【コミカライズタイトル:恋と不眠と小説と】大好きな作家の担当編集になったけど、ワンナイトした男性でした

佐倉響

3章-2





 起きる直前の耳元に、鈍い音がする。大切なものが潰れる音。

 さっきまでは穏やかな熱に包まれているはずだったのに一変した。

 頭から足の先まで冷たくなる。

 恐ろしい音なんて、もう聞くはずもないのに鮮明に蘇る。

 男とも女とも分からない悲鳴がほんの一瞬だけ聞こえ、さらに大きな音に覆われ途切れた。

 起きないと……。

 そう思うのに、体が動かない。

 息が止まりそうになる。

「――はっ」

 息苦しさで目を覚ます。

 すべてが夢のような気がした。

 周囲を見渡すと、一面が鏡張りになっている箇所が目につく。

 そこには俺一人しか映していなかった。他には誰もいない。

 ベッド周辺には、俺の分だけの衣服と持ち物がある。

 立ち上がると、サイドテーブルにお金とメモが残されていた。

「芽依さん……」

 喪失感が涙になって溢れてくる。

 彼女と一緒に寝た時、一生抱えていた体のこわばりが解れていくようだった。多幸感に包まれ、久しぶりに眠ることへの恐怖がなくなった。

 だから目が覚めたら、芽依さんに本当のことを話そうと思った。

 そして、自分の気持ちを正直に話そう。

 考えた翌朝が、これだった。

「そんな都合のいい話、ないですよね」

 何がいけなかったのか。

 芽依さんは初めてだった。一夜の遊びで体を許すようには思えない。

 けれど、実際には彼女はいないし、代わりにお金が置かれていた。

 ホテル代にしては多すぎる金額に、律儀な人だと苦笑する。

 メモには彼女の連絡先になるようなものはない。『お世話になりました』とだけ書いてある。

 これで終わり。

 すべてを伝える前に、失恋した。

 溜め息が洩れる。これから先、会えないわけではない。

 けれど、もう今後は一線を越えないようにしなくては――

 会ったら、芽依さんが罪悪感に苛まれないようにしよう。

 そして次からは、邪な感情を向けないようにしなければ。

 家に帰った俺は、筑波さんにメールを返信した後、仕事をする。

 一段落ついた時にふと、不眠解消のためにやったことの中で、セックスはなかったなと思い出した。

 芽依さんの時ほど効果が得られなくても、他の人ですこしでも楽になれるのならばと調べてみることにした。

 サイトを開いて、変な汗が出る。

 相手の写真やプロフィールを見て、俺は興奮できるかどうか考えた。

 逆に落ち着かなくて眠れないのではないか。

「難しい……」

 そもそも、好きでもない相手をそばに置いてまで眠りたいのかと聞かれれば、答えはNOだった。馬鹿なことを考えた。

 時刻は午前零時を過ぎている。

 頭は睡眠を欲していたが、どうにも眠れるような精神状態ではない。

 芽依さんがいなくなって、一人で起きた時の感覚が生々しく残っている。思い出すだけで、脈が速くなった。

 月曜日には顔合わせがある。

 その時までには体調を整えておかなければならない。

 あまり飲みたくない睡眠薬を飲む。無理矢理にでも眠らなければ迷惑をかけてしまう。

 すぐに睡魔はやってきた。手に力が籠もる。頭が揺れるような感覚は、いつまで経っても慣れることがない。恐怖で背中を撫でられているようだった。

 大丈夫だ。ただ寝るだけなのだと言い聞かせる。深く呼吸を繰り返して、それだけに集中した。

 けれど俺は眠れなくなる一方で――結局、筑波さんは芽依さんを連れてマンションまで来ることになった。喫茶店くらい行けると伝えたのに、逆に怒られてしまったのだ。

 ……恥ずかしい。

 しかし、これはこれで良かったのかもしれない。喫茶店では人目もある。後で、芽依さんと初めて会った日のことを話すには都合が悪かった。

 一夜を共にし、相手が起きる前に去った彼女は、素面の状態だからか知的な印象があった。説明も分かりやすい。話は長引くことはなく、すぐに終わった。別人みたいにテキパキしている。夜に見たあの隙だらけの芽依さんは一体なんだったのだろうというくらいしっかりしていた。

 帰る準備をし始めた芽依さんに俺は声をかける。筑波さんは楽しそうに目を細めた。きっと彼は、ファンレターのことで俺が話をしようとしていると決めつけているのかもしれない。……本当はもっとやばい話です。

 肝心の芽依さんは何を思ったのか、筑波さんに任せてと言わんばかりの自信に満ちた笑みを向けている。これは、俺が芽依さんのことを気づいていないと思われているのだろうか。それか俺の顔を覚えていない……とか。

 様々な不安が渦巻く中、芽依さんと二人きりになった俺は言ってみることにした。

「三日ぶりですね」

 これからのことを考えても、はっきりさせておかなければ仕事に集中できない。

 俺の言葉に、芽依さんは不自然なほど顔が固まった。次に目がそうっと横に逸れていく。分かりやすく動揺している姿に、素直な所は素面でも変わらないのだと分かって嬉しくなる。

「そんなに緊張しなくてもいいですよ、香月さん」

 もう芽依さん、なんて言っては駄目だと思った。名前で呼んだら、彼女はもっと混乱してしまう。それに俺も苗字呼びをすることで、しっかりと線引きしたかった。

「そんな……む、無理です」

 申し訳なさそうに、芽依さんは声を震わせる。

「黒澤さん、あの……私、担当止めた方がいいです……よね……?」

「嫌ですけど」

 ほぼ反射的に答えていた。考えるまでもない。仕事面に関して、筑波さんから芽依さんの話は聞いていた。顔合わせで話した印象からも、これからのことが楽しみだったのだ。芽依さんのことが好きだからそばに置きたいという個人的な理由ではない。

「でも、担当編集と作家ですよ。その……色々とですね……」

「何が問題なんですか」

 芽依さんは俺の顔も見たくないのだろうか。痛い思いは極力させないつもりでいた。問題があるのなら、はっきりと聞きたい。何も知らないまま、離れていくのが一番堪えた。

「やり辛いとか、気まずいとは感じないんですか」

「俺は別に」

 確かに、芽依さん側からすれば、そうかもしれない。今後は二人きりにならないように配慮した方がいいだろう。

「大丈夫ですよ、仕事中に変なことはしません。それは香月さんもでしょう?」

「それはもちろんです!」

 何故か強く頷かれた。それからすぐに、しょんぼりと肩をおろす。

「でも……それなら尚更、お互いなかったことにして……も……」

 ものすごく、言い辛そうだった。

「忘れたいほど、嫌な記憶なんですか」

 同意を得たつもりであっても、芽依さんはお酒に酔った状態だった。それも初めてだ。いっそ、攻めて欲しい。どうしても理由が知りたかった。知って、謝りたい。

 ――しかし、芽依さんが朝何も言わずに立ち去った理由を聞いて、俺は雷に打たれた気分だった。

 黒澤ユウだと気づいて、慌てて出たと言うのだ。

 なるほど。それは確かに、驚きすぎて逃げ出すだろう。とんでもないタイミングで身バレしていた。そうか。だから再会しても、大きく態度に出なかったのか。

 よかった。芽依さんが嫌がるようなことをしてしまったわけではない。ほんのすこし救われた気分だった。

 とはいえ、今は作家と担当編集。芽依さんもやり辛くはないかと聞いてきたので、プライベートで関わろうなんて考えないようにしよう。恋人になりたいだとか高望みはしない。物理的に距離が縮まっただけでも俺は嬉しかったから。

 なのにどうして不眠症の話題で変な方向に話が飛んでしまったのだろう。眠れなかった理由を芽依さんのせいにするわけにはいかず、誤魔化そうとすればするほど、芽依さんは焦り始める。

 芽依さんが泊まらせて欲しいと言った時、とうとう睡眠が不足しすぎて幻聴が聞こえたかと思った。だが、そうではない。

 誰でもいいからシたかった。だから黒澤さんのことを誘った。私のことはそこまで深刻に考えないで。

 芽依さんの言葉を聞いていると、このままプライベートで関わらないようにすることが正解なのか否か分からなくなる。彼女の言葉がどこまで本心なのかも計れない。

 ひとつ分かるのは、芽依さんが俺のことをとても心配しているということだ。今はもう、目を逸らすことなく俺を見つめている。その姿はここで止めたところで、思いも寄らない行動を起こしかねない危うさがあった。

 ……一度、くらいなら。

 次は芽依さんと一緒に朝を迎えられるのなら、案外簡単に不眠は治っていくのかもしれない。そう思えた。





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