嫁がせる相手のことだから、訊ねられるのは当然だ。実父の名前だけは伏せて、ありのまま説明した。ミミの両親はそれ以上は聞かず、快く結婚を承諾してくれた。
「貴方の実父は一体どなたなの、アル?」
――本当のことを言ったら、きっとミミを傷つけてしまう。
「養父は名前を教えてくれなかった。ただ、国教会で名の知れた者の婚外子とだけ」
「国教会の? 主教様の誰かとか?」
真隣からミミが、じーっと俺を見つめた。なんだかドキドキして落ち着かない。
「ミミが気付かないのなら、それで良いと思うわ」
夫人の言葉に心臓がドクンと音を立てた。
――気付かないのなら? この言い方はまるで。
「お母様は分かったの?」
夫人は肯くと、俺と目を合わせた。
「分かります。貴方には確かに、あの方の面影があります」
「実は私たちは、前から気付いていたんだ」
キャベンディッシュ卿の言葉で冷や汗がふきだした。
「血縁を気にしてはなりませんよ。貴方は司祭の鏡で、美徳があります」
「育てのお父様がどれほど慈しみ愛したか、君を見れば分かる。天国から今の君を誇らしく見守っているに違いない」
愛娘のミミだけでなく、ご夫妻が俺の気持ちも汲んでくださるとは思わなかった。
「ありがとうございます。天国から父が見守っているなら尚更気は抜けません。うたた寝してすみませんでした。準備の続きをしましょう」
――この人たちを……家族を守らなければ。
【つづく】
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