【コミカライズタイトル:恋と不眠と小説と】大好きな作家の担当編集になったけど、ワンナイトした男性でした
9章-2
将来の夢は小説家――ではなく、どこかの一流企業に就職して両親と兄に恩返しすることだった。
幼い頃に両親を失った俺は、遠い親戚の人達の養子となり兄ができた。現実を受け入れられないでいた俺は作り笑いすらできず、能面みたいな顔で不気味な子どもだった。人形みたいになった俺を、新しい両親は実の子と同じくらい優しく接してくれたし、兄も不満そうな態度を出したりはするが最終的には「仕方ないなあ」と言って引っ張ってくれた。
一番辛い時にそばにいてくれた三人に、俺はすごく感謝していた。
時間が経つと、自然と笑顔になったし自分から話しかけることもできた。やっと、立ち直ることができたのだと思う。
これからたくさん幸せになろう。新しくできた父が俺に言った言葉がようやく現実味を増した。
幸いなことに、勉強は得意な方だった。知らないことを知るのは楽しいし、頭の中に新しい知識を入れる作業も好きだった。その頃から、大学を出た後はたくさん働いて両親と兄に恩返ししようと考えていた。
だけどそれとは別で、趣味もあった。勉強の息抜きでノートの余白に小説を書くことだ。といっても、すこし落書きするだけのことで長いストーリーになるほどまとまりのあるものではない。職業にしたいとまでは思っていなかったし、誰かに読んでもらったこともない。
大学は両親と兄が住む家から遠い場所に決めた。いつまでも頼りきることに抵抗があった。学費は奨学金、アパート代はバイトをして、足りない分は俺の両親が遺した貯金を使って生活した。
もっと大変な生活になるかと思いきや、高校の時よりも大学は暇だった。自然と空いた時間は小説を書いていた。一度くらいは長編を書いてみよう。働き始めたら、会社によってはこんな暇もないはずだから。
俺の身に起こったことの一部を脚色して、両親と兄に照れくさくて言えなかったことを書いてみる。夢のような話だった。書いていて、恥ずかしさもあったけれど、形になっていくのが楽しかった。
完成した話は、読ませる相手がいなかった。いや、両親と兄がいるにはいる。
しかし、彼らに面と向かって言えないことをたくさん書いた話を読ませるのは恥ずかしかった。
だからどうしたかというと、新人賞に応募した。そうすれば誰か一人くらいは読んでもらえるだろう。
原稿をポストに投函したら、それっきり。俺は書いた話のことも新人賞に応募したことも忘れた。だから一次審査がどうなったかなんて見ていなかったし、突然連絡が届いた時は間違い電話かと頭を傾げた。人生で一番間抜けな瞬間だったと思う。電話が終わっても、あれは詐欺だったのではないかと考えていたら、メールアドレスにも同様のメールが届いていた。
誰か一人でも読んでもらえばいい、とポストに入れた話は新人賞を受賞し、単行本となり、両親と兄の知るところになった。
せめてもの救いは、目の前で読まれなかったことだろう。
製本された小説を三人は一人一冊は買ったと伝えてきた。「これから読む!」とも宣言してきた。読まないで欲しいとは言わなかった。本心では読んで欲しかったから。
電話の鳴らない数時間は何も手につかなかった。
それでも俺はまだ大学生。勉強はしなければならない。
ずっと夢を見ているような気分だった。
夜になっても、両親と兄からは電話は来ない。俺は緊張で眠れなかった。どう思ったんだろう。好意的に受け取ってもらえたらいいが、もしかすると嫌な気持ちになっているかもしれない。連絡がないことに対し、ネガティブな感情が湧き出ていく。眠れないまま、朝になった。
待っていた電話が来たのはお昼前だった。兄からだ。
「読んだ」
ぶっきらぼうに、一言。それから鼻をすする音がした。
「ちょっと、免許取ってから全然運転したことなかったんだから、泣きながら運転しないの」
すこし距離を取った場所から母の声がする。
「うっ……ううっ……うぇえ……」
「お父さん、携帯持ったままずっと泣いてるじゃない! 昨日の晩、あれだけ泣いたのに」
「思い……出したら……な……ぅう」
涙声で話す父。
「……こんなことになるって分かって思ってなかったんだけど、大丈夫だった? だいぶ脚色はしてるけどさ」
一番気になっていることを訊くと、そんなことを訊くなと逆に怒られた。褒めているんだか怒っているのだか分からない言葉が、電話越しにやってくる。もはや俺の返事など気にしていない。兄が怒り混じりに叫ぶと、追撃するように泣きながら同意してくる父と母。「わざわざ距離を取るように別の県の大学を受験しやがって」「金銭的な面に一切甘えないせいで俺が恥ずかしいから悠も払ってもらえ」「悠がいるからって、俺が両親から受ける愛情が半分になるわけないだろ。子どもが増えたら愛情も倍に増えるんだ」
一番気にしていた箇所を兄に言われて、俺まで泣きそうになった。
「聞いてるのか!」
「……はい。というか、運転って車買ったんですか?」
「給料貯めて買ったばかり。今からお前のアパートまで行くから」
「え」
すこしだけ目が覚める。
「大丈夫?」
県を移動するので、高速道路を運転することになるはずだ。免許を取ったばかりではないが、それが逆に不安になる。しかも向かうのはあまり馴染みのない場所だ。
「……俺、寝てないんですけど」
「俺たちはぐっすり寝たぞ」
「泣き疲れちゃったのよね」
「父さんと母さんはな、俺は違う」
「部屋からすすり泣く声がしたぞ」
「ボケたんじゃないの!?」
キレる兄に笑う両親の声がする。
「じゃあ今から寝とけ。あ、でも電話かけたままな」
「……喋っている声聞こえてたら、眠れないと思うんですけど」
「賑やかな方がいいだろ」
何がいいのだろう。
だけど、安心したら眠くなっていた。携帯を持ったままフラフラになりながらベッドに体を預ける。電話から聞こえる三人の声は賑やかだ。疎外感はなかった。会話の内容は全部、俺のことだった。
意識はどんどん沈んでいく。まだ家族の会話を聞いていたい気持ちもあったが、唇は動かないし、瞼を持ち上げることもできない。話し声はすこしずつ静かになった。俺が寝たと思っているのかもしれない。
「なあ」
兄が俺に向けて話しかけた。
「俺、小説書くのが好きなの知ってたんだ。もし遠慮してサラリーマンになるなんて考えてるんだったら、ちゃんとやりたいことをやってくれ」
やりたいこと。
そんなの、決まっている。両親と兄への恩返し。小説は紙とペンと時間さえあればいつでもできる。
返事をすることはできなかった。もう意識のほとんどは眠っている。耳だけが起きていた。
しかし、俺は眠気がなかったとしても兄の言葉に返事はできなかったかもしれない。俺が遠慮しているかどうか、すぐに言い当てる人だった。だから、納得しないだろう。
そして、俺はそのまま眠った。
電話が鳴る音で目を覚ました。いつ電話は切れたのだろう。高速道路なら、一部電波の届かない場所もあることを思い出す。
また兄からか。もう家に着いたのだろうか。
深く考えずに携帯を耳に当てる。
しかし、それは病院からだった。
両親と兄が乗った車が事故に遭ったという話だった。
教えてもらった病院にすぐに向かう。手が震えて、鍵穴に鍵を通すのに手こずった。頭を下に向けると、血液がサッと下がるような感覚がある。
またみんないなくなるのかと思うと、怖くて足が竦んだ。
結果的に三人は無事だった。奇跡的に、とも言える。
兄の運転する車に、対向車線から大型のトラックが突っ込んだそうだ。即死してもおかしくないくらいなのに、兄はアクセルを全開に踏んだ。何がどうやって無事になったのか、詳しい話は混乱する俺には難しかった。
それでも兄は重症で、両親は頭を打って血が出るなどの怪我をしている。
眠れなくなったのはその頃からだ。
アパートに帰って、一旦眠ろうと思ったのに幻聴が聞こえる。覚えていないはずなのに、生々しく蘇ってきた。「あ」と息を呑む兄の声。それから物が落ちる音と、タイヤが擦れる音、――そして大きな衝突音。
もしかすると、俺は聞いていたのではないか。俺が眠る直前まで、通話は繋いだままだった。いつ切ったのかは知らない。
ぞくりと背筋が冷えた。
……怖い。
体が恐怖で硬直する。聞いていないはずだと否定したくても、耳の奥に残っていた音は何度も俺に聞いているはずだと訴えかけた。
そんなことはない。どちらにしろ眠っているのだから、音なんて覚えているはずがない。有り得ないと頭では分かっていても、体は言うことを聞かなかった。
寝る前に感じるふわふわとした浮遊感に体が硬直する。眠ったとしても一人だけになってしまう悪夢ばかり見た。
朝起きると、大切な人なんて誰もいないように感じてしまう。携帯や受話器を耳に当てることすら、怖くなっていた。
重症だった兄が退院しても、俺の症状は変わらない。
「どうして入院していた俺より、顔色が悪いんだ」
兄は呆れた顔で俺に言った。
「悠のせいじゃないからな」
俺は何も言えない。それは違う、と思った。もしも俺が、小説を書いてなければわざわざ俺の住んでいる場所まで向かおうとしなかったはずだ。
大学には何とか通った。隙間だらけになった頭の中に無理矢理知識を詰め込んで、三ヶ月が経過した頃、兄から知り合いの精神科医を紹介された。幾つか薬を渡されて、その中の睡眠薬のおかげで途中で目を覚ますことはなくなった。だが、寝る前と起きた直後の恐怖が消えるわけではない。それは薬で消せるものではなかった。
事故から二年。俺の不眠はちっともよくなっていなかった。自分で何かを考えることはあまりせず、頼まれたことをする日々。俺が書いた『茜色の家』が文庫本となって書店に並んでいた。その頃から兄は転勤になったと言って、近くに住むようになり、ちょくちょく顔を出すようになった。
「気分転換に家事をしに来た!」
と言って、すこし焦げたハンバーグを作る兄。俺が申し訳ない気分になっていると、「やっと兄らしいことができる。悠は昔から大抵のことはできたからな」と笑っていた。
「郵便受けも溜まってたぞ。出版社からもあるじゃないか」
すぐに開けた方がいいと催促されたが、大きな封筒の中に入っているのはファンレターだった。新しい作品を発表したわけでもないのに、手紙があることに驚いた。
兄は自分のことのように嬉しそうな、照れたような顔をして「へぇ、何て書いてあるんだ」と聞いてくる。
不器用で面倒見がよく、そしてすこし楽観的なところがある兄は「お兄さん、かっこよかったですとか書いてあったりしてな」と呟いた。
「あるといいですね……」
批判でないことを祈りながら、兄が見守る中、手紙を読むことになった。実を言うと、今まで読む気力がなくて読んでいなかったことを思い出す。それを言ったら怒られそうなので言わない。
封筒は白地のシンプルなものもあれば、北欧風のイラストが描かれたものもある。その中から一つ、小中学生が使っていそうな絵のタッチの四つ葉のクローバーがプリントされた封筒を取る。手に取った理由は封筒の柄ではなく、かなりの厚みがあったからだ。他とは存在感が違う。
「えん……やま?」
「とおやまじゃないですか」
「なるほど」
手紙は挨拶もなく、一行目は『茜色の家、読みました』から始まった。そこから先は延々と感想が続く。小説を一行目から読み直しながら書いているのではないかというほど、詳細なものだった。読んでいるだけで、そういえばあの場面を書いたなと思い出すほどだ。丁寧だった文字は、すこしずつ崩れて書いた本人の興奮が伝わってくる。勢いに任せて書いたかのようだ。熱意がすごい。
『黒澤さんが好きです! ずっと大切にします! おかげで高校の受験、頑張れそうです』
と、ファンレターの最後は締めくくられていた。その文章以外に、個人的な話など一切ない。最後の最後で、中学生なんだなと分かっただけだ。……まあ、感想というのはそういうものかもしれないのだが。
「中学生ってこんなに考えながら本を読むんだな」
「兄さんは普段、本を読まないから」
「そりゃあ、そうか」
むしろ、俺が書いた本は最後まで読めたこと自体、すごいと思う。
翌月も遠山芽依という名前でファンレターが届いた。兄はすぐさま「芽依ちゃんからだ」と手紙を持つ。親戚の女の子でも相手にするような気安さだった。
遠山さんは前回あれほど感想を書いたというのに、まだ書き足りなかったのか。封を開ければ、まさかの再読の感想。もちろん、嬉しいけどそんなことってあるのだろうか。
凄まじい熱量に圧倒されつつも、手紙は大切にとってある。難しい言い回しのない、ストレートな言葉ばかりが並ぶ遠山さんの感想は兄からも好評で「分かりやすいし、もう一回小説を読み返したい」とのこと。
「なあ、やっぱりもう小説は書かないのか」
手紙を読み終えると、兄は言った。
「……もう充分かなって」
「会社で働くの?」
「そっちの方が安定しています」
「働けるのか?」
グッサリと、容赦のない返しがやってくる。
不眠症は治っていない。体調にも波があり、いい時と悪い時の差が激しかった。大学生活は何とかなるが、会社で勤めるとなるとどうだろう。責任のある仕事で、頭がうまく働かずに取り返しのつかないミスをするかもしれない。今の状態では、そうなる可能性が高かった。
「小説家になりなよ。筑波さんだって、書きたくなったら連絡して欲しいって言ってただろ。俺はそっちの方がいいと思う。どっちを選んでもいいけどさ、どちらにしろ苦しいのは変わらないんだ。お前をこんな風にしたのは……いや、いい」
兄は他にも何か言いかけたが、頭を掻いて出て行った。
テーブルの上に広げたファンレターを集める。もう一度、遠山さんの手紙を読み返した。俺の過去を振り返ってみると、ここまで子どもらしい態度は取っていなかったかもしれない。彼女の純粋な部分が眩しかった。他のファンレターは穏やかで優しいものが多い。しばらく届いたファンレターを眺める。目を閉じて、もしも二冊目の本を世に出せた時のことを考えた。どう思ってくれるだろう。どんな風に喜んでくれるだろう。目を開けてできるかどうか考えて、やりたいと思った。
小説を書くと決めても不眠は相変わらず。
けれど、前向きにはなれたと思う。精神科医からもらう薬以外にも、睡眠のために定期的に運動をするようにした。食事にも気を遣うようにした。
それでも時々、何もかも疲れて体調を崩すことはある。そうなることを事前に予想して、学校生活や仕事で決められた期日だけは守れるように管理した。
なので部屋も綺麗になり、やることがなくなってしまった兄は呻く。
「どうするか決めた途端、立ち直るのが早い」
「ちょうどよかった。夕飯、食べますか? カレーです」
「……食べる」
兄は不服そうにしながらも、俺が作ったカレーを大盛り二杯食べて帰って行った。
二冊目の本が発売してすぐに遠山さんからファンレターが届いた。高校も第一志望に受かったことが書かれている。それ以外は何枚もの便箋を使って感想が書かれていた。
よかった。読んでもらえたんだ。
嬉しくて次も頑張ろうと考え、ささやかながら何か返したくなる。大それたことではない。ただ、四月に入学式おめでとうと言った内容のはがきを送るだけだ。ずっとファンレターを送り続けてくれる遠山さんなら、喜んでくれるはず。そう思って、次に届くかもしれないファンレターを待っていた。
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