ホムンクルスの恋人
第四話「内の世界、外の世界」
――第三日
マルガレーテはぼくの持参した小さな花束を満面の笑顔で受け取った。
花など買ったことの無いぼくが、たくさんの花の中から見つけた真っ白なその花の名前はマーガレットと言い、派手な赤や黄色の花の中につつましやかに咲いているその花は、名前とともに彼女を思い出させた。
教授にお願いして三角フラスコを一つ借り、テーブルの真ん中に花を飾る。
その日の彼女は終始機嫌がよく、ことあるごとにその白い花びらに触れては笑顔を見せていた。
ぼくと彼女の会話は尽きることを知らず、テストは3時間にも及ぶ。
それでも話し足りないぼくらは名残を惜しみ、そっと指先同士を触れさせ、三日目のテストを終えた。
「贈り物をするというのは、感情面を測るには良いテストだったね。エドワードくん」
教授はテストの結果を聞こうとメモを構えている。
ぼくは彼女に触れた指先がまだ暖かいような気がして、その感覚を失わないように指先を反対の手で握り、沈黙を貫いた。
「……何か問題があったのかね?」
忍耐強く待っていた教授が、ペンを走らせながらぼくを覗きこむ。
頭の中が整理できない。
問題はある。だけどそれは彼女にではない。それはぼくの心の中にあった。
ぼくは何も言えないまま、荷物を引っ掴むと研究室を飛び出た。
――第四日
雨。
傘も差さずに教授の研究室の近くまで来たぼくは、そこで足が止まった。
肌を冷たい雨が流れる。
昨日感じた指先の暖かさは、もう消えていた。
通りかかった友人のフリッツが、ぼくを傘に入れてくれる。
そのまま部屋へと送られ、ぼくは服を着たまま、熱いシャワーを浴びた。
――第五日
教授からの使者がドアをたたいたのは2限が終わったころ。
昨夜から一睡もできずに朝を迎えたぼくは、以前何かのお祝いでもらったまま封も切っていない酒を煽り、まったく酔わない自分にちょうど嫌気がさしていたところだった。
シャワーを浴びたら向かいますと伝言を頼み、シャワーを浴びて、ひげを剃る。
濡れたまま放ってあった剃刀の刃は切れ味が悪く、頬に傷を作った。
赤い血が、シャワーのお湯に滲む。
ホムンクルスにも赤い血が流れているのだろうか。
彼女の首に剃刀を滑らせたら、彼女は真っ赤な血を吹き出して、その人工的に作られた命を散らすのだろうか。
それとも、人ではない生き物である彼女はそんなことでは死を迎えないのかもしれない。
一直線に切られた首をぶら下げながら、マルガレーテが真っ白なドレスを真っ赤に染めて追いかけてくる幻影を見たぼくは、シャワーを止め、体を拭いた。
服を着て、革砥を取り出し、剃刀の刃を砥ぐ。
なんどもなんども、丁寧に。
やがて自分の姿が映るほどに輝いた剃刀を折りたたみ、油紙に包んでポケットにしまった。
昨日とはうって変わって晴れた空の下、教授の研究室へと向かう。
教授は昨日のことは何も言わず、相変わらずの気さくな笑顔でぼくを迎え、そのまま白い部屋の扉を開けた。
真っ白な部屋。
少し枯れ始めているマーガレット。
そして、真っ白な服を着たマルガレーテ。
「やあ、マルガレーテ」
声をかけると、彼女はぷいっと顔をそむける。
その愛らしい仕草に、ぼくは胸が苦しくなるのを感じた。
「昨日はごめん。どうしても外せない用事ができてしまって」
我ながらなんとも真実味にかける言い訳だったが、とにかくぼくは何か言い訳を続けていたのだと思う。
言葉に詰まり、顔を上げると、彼女はぼくのことをじっと見つめていた。
「……エドワード、私はあなたに言わなければいけないことがあるの」
マルガレーテの手がぼくの手を包み、美しい顔が近づく。
花の香りよりも甘い彼女の香りに、ぼくは頭がくらくらするほどの喜びを感じた。
「エドワード、あなたは――」
マルガレーテの言葉を遮り、研究室のドアが開く。
いつもの笑顔が消え去ったホーエンハイム教授は、真っ直ぐにマルガレーテの傍らまで駆け寄り、彼女をぼくから引きはがした。
「マルガレーテ! きみは契約を破るつもりか!?」
「もうこれ以上エドワードを騙しては居られません!」
「黙れ! 失敗作の人工生命体風情が!」
教授の手が大きく振りかぶられ、マルガレーテの頬に打ち下ろされる。
真っ白な床に倒れ、唇の端から赤い血を流した彼女を見て、ぼくは立ち上がった。
背中から教授の服をつかみ、ポケットから取り出した剃刀を奔らせる。
よく砥がれた剃刀は容易く教授の白衣を切り裂き、そこに真っ赤な血をまき散らした。
マルガレーテの手をつかみ、花弁のように軽い彼女を抱き起す。
彼女の瞳に「恐れ」の感情を見て、ぼくは剃刀を投げ捨てた。
「マルガレーテ! 逃げよう! ぼくと……」
「あぁ、エドワード。いけないわ! 逃げられる訳がないのよ」
「そんなことあるものか! ぼくはきみを愛しているんだ!」
彼女を抱き寄せ、青空を映す深い湖の底のような、奥深くまで落ちて行ってしまいそうな瞳を覗く。
そこには、先ほど見た「恐れ」と、新たにそこを埋め尽くす「喜び」の感情が見えた。
「エドワード……私も……愛しているわ」
彼女の体の温もりと、ぼくを惑わす花の香り。
そして、唇に触れる柔らかな感触。
彼女の手を引き、ぼくは研究室へ向かう扉を潜り抜けた。
「く……エドワードくん! 無駄なことはやめたまえ! それは失敗作だ!」
「彼女を失敗作なんて呼ぶな! ぼくは彼女を一人の人間として愛しているんだ!」
「きみだってホムンクルスの語源くらい知っているだろう! それはここから離れては生きられないのだ!」
教授の言葉を振り切って、ぼくはマルガレーテの手を引き、彼女とともに秋の太陽が輝く銀杏並木へと走る。
マルガレーテは初めて見る空の色に瞳を輝かせ、秋の風に頬を上気させ、胸いっぱいにそれを吸い込んだ。
「すごい……これが外の世界……」
「ああ、これからぼくときみが生きる世界だよ、マルガレーテ」
走るのをやめ、秋空の下、彼女の手を引いたぼくは、手に違和感を感じて視線を落とす。
ぼくの手の中で、マルガレーテの白磁のような手はひび割れ、固く強張って行った。
「……マルガレーテ?」
「……ありがとうエドワード。でも、私はやっぱり失敗作なの」
少しずつ、少しずつ、彼女の体は崩れゆく。
失敗作。
ホムンクルスの語源。
ぼくは教授の言葉を思い出した。
――フラスコの中の小人。
フラスコの中の小人は、フラスコの外では生きられない。
彼女はひび割れた顔で笑い、ぼくを抱きしめた。
「ありがとう、エドワード。私は死ぬ前に、本当の世界を見ることができた」
「マルガレーテ……ごめん……ぼくは……」
「ありがとう、エドワード。本当の恋も知ることができた。ありがとう、エドワード。あなたのおかげで私は本当の人間になれたわ……」
「マルガレーテ!」
彼女を抱きしめようとしたぼくの腕は、空をつかむ。
最後にぼくに残ったのは、頭がくらくらするほどの甘いマーガレットの香りと、かすれた声の「ありがとう」の言葉だった。
マルガレーテはぼくの持参した小さな花束を満面の笑顔で受け取った。
花など買ったことの無いぼくが、たくさんの花の中から見つけた真っ白なその花の名前はマーガレットと言い、派手な赤や黄色の花の中につつましやかに咲いているその花は、名前とともに彼女を思い出させた。
教授にお願いして三角フラスコを一つ借り、テーブルの真ん中に花を飾る。
その日の彼女は終始機嫌がよく、ことあるごとにその白い花びらに触れては笑顔を見せていた。
ぼくと彼女の会話は尽きることを知らず、テストは3時間にも及ぶ。
それでも話し足りないぼくらは名残を惜しみ、そっと指先同士を触れさせ、三日目のテストを終えた。
「贈り物をするというのは、感情面を測るには良いテストだったね。エドワードくん」
教授はテストの結果を聞こうとメモを構えている。
ぼくは彼女に触れた指先がまだ暖かいような気がして、その感覚を失わないように指先を反対の手で握り、沈黙を貫いた。
「……何か問題があったのかね?」
忍耐強く待っていた教授が、ペンを走らせながらぼくを覗きこむ。
頭の中が整理できない。
問題はある。だけどそれは彼女にではない。それはぼくの心の中にあった。
ぼくは何も言えないまま、荷物を引っ掴むと研究室を飛び出た。
――第四日
雨。
傘も差さずに教授の研究室の近くまで来たぼくは、そこで足が止まった。
肌を冷たい雨が流れる。
昨日感じた指先の暖かさは、もう消えていた。
通りかかった友人のフリッツが、ぼくを傘に入れてくれる。
そのまま部屋へと送られ、ぼくは服を着たまま、熱いシャワーを浴びた。
――第五日
教授からの使者がドアをたたいたのは2限が終わったころ。
昨夜から一睡もできずに朝を迎えたぼくは、以前何かのお祝いでもらったまま封も切っていない酒を煽り、まったく酔わない自分にちょうど嫌気がさしていたところだった。
シャワーを浴びたら向かいますと伝言を頼み、シャワーを浴びて、ひげを剃る。
濡れたまま放ってあった剃刀の刃は切れ味が悪く、頬に傷を作った。
赤い血が、シャワーのお湯に滲む。
ホムンクルスにも赤い血が流れているのだろうか。
彼女の首に剃刀を滑らせたら、彼女は真っ赤な血を吹き出して、その人工的に作られた命を散らすのだろうか。
それとも、人ではない生き物である彼女はそんなことでは死を迎えないのかもしれない。
一直線に切られた首をぶら下げながら、マルガレーテが真っ白なドレスを真っ赤に染めて追いかけてくる幻影を見たぼくは、シャワーを止め、体を拭いた。
服を着て、革砥を取り出し、剃刀の刃を砥ぐ。
なんどもなんども、丁寧に。
やがて自分の姿が映るほどに輝いた剃刀を折りたたみ、油紙に包んでポケットにしまった。
昨日とはうって変わって晴れた空の下、教授の研究室へと向かう。
教授は昨日のことは何も言わず、相変わらずの気さくな笑顔でぼくを迎え、そのまま白い部屋の扉を開けた。
真っ白な部屋。
少し枯れ始めているマーガレット。
そして、真っ白な服を着たマルガレーテ。
「やあ、マルガレーテ」
声をかけると、彼女はぷいっと顔をそむける。
その愛らしい仕草に、ぼくは胸が苦しくなるのを感じた。
「昨日はごめん。どうしても外せない用事ができてしまって」
我ながらなんとも真実味にかける言い訳だったが、とにかくぼくは何か言い訳を続けていたのだと思う。
言葉に詰まり、顔を上げると、彼女はぼくのことをじっと見つめていた。
「……エドワード、私はあなたに言わなければいけないことがあるの」
マルガレーテの手がぼくの手を包み、美しい顔が近づく。
花の香りよりも甘い彼女の香りに、ぼくは頭がくらくらするほどの喜びを感じた。
「エドワード、あなたは――」
マルガレーテの言葉を遮り、研究室のドアが開く。
いつもの笑顔が消え去ったホーエンハイム教授は、真っ直ぐにマルガレーテの傍らまで駆け寄り、彼女をぼくから引きはがした。
「マルガレーテ! きみは契約を破るつもりか!?」
「もうこれ以上エドワードを騙しては居られません!」
「黙れ! 失敗作の人工生命体風情が!」
教授の手が大きく振りかぶられ、マルガレーテの頬に打ち下ろされる。
真っ白な床に倒れ、唇の端から赤い血を流した彼女を見て、ぼくは立ち上がった。
背中から教授の服をつかみ、ポケットから取り出した剃刀を奔らせる。
よく砥がれた剃刀は容易く教授の白衣を切り裂き、そこに真っ赤な血をまき散らした。
マルガレーテの手をつかみ、花弁のように軽い彼女を抱き起す。
彼女の瞳に「恐れ」の感情を見て、ぼくは剃刀を投げ捨てた。
「マルガレーテ! 逃げよう! ぼくと……」
「あぁ、エドワード。いけないわ! 逃げられる訳がないのよ」
「そんなことあるものか! ぼくはきみを愛しているんだ!」
彼女を抱き寄せ、青空を映す深い湖の底のような、奥深くまで落ちて行ってしまいそうな瞳を覗く。
そこには、先ほど見た「恐れ」と、新たにそこを埋め尽くす「喜び」の感情が見えた。
「エドワード……私も……愛しているわ」
彼女の体の温もりと、ぼくを惑わす花の香り。
そして、唇に触れる柔らかな感触。
彼女の手を引き、ぼくは研究室へ向かう扉を潜り抜けた。
「く……エドワードくん! 無駄なことはやめたまえ! それは失敗作だ!」
「彼女を失敗作なんて呼ぶな! ぼくは彼女を一人の人間として愛しているんだ!」
「きみだってホムンクルスの語源くらい知っているだろう! それはここから離れては生きられないのだ!」
教授の言葉を振り切って、ぼくはマルガレーテの手を引き、彼女とともに秋の太陽が輝く銀杏並木へと走る。
マルガレーテは初めて見る空の色に瞳を輝かせ、秋の風に頬を上気させ、胸いっぱいにそれを吸い込んだ。
「すごい……これが外の世界……」
「ああ、これからぼくときみが生きる世界だよ、マルガレーテ」
走るのをやめ、秋空の下、彼女の手を引いたぼくは、手に違和感を感じて視線を落とす。
ぼくの手の中で、マルガレーテの白磁のような手はひび割れ、固く強張って行った。
「……マルガレーテ?」
「……ありがとうエドワード。でも、私はやっぱり失敗作なの」
少しずつ、少しずつ、彼女の体は崩れゆく。
失敗作。
ホムンクルスの語源。
ぼくは教授の言葉を思い出した。
――フラスコの中の小人。
フラスコの中の小人は、フラスコの外では生きられない。
彼女はひび割れた顔で笑い、ぼくを抱きしめた。
「ありがとう、エドワード。私は死ぬ前に、本当の世界を見ることができた」
「マルガレーテ……ごめん……ぼくは……」
「ありがとう、エドワード。本当の恋も知ることができた。ありがとう、エドワード。あなたのおかげで私は本当の人間になれたわ……」
「マルガレーテ!」
彼女を抱きしめようとしたぼくの腕は、空をつかむ。
最後にぼくに残ったのは、頭がくらくらするほどの甘いマーガレットの香りと、かすれた声の「ありがとう」の言葉だった。
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