幽霊嬢も夢を見る

3+1

【1章】2話. 赤色の決意

 買った。
 買ってしまった。

 今までの購買無欲を帳消しにするくらい、それはそれは、恐ろしい価格のものを。

 私は数年間、分不相応な「おこづかい」を与えられ続け、ずっと貯蓄してきた。
 それを自分を身なりから作り変える資金にしようと思って行動に移したのだけれど、まさか数年分の蓄えがすっからかんになるなんて…、商売に関する無知を恥じなきゃいけない。

 だけど、後悔はしていない。
 眺めすぎていつの間にか就寝時間になっていたくらいには——右手の指輪に見惚れている。

 はめられた宝石は、不思議な特性を持っていた。
 昼間は心が洗われるような澄んだ緑だったのに、今はみなぎるパワーを秘めたような赤色に変わっている。
 日光と蝋燭ろうそくとで、変色して見えるそう。この石の希少性が、高値の要因でしょうね。

 奇跡的に買い取ることができたとか何だとか、店主が色々説明してくれたけれど、「高額の買い物をする」ことに頭の中は興奮していてよく覚えていない。
 きっと一番安いジュエリーでも、私は同じように綺麗と感じる。
 普段しないことの実行に、何よりの価値があったから。

 人差し指から全身に、勇気が分けられているような気分。
 ただ美しいだけじゃない…宝石って不思議だわ。絶対に大切にしなきゃ。

 もう少し眺めていたかったけれど、欠伸が出てきたから灯りを消した。
 横になると眠気が増幅して瞼が重くなってくる。

 視覚が消えたら、外のざあざあ降る大雨の音を耳がよく拾った。
 いつの間に、こんなに激しくなっていたのかしら。

 あ、指輪を外すのを忘れていた。
 まあいいか、もう一度明かりをつけるのは面倒だし…。

『誰か、誰かーー!』

 いやいや、使用人を呼ぶのはもっと面倒でしょ。それなら私が…。

『誰かっ! 助けて 』

「………ん?」

 ぱちりと目を開けた。
 今…助けを呼んだ?

 暗い部屋の中では何も見えない。
 だけど、ここに私しかいないのは間違いない。

「外…?」

 がばりと起き上がって、窓の方を見た。
 カーテン越しでも打ち付けるような雨の威力が伝わってくる。
 人がいるような天気じゃない。

『お願い、誰か! こっちに来て 』

「でも…聞こえる……」

 雨の音に紛れそうな、必死で甲高い声。

 信じられなくて少しの間呆然としてしまった。
 けれども声が一向に止みそうになくて、じっとしていられなくなる。

 手探りでランプを手にし、寝巻の上からフードを羽織る。
 それから傘を掴んで部屋から飛び出した。

 廊下は壁の燭台で小さな火が揺れているだけで、誰も起きている気配がない。
 声に気づいているのは私だけみたい。

 うーん…気のせいだった…?

 でも急ぎで支度してしまったし、ひとまず確かめに行ってみよう——

 そして小走りで玄関まで行き、正面扉を慎重に開いた。
 瞬間、ためらうような大粒の雨が視界を覆う。
 部屋で聞こえた以上の轟音で、傘とランプを持ったそれぞれの手に力がこもる。

 今は女の人の声は聞こえない。
 別所に移動したのか、そもそも声なんてなかったのか…。

「…幻聴だったら疲れてる証拠ということで……!」

 意を決して傘を開いた。
 ビシバシと雨粒の重さが伝わってくる。
 耐えるために前屈みになると、胸元近くの手がドキドキした鼓動を感じ取った。

 …さっきから緊張してる。
 だって、こんな夜中に自分だけ声に気づいて、一人で家を出ているんだもの。
 全く怖くないなんてことはない。

 だけどちらちらと宝石を見れば少し落ち着いた。
 灯に当てられて見える赤色は、私の決心を支えてくれる。
 
 通りに出てみたけれど、他に様子を伺いに出ている人はいないらしく、世界に私しかいないんじゃないかと錯覚する。
 もちろん叫ぶ女性の姿も見つからない。

 やっぱり…聞き間違いだったのかしら。

 そう思いつつも少し歩くと、建物と建物の隙間の細い小道が目に留まる。

 狭いし、昼間でも薄暗いしで、普段通ることはしない。
 深夜ではいっそう暗闇の深い所に見えて、ごくりと唾を呑んだ。

 ところが、こうしてためらっている間に、夜闇に少し慣れてきた目が地面の白い物体をぼんやりと捉える。

 あれは…。

 雨で視界が悪いのに、その正体について予感が湧いた。
 速足で近づくにつれて、その予感はどんどん確信に変わっていく。

「あっ…」

 いよいよ目の前にして息が止まる。
 白い物体は——地面に倒れた男の人。

 どうして? こんなところに? 
 もしや、もしや…。

 最悪の想定が浮かんだ時、指輪の燃える色が目に入った。

 …そうよ、落ち着くのよ、ただ外に出ただけじゃないんだから…!

「だっ、大丈夫ですか 」

 傘を放って肩に触れた。
 男性は白いシャツ姿で、ぐっしょりと濡れた布越しに肌が冷たくなっているのが伝わる。
 いったいどれだけの間、雨に打たれ続けていたのか…。

 震える指先を、そっと首元に移動させた。

 濡れている。
 でも微かに温もりがあって…脈を感じる。

「生きてる…!」

 よかった…よくないけど、よかった…!

 逆側を向いた顔には前髪がべったりと張りついている。
 周囲が暗いからわかりにくいものの、夜空のような紺色で、後ろ髪は染めているのか部分的に白っぽい。

 歳の近い、青年のような雰囲気があるけれど…。

 自然と気になって前髪を額に持ち上げた。

「…!」

 すると私は、また息を止めてしまう。

 怖さとは別の意味で……伏せたまつ毛は細く長く、鼻筋は通って、当の本人は気を失っているのに高貴な色気を感じてしまった。
 持ち物が何もなくて身分はわからないけれど、社交場に出ればまず間違いなく目を惹く顔立ちをしている。

「び、美人な殿方…」
 なんて、見惚れている場合じゃないわ! 早く屋内に避難させないと!

 彼を私一人で屋敷まで運ぶのは無理がある。
 だからフードをかけて気持ちばかりの雨除けにし、傘を拾って急いで応援を呼びに向かった。

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