ルー・ガルー〈ジェヴォーダンの獣異聞〉

寝る犬@トラックようじょ発売中

最終話

 夕方にはアンヌも元気を取り戻し、マリアが腕によりをかけた料理を囲んで、3人は愛しい娘の怪我が癒えたのを心から祝った。
 楽しい食事が終わり、暖炉の前で家族3人くつろいでいると、急にジャンが立ち上がる。

「……すまんが、銃の部品が壊れてしまっているのを忘れていた。今から行けば村の鍛冶屋もまだ起きているだろう、ちょっと行ってくる」
「今からですか? 明日でも……」
「いや、ダリウスが今夜山に入れば、明日の朝には騒ぎになっているだろう。銃も扱えない司祭に獣が退治できるわけがない。今日のうちに銃を直しておきたいのだ」
 ダリウス司祭の名前にアンヌがピクリと反応する。
 マリアも不安そうにジャンに目を向け、アンヌを引き寄せた。
 2人の反応にジャンは苦しそうな表情を見せるが、一瞬の後にはいつもの表情に戻っていた。

「納得行くまで修理してもらうつもりだ。お前たちは先に眠っていなさい」
 ジャンは銃の入った袋を肩に担ぐとドアへ向かう。

「お父様、いってらっしゃい」
「あなた、お気をつけて」
 玄関まで見送りに来た妻と娘にキスをして袋を担ぎなおすと、大きな満月の月明かりでぼんやりと明るい森の道へ、右足を引きずりながらも急ぎ足で歩いて行った。

「さぁ、お父様もああ仰ったのだから、アンヌはもう寝る準備をしなければいけないわね」
 ドアを閉め、重い閂を下ろすと、マリアはもう一度しっかりと娘を抱きしめた。
 ジャンが獣を倒してくれる。帰ってきてくれる。アンヌの怪我も治った。全ては良くなっている。
 頭の中で良かったことを全て並べ立ててみても、マリアの心は晴れなかった。

「今日は久しぶりに外に出たのだし、疲れたでしょう? 温かいミルクにはちみつを溶かしてあげましょうね」
「はい、お母様」
 行儀よく返事をしたアンヌは、柔らかな母の香りをかき消すように風に乗って漂う香りを嗅いでいた。
 日曜日のミサで焚かれるあのお香の煙るような香りと、花の香の入り混じった胸の悪くなるような匂いを。


 山の中腹、森の中に開けた10m四方ほどの広場に、突然炎が灯った。
 炎に照らされ、今まで屈みこんでいた男の影が立ち上がると、足元の薪を数本くべて近くの丸太に腰を下ろす。
 炎の明かりの中で、男は赤黒い革製の大きな本を開くと数頁読み進めたが、思い直したように本を閉じ、袋の中にしまった。

「……いまさら何をやっているのだ私は」
 胸の十字架に指を当てると神に祈る。
 私自身と、長い付き合いの友人と、その愛すべき娘、その3人の命と運命がどうなるのか、今夜決まる。
 もう神に祈る以外にすべき事はないのだと、ダリウス司祭は改めてそう想った。
 空には夜空にポッカリと浮かんだ邪悪な狼の瞳のように、赤みがかった黄金色の満月が浮かんでいる。
 月を見上げたダリウス司祭は静かに目を閉じ、ただ祈りの言葉をつぶやき続けた。

 神に支えようと心に決めてから20年ほど。
 戦争を止めることはおろか、友の怪我を癒すことも、酒に溺れる友を救うことも出来なかった。
 こんなちっぽけな存在である自分に、ルー・ガルーを倒すことも邪悪な狼に魅入られた可愛らしい娘を救うことも、出来る理由はないように思えた。
 救うなどとは大それた、思いあがりの言葉だった。
 ただ友に寄り添い、神に祈りを捧げよう。
 父を想うあまりに狼に魅入られた少女の心と、家族を想うあまり家から離れた男の心、2つの心を支える小さな楔になろう。
 その後のことは2人と神が決めるだろう。
 ダリウス司祭は祈り続けた。


 ジャンがいつ帰ってきてもすぐに分かるようにと、玄関近くの椅子でウトウトと眠っていたマリアがふと目を覚ましたのは、もう真夜中をだいぶ過ぎた頃だった。
 火を落として種火にしてあったはずの暖炉の残り火が、チロチロと風に揺れている。

「……風?」
 隙間の多い古い家だが、風の強くないこんな夜に暖炉の火が揺れるなどと言うことは今まで無かった。
 胸騒ぎを覚えたマリアは、燭台に暖炉の火を移すと娘の部屋へと向かう。
 アンヌの部屋のドアの前に立つと、蝋燭の炎が大きく揺れた。ドアの隙間から風が入ってきている。

「……アンヌ?」
 小声で呼びかけながらドアを開けた瞬間強い風が吹き、蝋燭の炎が消える。
 乱れた髪をかきあげ、部屋の中に目をやったマリアが見たものは、大きく開け広げられた木の窓と、ベッドの上に脱ぎ捨てられた寝間着の上に差し込む黄金色の月明かりだった。

 慌てて窓に駆け寄ると、窓の外からは悲しげな狼の遠吠えが、長く尾を引くように響いていた。
 マリアは全てを悟り、娘の寝間着を抱えて神に祈りを捧げると、ただその場に泣き崩れた。


 サワサワ……。

 微かな衣擦れのような音を立てて、銀色の美しい獣が新緑の森を駆ける。月の光を写した狼の金色の目には、月明かりにおぼろに浮かぶ森の小道が、まるで光り輝く黄金の道のように見えた。

(お母様。……ごめんなさい)
「……オォォォォォォ……・ォォン……」
 アンヌの懺悔は悲しげな狼の遠吠えとなり、山々にこだました。

(でも、神に仕える身なのに、お父様のことを……堕落したと……言った)
(サバキヲ……アタエネバ……)

(あの司祭だけは……許さない!)
(カミヲ……カタルモノヘ……サバキヲ!)

 ただ駆け続ける狼の視線の先に、山の中腹に赤い炎が目印のように輝き、日曜礼拝の香りが一層強く香る。
 一歩毎に香りが強まり、一歩毎に殺意が体に渦巻いた。

(絶対に! 許さない!)
(……コロス!)

トッ。

 小さな足音を立てて降り立ったのは小さな空き地。
 小さな焚き火の前で小さな男がただ神に祈りを捧げていた。

「……やぁアンヌ。遅かったね」
 ダリウス司祭は祈りをやめ、丸太から立ち上がる。
 焚き火を挟んで対峙する2人の距離はわずか10m。この巨大な狼の跳躍ならば一飛の距離だ。しかし司祭は恐れた様子もなく、虚勢を張るでもなく、まるで教会に遊びに来た子供に挨拶するように狼を見ていた。

(なぜ? 狼が怖くないの?)
「グルルル……」
 低い唸り声が広場に響く。

(恐れなさい! お父様を侮辱した罰に! 貴方を殺すこの獣を!)
 短い咆哮を上げ、狼は一足で司祭の目の前まで飛び、前足で撫でるように吹き飛ばした。わずかに爪の先が掠めただけで、司祭は地面に討ち倒される。
 パックリと裂けた左腕から真っ赤な血が流れ出した。
 痛みに耐えながらも神への祈りを呟く司祭に、苛立ちが募る。

(恐怖しなさい! 恐れながら死になさい!)
(ソノ……イノリヲ……ヤメロォ!)
 もう一度距離を取り、飛びかかろうと態勢を低くした狼の耳に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「やめなさい! アンヌ!」
(お父様!?)
 司祭の後ろの茂みからジャンが現れる。その体はずぶ濡れで憔悴しきっていたが、背中には銃を背負い、真っ直ぐに狼を、いや、アンヌを見つめていた。

(お父様の匂いなんか全然しなかったのに!)

「大丈夫か? ダリウス」
「ええ、何とか。……できればもう少し早く来て欲しかったと言うのが正直な所ですが……」
 ジャンは寒さに震える手でダリウスを助け起こす。

「無理を言うな、匂いを消すために冷たい川に浸かっていたのだ。獣が来なければ意味が無いからな。……命があって何よりだ」
 ダリウスの傷をチラリと見て、そう締めくくる。
 腕の傷は深かったが、後遺症が残るほどの傷でも命にかかわるような傷でもなかった。

 唸り声を上げる獣に対峙し、ジャンと司祭は膝を折る。

「アンヌ、まず私が謝りましょう」
 ダリウス司祭が口を開く。

「ルー・ガルー……ジェヴォーダンの獣をおびき出すためとは言え、貴方の父親を貶めるような事を言ってしまって済みませんでした。貴方の父は立派な男で、私の無二の友です」

(何を今更!)
(コロセ! ……サバキヲ!)
 再び飛びかかろうと身を沈めた獣をジャンが制する。

「待ちなさいアンヌ。私にも謝らせておくれ」

(だめ! 跳びかかってはだめ!)
 狼はそのまま身を低く構え、苛立ちの唸り声を上げる。
 しかし飛びかかりはしなかった。

「アンヌ。私が不甲斐ないばかりにお前にこんな思いをさせてしまって済まなかった。私はお前の想ってくれているような英雄ではなかったのだ。戦いで負った怪我を理由に自分の不甲斐なさを誤魔化し、お前たちの優しさに甘えて責任を放棄した。人に陰口を言われて当然の事をしたのだ」
(違う! お父様は国の皆のために戦って皆のために怪我をしたのに! お父様は悪くない!)
 アンヌの迸る気持ちに触発された狼が、あろうことかジャンにその爪を向けた。

(だめっ!!)
 必死の静止にもかかわらず、その禍々しい爪はジャンの頬を切り裂く。地面に転がったジャンはダリウスの手を借りて立ち上がった。
 頬には4本の深い傷が刻まれ、顔の半分は朱に染まっていた。

「アンヌ……、もしお前が許してくれるなら、もうこんな事はやめてくれ。私はこのダリウス司祭と神に誓ったのだ、一生をかけて、神にもお前にも誇れるような本物の英雄になると。お前も一緒に今までの罪を償い、生きよう。その機会を私に与えてくれないか」
 背負った銃を取り出し、アンヌの見ている前で袋から取り出した銀色の弾を込める。
 その弾は狼の目には真っ白な光に包まれているように見えた。

(お父様が……私を……撃つの……?)
(ヤメロ! アノオトコニモ……カミノ……サバキヲ!)
 ダリウス司祭の祈りの声が低くゆるやかに響き渡る。

「アンヌ、この弾は神のために聖別された銀の弾だ。この弾は獣を殺す。……だがな、アンヌ、私は自分の娘を殺したりしない」
 ゆっくりと持ち上げられた銃は、狼の眉間を真っ直ぐに狙った。

「私を信じてくれるなら……いや、許してくれるなら、そうしてじっとしていてくれ。許さぬのなら、お前の手で私を殺してくれ!」

(お父様が私を?! ……私を?! ……私は?!)
(カミノサバキヲ! サバキヲアタエル!)
 牙を剥きアンヌを取り込んでしまうかのように身を捩る獣の中で、アンヌは自問していた。

(私はどうして……何のために獣になったの?! どうして人を殺してしまったの?!)
(サバキヲ! アタエルタメニ! カミノ……サバキヲ!)

(違う! 私はお父様のことが大好きだから! お母様の悲しむ姿を見たくないから! ……私は!)
(オォォォォォォ! コロス! ……コロス!)
 巨大な狼の体から、ブチブチと何かが引きちぎられるような不気味な音が響き、ゆっくりとジャンへと近づく。
 狼の口角ががほんの僅か引き上げられ、その黒い裂け目は、まるでニヤリと笑っているように見えた。

「ゴォォォォアァァァ!」
 迸るように咆哮を放ち、ジェヴォーダンの獣はその牙をジャンの頭へ向けて真っ直ぐにつきだした。

(私は……! お父様を……! 信じる!)
 獣の突進はジャンの銃口の目前、数十cmの所で唐突に止まり、白み始めた満月の夜空に一発の銃声が鳴り響く。
 その銃声は、まるで狼の遠吠えのように、長く、悲しく、糸を引いていつまでも山に木霊した。




 高く晴れ渡った空にうろこ雲が並び、豊かに実った葡萄の葉を秋の風と共に一頭の騎馬が駆けてゆく。
 立派な装具をつけた騎馬に乗った身なりのいい男の頬には、斜めに4本の傷が刻まれており、歴戦の勇者のような顔だったが、畑で収穫の作業をしている者達に声をかけながら通りすぎてゆくその表情は、柔和で村人に安心感を与えるものだった。
 男は少しずつ速度を増すと山道を駆け下り、麓の街の教会へと馬を走らせた。

「これはこれはシャルトル卿。わざわざのお越し何用でしょうか?」
 教会の入り口で出迎えたのは、ゆったりした動作の長身の男だった。

「卿はめてくれダリウス司祭。ジャンで結構だ」
 馬から降りたジャンは、教会の従者に馬を預けるとダリウスの手を取り固く握手を交わす。

「慣れない仕事で時間が取れずに、礼を言う機会も逃してしまった。申し訳ない。腕の怪我はもういいのか?」
「ええ、傷は残りましたが、何の不自由もありませんよ」
 ジェヴォーダンの獣が退治されてから、既に3ヶ月ほどの時が経っていた。
 ジャンは一躍英雄となり、男爵に叙爵された。
 この周辺の荘園を任されることになり、下級貴族として忙しい日々を送っている。
 町の広場にはジャンの銅像まで建てられ、今日はその除幕式に呼ばれていたのだった。

「たいそう立派な銅像だそうですよ。ジャン」
 面白そうに笑いながら、ダリウス司祭はジャンを教会の中へと招き入れる。

「銅像などいらんとあれだけ言ったのに、頑として聞き入れてくれぬのだ。困ったものだ」
「……まぁ、英雄に銅像はつきものでしょう」
 憮然とした表情で応えるジャンをダリウス司祭は目を閉じて慰める。

「……英雄……か」
 それっきり会話は途切れ、祭壇の前まで黙って歩く。
 2人の思い浮かべているのがアンヌの姿であるのはお互いに分かっていた。

 祈りを捧げると、ジャンはダリウスを伴い広場へ向かう。
 広場には獣を倒した英雄であるジャンをひと目見ようと人だかりが出来ていた。

「……によって、ついに、かの凶悪なるジェヴォーダンの獣を討ち倒すに至ったのであります! その英雄的犠牲の精神と我々全ての命を救った献身的行動を讃え、ここに建立された像をお披露目します! それでは、ジャン・ピエール・シャストル卿、お願いいたします!」
 芝居がかった街の役人の先導で、ジャンは身長の2倍ほどの高さも有る像の膜を引き払った。
 騎士の鎧を身につけ、銃を手に持ったジャンの銅像が現れる。
 広場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。

「……けっ。カカシのジャンが英雄かよ。ジェヴォーダンの獣くらい銀の銃弾さえありゃあ俺にだって倒せらぁ」
 広場の隅を酒臭い男が歩いてゆく。
 たまたま近くに居たマリアは、その声を耳にして不安そうに娘の顔を覗き込んだ。
 アンヌはその男を見つめていたが、母の視線に気づくとニッコリと笑顔を返す。

「大丈夫よお母様! お父様は英雄ですもの、少しくらい逆恨みも受けるものだわ」
 以前着ていた物より凝った刺繍の施された、真っ白なワンピースの裾をはためかせ、アンヌは嬉しそうにくるりと一回りしてマリアの腰に抱きついた。

「それにお父様が本当の英雄だということは、私がよく知っています!」
 そうねと答えてジャンの方に目を向けたマリアの視界の隅で、一瞬、娘の頭に銀色の狼の耳が見えたような気がした。
 驚いてもう一度娘を見るが、やはりそんなものは存在していない。母の表情を見て、アンヌはもっと強くマリアの腰を抱きしめた。

「大丈夫よお母様」
 マリアも安心して娘の髪を撫でる。

「……大丈夫よ」
 もう一度そうつぶやき、笑顔を浮かべるアンヌの口の端に短い牙が煌めいたのは、マリアからは見えなかった。


―― 終

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