【コミカライズ化!】リンドバーグの救済 Lindbergh’s Salvation
6-1 ★ いばらの教室
【第6章】は、ミミが語り手です。
私の恩師は、本当の教師では無かった。
髪は新月の夜色で、目は晴れた空色。
彼の姓は長い英字だったので、生徒たちはいつも「良樹先生」と日本語の名前の方で呼んでいた。
年上の教師たちは、大学実習生であった彼の至らないところに逐一小言を呈していた。それもわざと生徒たちがいる前で、全員に聞こえるように言う。愛のある鞭撻と、嫉妬の違いは、中学生だった私の目にも明らかだった。
――若さを妬んでいるのかしら、賢さを疎んでいるのかしら。前から私にも何かと冷たい教師だけど、実習中の良樹先生をこれ見よがしにいびるなんて。
ああいう冷たい教師に限って、問題を起こしている生徒には不気味なくらい優しくて甘いんだもの。学校が嫌になってしまう。
昼休みや放課後に図書室で本を読んでいると、良樹先生が時々やってきた。暇さえあれば図書室に来るところを見ると、この学校に居心地の良い場所がないらしい。私のいた学校の図書室は不人気で、司書も度々席を外していたので、先生と話す機会がよくあった。どんな本が好きかとか、あの作者の本を読んだかとか。お互いに知っている本の感想を共有した。
――私と同じなのかな、この人は。
私も良樹先生も、教室にいると存在が浮いてしまう。無言で長時間いても許されるのは図書室だけだった。無言でいることに慣れてしまっていた私は、久し振りに人と話す喜びを得たのだ。良樹先生に対しては一切の壁が無かった。
「本当は、国語か英語の教師になろうと思っていたんだ」
ある日の放課後、彼が唐突にそう語った。
「どうして理科の先生になろうと思ったんですか?」
「得意なものと好きなものが違ったからだよ。本は好きなんだけど、文系の科目の成績が悪くてさ。中学生の頃から、本当に散々だった」
「意外です。先生は御本が好きですし、得意そうなのに」
先生は恥ずかしそうに苦笑いした。
「自分は、文系の問題を斜め上に捉えてしまう癖があってね。国語の問題はさ、常に……矛盾と曲解があるだろう。考えすぎて模範解答が分からなくなるのさ。〝人の心が理解できない天邪鬼〟なのかと思ったけど、読書感想文や小論文は評価されるんだ。もうワケが分からなくなったよ」
「先生の説明は、面白いですよ。つい聞き入ってしまうんです」
「嬉しいな。人前で話すのに慣れようと頑張っていたから、自信がつくよ」
先生と話す時間が何よりの癒やしだったので、彼の実習最終日が近付くと、寂しさが募った。荊の森のような教室で、彼のいるところだけ青空がのぞいているような気がしていたからだ。
「先生がいなくなったら、寂しくなります」
「ありがとう」
「この学校は、どうでしたか?」
「うーん、そうだなぁ。貴重な学びでした、と言わなきゃいけない」
渋い顔で腕組みする先生の姿を見て、思わずちょっと笑ってしまった。
「えっ、なにかおかしなこと言った?」
「先生はとても正直なので」
「正直なのが取り柄。嘘吐きは嫌いだよ。子どもでも大人でもね」
「ひどい嘘を吐かれたんですか」
「まぁね」
良樹先生は書棚に背をもたれ、後ろ頭を撫でた。
「自分の存在が不確定に感じることがあるんだ」
――同じだ、私と。
居場所が無い辛さを彼は知っている人なのだ。
「自分の名前は好きなんだけどね」
「ステキな名前ですよね。ちょっと羨ましいです。私は自分の名前が苦手だから」
「どうして? 綺麗な名前なのに」
「時々、意味が無いと感じるんです。からっぽの名前だなって」
「君の生き方が名を彩っていくんだよ。からっぽだと思うなら君の名前は真っ白だ。今から自由に色を足せばいい」
彼の言葉に、ひととき救われた。
――けれども、私は。
夢の中で瞼を開ける。そこはまだ夢で暗闇が広がっていた。どこで現実に戻れるか分からない無限回廊の始まりだ。何度瞼を開けても夢。こんな夢に限ってよく現れるのが、ぶらぶらと天井で揺れる前世の私の最期である。首を吊る前に、前世の私が考えたことが蘇る。
――先生にありがとう、と言いたかったなぁ。
彼は既に学校を去っていたので叶わなかったけれど。
――アルには、たくさん「ありがとう」を言いたい。
朝の気配に導かれ、夢から目覚めて吃驚した。
隣で気持ち良さそうに寝ている彼の顔をまじまじと見つめる。
――なぜこんな状況になっているの!?
私は、夫の腕の中にすっぽりおさまっていた。
【つづく】
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