【コミカライズタイトル:恋と不眠と小説と】大好きな作家の担当編集になったけど、ワンナイトした男性でした

佐倉響

8章-1






 次の土曜日までには出て行くことを決まってから、私はできるだけ終わりの日について考えないようにした。そうしなければ、うっかり泣いてしまいそうになるのだ。泣けば悠さんは心配する。心配して、もうすこし期間を長くしてくれるかもしれない。そんなずるいことはしたくなかった。

 今日もいつものように悠さんと寝る。私の肌はもうすっかり彼の温もりに慣れていた。

 あんまり悠さんのことを考えると、眠れなくなりそうだったので別のことを考える。



 ――中学生の頃の話だ。

 家に帰ると、いつもならまだ会社にいるはずの両親の靴があった。何を思ったのか、私は足音を立てずに家に入った。

 こんな時間から両親がいることが嬉しくて、驚かせようと考えたのだ。

 玄関から廊下を真っ直ぐ歩く。両親の声が聞こえた。母の困惑した声。父の諦めるような声。あまりいい雰囲気ではなかった。

 リビングへ続く扉はほんのわずかに開いている。そこから声が漏れ出ていた。

「もうここまで来たら離婚するしかないよ」

 父の声だった。

「……それも、そうね」

 溜め息交じりに母が同意した。

 私は後退って、靴を履く。二人の会話を聞き続けることも割って入ることもできないまま、家を飛び出した。

 頭では理解できていないはずなのに、目から涙が止まらない。頬を伝って零れた涙は首にまで移動し、夏服のカッターシャツを濡らす。

 両足はアスファルトを蹴っていた。泣いた顔を見せられるほど、親しい友人もいない私の向かう先はどこもない。こんな話、誰にも聞かせられなかった。

 人のいない道ばかりを選んで走り、時々歩いてはぐちゃぐちゃになった目元を拭う。いっそ声を上げて泣いてしまいたかった。喉は感情で潰れて、ガサガサに掠れている。

 父と母はとくべつ仲が悪いようには見えなかった。時々は喧嘩をしている場面に遭遇したこともあったけれど、大抵の理由は小さなことだ。どんなに長引いても、翌日には仲のいい二人に戻っている。

 だから父が落ち着いた声音で「離婚」という言葉を口にした時、心臓が爆発してしまいそうだった。

 きちんと理由は聞くべきだろう。なのにまだ、勇気が持てない。今まで私が見てきたものは、偽りだったのだと知らされるのが怖かった。

 歩き続けていると、大きな建物が目に入った。建物の隣には時計台がある。家を出てから三十分は経過していた。

 そこは図書館だった。一年ほど前に建てられ、当時はレンガとガラスでオシャレになった建物を「何だかすごいなあ」程度に記憶している。入ったことは一度もなかった。

 平日の夕方だからか、広い駐車場には車はそれほど止まっていない。

 涙は枯れていた。泣いて擦った目元がヒリヒリする。もう泣く元気もなくて、夏の日差しにも疲れていた私は図書館に入った。

 中に入ると、館内に行き届いた冷気が心地良かった。天井は高く、解放感がある。中庭にはテラス席もあった。

 当時、本には興味がなかったけれど、あのテラス席で本を広げて読むのは、きっと気持ちが良いのだろうと思った。

 自分よりも背の高い本棚が幾つも並んでいるのを見て圧倒される。本棚いっぱいに本が埋まっていた。それも綺麗な状態だ。学校の図書館にある本は、古い本だからか、もしくはたくさんの人が借りたからか背表紙だけでもボロボロだった。

 せっかくだから何か読んでみようか。

 そうでなくても、何も本を取らずに学習机に座れるほど神経は図太くない。そんなことができるなら、今頃両親の間に割って入っている。

 作家の名前であいうえお順に並んだ本を眺めながら歩いていく。そこでふと気になった本に触れる。

『茜色の家 黒澤ユウ』

 女性らしさと格好良さのある名前だった。それだけの理由で手に取った。乳白色の柔らかい表紙に、水彩で描かれたふわふわの家。この図書館に置かれるようになって、それほど経っていないのかその本はとくに綺麗だった。

 広いテーブルの上に本を置き、肩にかけていたスクール鞄を足下にあった荷物入れ用の籠に入れる。

 ぼんやりと文字を眺めて、もうすこし気持ちが落ち着いたら帰ろうと思った。

 一ページめくり、目が上から下へと滑る。読む気はそれほどなかったのに、気づいたら文字を追っていた。

 事故で両親が死んだ男の子が親戚の家に引き取られる話だった。その家には男性と女性とその子どもがいる。引き取られた場所で、彼は常に一歩下がって彼らの好意を受け取っていた。よそよそしい態度に、兄になった人が怒る。両親は怒った子どもを諫めた。「すぐには馴染めないんだから」「あの子も頑張っているの」「もうすこし待とう」

 この言葉が聞こえてしまった男の子は居心地悪そうに小さくなる。本当は両親がいなくなった現実が、受け入れられなかったわけではなかった。

 新しく家族になった両親は自分の子どもと同じくらい愛情を持って関わろうとしている。そのことがたまらなく申し訳なかったのだ。

 全部兄に注がれるはずだった愛情が、自分のせいで半分になる。だからいつも遠慮していたのだ。

 けれどそんな事情を小学生の男の子が上手く言葉にできるはずもない。自分は余所の子なのだという意識を常に持っており、家事手伝いに勉強を頑張った。おかげで険悪な雰囲気になることは回避できたものの、ふとした瞬間に関係に摩擦が生じる。

 それからどうなってしまうのか。自分のことのように、ハラハラしながら読んだ。なかなか思っていることを話さない男の子に、頑張って、口に出せば分かってもらえると応援したくなる。夢中になって読み終える頃には閉館間近だった。枯れていたはずの涙が、読み終わった物語の余韻でほろほろと零れる。

 本を読んで泣いたのは初めてだった。普段、それほど読書をしてこなかった私にとっては衝撃的な出来事で、同じ作者の本を探す。

 けれど見つからなかった。そこでようやく、私が読んだ本が黒澤さんの一作目なのだと知った。もっと読みたいのに、知りたいのに、本がない。

 帰って、この作者のことを調べようと思った。他に本はないのだろうか。

「帰らないと」

 帰って両親の顔を見る勇気がなかったのに、自然と帰ることを選択できた。

 目元は誤魔化せないほど赤く腫れている。その姿のまま帰った私を見た母は私よりも目が真っ赤で、充血していた。

 夜遅い時間に帰ってきたのに、私は怒られるどころか何度も謝られた。『離婚』の二文字を聞いて私が出て行ったことに両親は気づいて、父は追いかけてくれていた。まさか何時間も探してもらっているとは思わず、「ごめんなさい」と謝る。

 二人は確かに離婚する話をしていた。

 しかし、それは仲が悪いからではない。父方の祖父母とのことで色々あって一旦離婚した後に再婚して、苗字を変えるのだと教えてくれた。

 受験のこともあったからか、詳しい経緯は語られなかった。私自身、父方の祖父母とはあまり関わった記憶がない。家族が離れ離れになるわけではないのなら、よかった。私はその話を素直に聞くことができた。

 私は黒澤さんの本を読んでから、目の前の視界がパッと開けたような気がした。これといってやりたいこともなかったのに、受験勉強も兼ねて図書館に通う。勉強をした息抜きにすこしだけ気になった本を読んだ。もう一度、『茜色の家』を再読したこともある。

 その本の奥付に書かれた初版は二年前。二冊目、三冊目が出ていてもおかしくないのに、ネットで調べても彼の本はこの一冊だけだった。

 小説を読むようになっても、やっぱり初めて衝撃を受けた本は特別だ。

 こんなに好きなのに。

 もしも二冊目が刊行されたら、それは一体どんな物語なのだろう。

 図書館以外に、書店にも通うようになった。黒澤さんの本が出ていないか確かめるのだ。そういう地道な努力のおかげか、私が読んだ『茜色の家』が文庫本として新刊コーナーに並んでいるのを見つけた。

 これなら中学生のお小遣いでも手に届く範囲だ。私はすぐに本を買って読んだ。単行本との差を見つけると、すこしだけ嬉しくなる。

 あとがきはなかった。だが、文庫カバーの折り返しに、プロフィールが書かれている。歳の差は五歳ほどで、思ったより近くて驚いた。男性なのか女性なのかは分からない。他は新人賞を取ったという経歴しかなく、黒澤さんの情報はほとんどなかった。

 でも、私はそんなことはどうでもいい。早く二冊目の本が出ないかという気持ちでいっぱいだった。

 本の最後のページにある奥付にファンレターの宛先が書かれている。

 誰かと黒澤さんの本を話題にしたことはない。だからか、私の中には読んだ時の感情がずっと留まっていた。それをどこかに吐き出したい。

 本当にファンレターを送るかどうかは置いておいて、黒澤さんに話を聞いてもらう体で、手紙を書いてみることにした。

 想いを言葉にするのは難しいけれど、楽しかった。ふわふわした感情がしっかりと言葉という形になっていく。上手く書けるかどうかえていなかったこともあって、私は黒澤さんの作品が好きだと何度も書いた。

 心に残っている言葉、好きだった場面。あれも書きたい、これも書きたいになって、手紙を書くために買ったレターセットの便箋が先になくなってしまった。封筒四枚に便箋八枚のセット商品だ。

 感想を書き終えた後、すっきりした気持ちでポストに投函した。

 感想を読まれるのは恥ずかしい。

 でも、作者がどんな人なのか私は知らないし、こういうのは返事が来るものでもない。だったら気にせずに送ればいい。

 すると、半年も経たない内に黒澤さんの単行本が発売された。中学生の私には高い買い物だったけれど、受験勉強と読書にだけ時間を使っているので本と文具以外にお金を使う予定はない。

 もちろん新刊が出たのは、私がファンレターを送ったからなんて思っていない。私の行動は、神社に参拝する際に小銭を入れて健康祈願するのと同じなのだ。

 さっそく家に帰って読んだ。二冊目はミステリー小説だった。過労で頭を強くぶつけてしまった男が、記憶喪失になって亡くなってしまった妻と息子との思い出を忘れてしまう。むしろそれでよかったのかもしれないと思い独り身の生活を続けるが、胸にぽっかりと穴が空いた状態は得体の知れない不安をわき上がらせる。中盤からストーリーは疾走して、こんなところで読むのを止めて眠ることなどできなくなった。結局深夜の一時を過ぎるまで読み続け、翌日の授業はなかなか辛いものになる。

 なのに帰ったら便箋を広げて、感想を書いていた。その時に『受験頑張れます』とも伝えた。感想をびっしりと書いた便箋の隅っこに、思い出したかのような細い字で。

 次はどんな話を書くのだろう。楽しみで、どれくらい楽しみなのか伝わるといいなと思ってポストに投函した。作者が読んでいるかどうかは分からない。この気持ちが手元に一度でも届くなら、それだけで嬉しい。

 三冊目はいつになるだろう。一冊目と二冊目はだいぶ間を空けて刊行された。次もそれくらい後になるかもしれない。それでもいい。書くのを止めないでいてくれるのなら、いくらでも待ちたい。そう思っていたのに、それほど間を空けずに新刊が書店に並ぶ。

 高校は無事志望校に受かり、私の苗字も遠山から香月に変わった。中学を卒業した後に苗字を変えたので、あまり不便はない。両親は仲がいいし、住む家も変わっていなかったのだから。

 ただ、いつも送るファンレターの差出人の名前をどうするかは悩んだ。今まで遠山芽依で送っていたのに、香月芽依で送ることに抵抗があった。ちょっと嫌だ、程度のことだったけれど、どうせ返事が来るわけでもないし来たとしても住所は変わっていない。ならいいかな、と思うことにして遠山芽依の名前で感想を送る。

 そう思ったのに、四月になって黒澤さんから入学おめでとうのはがきが届いた時は情緒がめちゃくちゃになってしまった。

 第一声は「えっ! 何で!」

 はがきを持ったまま、狭い玄関を一人でぐるぐると歩き周り、目が回ってきてよろけて尻餅。表と裏を見比べて、直筆で書かれた文字に人差し指で触れる。「本物……」何をどう感じて、呟いたのかは私にも分からない。

 私のオロオロとする様は、高校の合格発表の時とは比べものにもならなかった。ちなみに合格発表の日は、わざわざ結果を見に行かなくても中学校から連絡があるならいいやと図書館に行っている。

 誕生日とクリスマスと正月と、とにかくすべての祝い事がいっきに来た気分だった。

 やっとの思いではがきを部屋に置いた後も、精神が落ち着くことはない。たった一枚のはがきなのに、すごいことになったと心臓は火山が噴火したかのようにバクバクバクバク鳴っている。一日経っても、二日経っても、はがきを見ては現実であることを突きつけられて放心しそうだった。

 ああ、これはまずい。

 もちろんはがきは嬉しかった。呼吸が止まってしまいそうなほど、嬉しかった。実際、私が気づいていないだけで止まっていたかもしれない。

 はがきを送ってくれた黒澤さんは、まさか私がこれほど衝撃を受けるとは思っていないのだろう。神様が気まぐれにウィンクをした衝撃で星がこっちに落っこちてきただけなのだ。向こうはきっと軽い気持ち。

 だけど私は、もしも次があったらどうしようと思ってしまう。

 これからははがきを送るようにしたのかな。暑中見舞いのはがきも来たらどうしよう。そんなわけない。でも再びはがきが来たら、私はまた喜びと興奮で息が止まりそうだった。

 再読した本の感想と共に、頂いたはがきへの感謝も書いた。遠回しに、『嬉しいけれど、どうかもう送って来ないでください』というような内容も書き加える。

 あれから、はがきは来ていない。

 もしも返信は必要ないことを伝えていたら、どうなっていたのだろう。

 たまに考えてしまう。

 そんなもしもの話を――。





 仕事から帰ると、悠さんは書斎に籠もっていた。扉の前に立って耳を澄ませると、タイピングの音が聞こえる。締め切りが近いので、時間も忘れて書いているのだろう。

 なので今日は一人で夕飯を作ることにした。一緒にご飯を食べられるのは後三日ほど。だから同じ席に座って食べたかったけれど、悠さんはそれどころではないはずだ。負担にならないような、片手でも食べられるようなものにしようと冷蔵庫の中を確認して、スマホでレシピを調べる。

 肉巻きポテトを作った後、串を刺してお皿に並べた。冷蔵庫に残っていた野菜スティックを取り出し、味噌ダレも作る。後はおにぎりも並べた。すこし少ないかと思ったが、食べ過ぎると眠気に襲われたり集中力が保てなくなりやすい人もいると聞いていたので、足りなかったら他の作り置きを取り出そう。

 お盆に水と一枚のお皿に並べた料理を持って、悠さんの書斎に向かう。扉を軽く叩くと、すぐに返事が来た。

「おかえりなさい!」

 焦っているのに、第一声がそっちなのかと思うと嬉しくなった。

「ただいま」

「すみません、時間をすっかり忘れていて……作ってくれたんですね」

「大丈夫です。締め切り近いですから、これくらい頼ってください。足りなかったら言ってくださいね」

「って、俺はここで食べません。一緒に食べましょう」

 お盆を渡すも、悠さんは首を横に振った。疲れているように見えるのは気のせいではないだろう。

「でもお邪魔では……」

「ずっと黙って頭を動かしていたので、息抜きさせてください。それにそこまで酷い進捗でもないですから」

 そのことに関しては定期的にメールで連絡があるので、心配はしていなかった。

 食べたくなったタイミングで部屋を出ると思って、テーブルに置いておけばよかったかもしれない。けれど、集中し過ぎると寝食忘れて没頭している人もいるので邪魔にならないように夕飯だけ渡そうと思ったのだ。失敗した。

 そうして二人で食べることになり、食事が終わった後も悠さんはのんびりとコーヒーを飲んでいる。私に気をつかっているなら、必要ないですからねと伝えても、そんな寂しいことは言わないでと言わんばかりに眉尻を下げて笑う。

「香月さんが仕事をしている間、俺もずっと書いていたんですよ。今日はもう頭が動かないので、映画でも観ますか?」

 そこまで言うのなら、私が気にする必要はないのかもしれない。規則正しく生活することはいいことだ。悠さんだってプライベートの時間まで、私が編集として対応されても困るだろう。

「どれを食べながら観ましょうか」

 お菓子用の棚を開けて、悠さんが言う。中はほとんど箱入りのお菓子。常温で保存できるものが綺麗に並んでいる。悠さんは甘い物が好きで、毎週、頑張ったご褒美に食べるために買っていた。

 私はデパ地下にありそうなお菓子の箱から目を逸らし、最近買った大袋のキャラメルポップコーンに手を伸ばす。

「これにしましょう」

「やっぱり定番はこっちですよね」

 そういうことにしておいた。私が大きな紙コップ二個にポップコーンを分けている間、悠さんはグラスにお酒を注ぐ。りんごの果実酒を炭酸で割っている。りんごの甘く爽やかな匂いがふわりと香った。

 テレビで動画配信サイトに移り、どの映画を観るか選ぶ。去年話題になっていた映画を見つけ、それを観ることにした。

(ずっと、こういう日々が続けばいいのに)

 二人で映画を観ながら、私はそんなことを考えてしまった。





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