【コミカライズ化!】リンドバーグの救済 Lindbergh’s Salvation

旭山リサ

8-1 ★ 美名姉さん

【第8章】の語り手はマーガレットです。
【注意】人の死を彷彿とさせる残酷な描写があります。



 秘密の花園に色欲しきよく権化ごんげが顔を出す悪夢を見ました。

 あの王子は、うさぎのお尻をおっかけ回し、ここへ辿たどり着いたのでしょうか。

 ――夢です。絶対夢! こんな夢見たくない、早く覚めたいのに!

 夢の中でぎゅっと目を瞑り、恐る恐る目蓋まぶたを開きます。

 私は美術館のような長い通路にたたずんでいました。通路には等間隔に額縁がくぶちもうけられており、風景画や抽象画が飾られています。その中の一つに釘付けになりました。

 ――この少女の絵……見覚えがあります。

 額縁の中の少女は濡れ羽色の髪で、三角の襟に膝丈程度のスカートを穿いています。

「姉さん。美名みなねえさん」

 私の口は誰かに乗っ取られたようです。考えるより早く、絵に描かれた少女の名を呼んでいました。

 ――そうだわ。私、前にもこの人を夢で見た。

 以前の夢でも私は彼女を「美名みなねえさん」と呼んでいたのです。朧気おぼろげですが、遠ざかる彼女の背中を夢の中で必死に追いかけた記憶があります。

 この夢で「美名みなねえさん」は額縁の中にいるので、追いかける必要はありません。姉さんは額縁の中で私へ哀しげに笑みました。

「こっちに来てはダメよ、英舞えま

 この名前にも既視感があります。以前見た夢でも美名みなねえさんは私のことを「英舞えま」と呼びました。頭の中に複雑に入り組んだ文字の形が浮かびます。これはどこの世界の言葉なのでしょう。これが私の名前なのでしょうか。

 ――うっ。首が痛いです。

 夢の中の私は背が小さく、美名姉さんの絵は大人が見てちょうど良い位置に飾られています。

 ――はて? 夢を見ている私は、一体いくつなのでしょうか。

 十歳前後であろうと思われました。

「姉さん、絵から出てきてください。そこは高くて、話しかけるのがつらいです。首が痛くなってしまいます」

 私は絵の中に美名みなねえさんが閉じ込められていると思いました。まるで何か……犠牲の象徴のように。私は助けたくて「ダメよ」という姉さんの声を振り切って、彼女の足に触れようとしたのです。

「触れてはダメ、英舞えま!」

 美名みなねえさんではない、別の女性の大声が聞こえました。急に額縁が消えて、うつむ美名みなねえさんの姿が立体的に浮かび上がります。額縁から解き放たれたのに、美名みなねえさんは変わらず私より視線の高いところにいました。

 ――私は絵を見ていたはずなのに。

 美名みなねえさんは居間で首をくくっていたのです。
 私は誰かに手を引かれ、廊下へと追い出されました。
 その誰かは先ほど大声を上げた女性で、私の〝母親〟のようでした。

「救急車! 姉さん、今すぐに救急車を! 姉さん、しっかり!」

 居間の入口でひざを崩している女性に、私の母がしきりに声をかけています。美名みなねえさんのお母さんは、魂の抜け殻のようになっていました。私の母が救急車を呼びましたが、時既ときすでに遅し。居間から、美名みなねえさんのお母さんの嗚咽おえつが聞こえてきた時に分かってしまったのです。美名みなねえさんは死んだのだ、と。

 ――思い出してしまいました。私が私で無かった時の記憶を。

 英舞えまと呼ばれた私は、初めて「死」を目の当たりにしたのです。その後警察官や、いろいろな大人から事情を聞かれました。私が「首を吊った美名みなねえさんを見つけた」からです。

 なぜ私がそこに居合わせたかというと、私の母が美名みなねえさんのお母さんに呼ばれたからです。私の母と、美名みなねえさんの母は、血のつながった実の姉妹なのです。

 美名みなねえさんと遊べることが嬉しくて、私は浮き足立っていました。美名みなねえさんのお母さんは、二階へ声をかけました。「英舞えまちゃんが来ているわよ」と。けれども反応が無いので「寝ているのかしら」と首をかしげていたのです。居間の扉が少し開いていたので、近くにいた私が先に顔をのぞかせました。

 逆光でよく見えませんでしたが、天井から細長い何かが吊されていることに気付いたのです。私は夕日に手をかざしながら近付き、その細長い何かの正面に回りました。そこでようやく、それが美名みなねえさんだと分かったのです。一部始終を大人に話してきかせると、

つらいものを見たね」

 誰もがそのように私へなぐさめの言葉をかけました。心にも思っていないことはすぐに分かりましたとも。警察官も、お医者様も、自殺などは「見慣れている」と言った風でした。

 ――姉さんはどうして死んだのかしら。

 お通夜の日、控え室のすみっこで私はずっと考えていました。

美名みなが死んだのは貴方あなたのせいよ!」
「いいやおまえのせいだ!」
「姉さんはなにも悪くないわ!」
「おまえはちょっと黙ってろ。義兄にいさん、義姉ねえさん落ち着いてください!」

 私の両親と美名みなねえさんの両親の大喧嘩おおげんかが始まりました。

 ――姉さんが首を吊ったのは、この人たちが原因ではないのかしら。

 私は美名みなねえさんの従姉妹いとこですが、一番故人の死をいたんでいたと思います。控え室で大喧嘩していた美名姉さんの両親は、葬式場では二人並んでさめざめと泣いていました。私には何もかもが嘘に見えたのです。

「痛かったね……苦しかったね」

 ただ一人、ひつぎの前で泣いた、あの青年をのぞいて。

 ――綺麗な男の人。彼は誰なのでしょうか?

 碧眼へきがんに涙を湛え、黒髪の青年は姉さんの死を心から嘆いているようでした。その青年がずらりと背後に並んだ美名みなねえさんのクラスメイトをにらんだものですから、私は少し意表を突かれたのです。青年は、美名姉さんのクラスメイトに「嘘吐きがたくさんだ」と言い放ち、葬式場を去りました。

 ――美名みなねえさんが首をくくったのは、クラスメイトが原因?

 私はそこに並んだ男女一人一人をよく観察しました。

 ――あっ。あの女は……。

 黒髪を一つに束ねた、えない顔の女生徒が目に飛び込んできます。
 私は思い出したのです、あの非常に不快な出来事を。

【つづく】


 次話の更新は【6月25日(火)】を予定しています。

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