【コミカライズタイトル:恋と不眠と小説と】大好きな作家の担当編集になったけど、ワンナイトした男性でした
3章-1
眠ることは嫌いではなかった。苦手に感じているのは眠りに入る直前と、起きた時。何度経験しても血の気が引きそうになる。
原因となる事件から既に十年。眠ること以外は何の問題もなく生活できていた。
起きた時の不快感を呑み込んで、ベッドから起き上がる。すっきりしない頭のまま顔を洗って簡単に服を着替えて散歩した。同じく早朝から散歩をする仲のいい老夫婦や、犬の散歩も兼ねて歩いているおじさんに挨拶する。大きくて白い毛のサモエドに、すこしだけ触らせてもらう。動物は飼ってみたいけれど眠れない日もある現状では、申し訳ないので飼うことはできなかった。
散歩を終えて、簡単に朝食を作る。ご飯と具をたくさん入れた味噌汁に出汁巻き玉子。それでも少なく感じる時は昨日の残りを食べる。
これですこしだけ、頭の靄が晴れた気がした。それでも一切眠気を感じない瞬間をもう十年も経験したことがない。質の良い睡眠がとれていないからだ。
仕事用の部屋でメールをチェックしていると、筑波さんからメッセージが来ていた。来週の月曜日に次の担当編集との顔合わせについてだ。
相手はどんな人なのか――。
それは以前から筑波さんに聞かされていた。勉強熱心で頑張り屋。本人は隠しているが、俺の作品が好きで原稿を持っていると意識して距離を置いてくるとのこと。
それって逆に好きではないということではないのだろうか?
聞いたら、筑波さんは笑った。「書店で嬉しそうに買っているのを見た。あれは絶対にネタバレを受けたくないんだ。ちゃんと完成したものに触れたいんだろう」それを思い出して、まだ顔も知らない女性をすこしだけ可哀想に思う。
書いた本人に、隠しているつもりの行動が報告されているのだ。だからこのことは、うっかり口が滑らないようにしようと決めた。
なのに筑波さんはどんどん新担当編集の話題を出す。決まったと知った時の反応から、その後に両足が絡んで転びそうになっている所など。
彼は本当に人をよく見ている。見ているからこそ、思うのだ。俺に言ったら可哀想だ。
『それでな、俺は前から思っているんだがいつもファンレターをくれる遠山芽依さんと同じ人なんじゃないかと思っている』
苗字は違うのに、名前は一緒だからという理由で、そんなことまで言ってきた。いくら何でもそれは有り得ない。中学の頃からファンレターを送ってくれている子だ。
『名前が同じだからって言うのもあるけど、最近のファンレターと筆跡がすごく似ているんだ』
これがもしも当たっていたら、筑波さんは探偵の方が向いていると思う。
『会って話したら分かる。あ、同一人物ぽいってな』
その真相が知りたくて、わざわざ香月さんを編集担当に選んだのか。……さすがにそれはないだろう。
筑波さんが色々と新担当編集の話をするので、つい気になってしまう。
寝室に置いてある宝箱型のボックスを開く。中は手紙でいっぱいだった。
一人だけとても熱心で多い頻度で手紙を送ってくるファンがいる。文章すべて、俺が書いた小説の感想だ。何を思ったのか、同じ作品を二度目三度目と読んだ感想まで送ってくる。内容が被らないのもすごい。八年か九年は続いていた。あんまり多いので、彼女用に箱を用意したほど。それが遠山芽依さんだった。
こうもたくさん送ってくるので、返信くらいはした方がいいかと思い、過去に一度だけはがきを送ったことがある。彼女のファンレターの文末に『無事に高校、受かりました』とあったので四月、俺は桜の絵があるはがきに『入学おめでとう』とそれから一言二言付け加えて送ったのだ。
しかし、次に来たファンレターは俺が想像していた反応とは違っていた。いつも通りの感想文の最後に、はがきは嬉しかったけれど黒澤さんの大事な時間を使うのはもったいないから気をつかわないで欲しい等。
高校生、もっと喜んでくれてもいいんじゃないだろうか。
そういうことがあったので、どれほどファンレターが来ても二度目の返信はしていない。むしろ一層、彼女は私事を出さなくなったので住所と名前、性別以外は謎に包まれている。どうやら彼女には余計な行動だったようだ。
いつかファンレターが来なくなる日が来るのではないかと思っていたが今月も手紙は届いている。文末には来月の新刊が楽しみとのことで、手に届いたらすぐに感想を書くつもりなのだろう。ひたすら感想を書いて送りたい。そういう趣味を持っているようだ。
まさかこれを書いた本人が編集担当になるはずがない。
顔を合わせる日が近づいていた俺は落ち着かなかった。気にならないはずがない。
同一人物だったら……そのことを考えると、気まずさもあるが、会うのが楽しみだった。
小説を書くのを止めようかと考えた時に、続けるきっかけになったのが彼女だったのだ。
「はぁ、もうこんな時間……」
考え事をしながら作業をしていると、午後の六時を過ぎていた。いつもなら自炊するけれど、今は気分が浮ついている。たまには外食でもしようと、マンションから離れた。
向かう先は駅近くの居酒屋ではなく、出版社の近くにあるバーにした。ほとんど一人飲みの客ばかりだから気軽に飲めるぞ、と筑波さんが教えてくれた場所である。店内の写真や、作ってもらったカクテルの写真も見せてもらっていて、一度は行ってみたいと思っていた。
店の中に入ると、ローズやカモミールの香りがほんのりとする。どこかでアロマでも焚いているのだろうか。フローラルな香りとお酒の匂いがほどよく混じって心地がいい。
長いカウンター席にはぽつりぽつりと人がいた。本当に一人で飲む人ばかりだ。中には二人で飲む人もいる。一緒に来たのか、その場で意気投合したのかは分からない。
「なあ、あの子声かけてみようぜ」
男同士で飲んでいるテーブルで、そんな声が聞こえた。一人で声をかけにいくどころか、男複数人で声をかければ相手の女性はさらに怖い思いをするだろう。
その男の視線を追うと、カウンター席に座った女性が目に入った。白いブラウスに黒色の涼しげな生地のスカート。胸まで届く黒髪は、首をすこし傾けただけでさらりと揺れる。
すこし近づくと、横から表情が見えた。
お店にいる客のことなど眼中にない様子で、心底嬉しそうにお酒と料理を眺めている。ローストビーフを一口食べると、分かりやすいくらい美味しそうに頬を緩ませて堪能していた。
なるほど、これは声をかけようとする人もいるだろう。
あまりにも無防備な表情だ。警戒心がまるでない。個室でもないのに、「美味しい」とまで口に出ている。だいぶ酔っているのだろう。
このまま知らないふりをして、離れた席に座っても落ち着かない気がした。助けたい、というよりは声をかけてみたいという好奇心の方が勝っていたと思う。
何があったら、幸せな雰囲気を前面に出すことができるのか。
「隣、座ってもいいですか?」
これで駄目なら、きっと他の男性が話しかけても断るだろう。
彼女はほんのりと赤らんだ顔で俺を見た。大きな瞳を瞬いて、一拍置いて話しかけられたのだと気づいたようだ。
「は、はい」
よかった。とりあえず、隣に座れば何かあっても対処できるだろう。そう思って椅子に座ると、女性はぼうっと俺を見ていた。不快感はない。ただひたすら、照れる。
「何か嬉しいことがあったんですか?」
俺に話しかけられて、ハッとする表情に思わず笑ってしまう。こんなに面白いくらい素直な人は初めてだ。やっぱり話してみたい。
「お店に入った時どこに座ろうか悩んだら、ちょうどあなたが幸せそうな顔をしているのが見えたので」
そう言うと、すぐに自分の顔を手で確認する。どんな表情をしていたのか気づいた彼女の耳がきゅうっと赤くなる。
「ずっとあこがれていた人とお仕事ができるので、舞い上がってしまって……あ! どんなお仕事かは言えないんですけど」
どことなく、聞いたことのあるような話に思えた。何だっただろう、と頭を巡らす。
「そこまで聞かないので大丈夫ですよ。そうなんですか、あこがれている人って男性ですか?」
「そうです」
「恋愛的な意味で好きとか?」
「そういうことはないと思います。あこがれが強いので……恋をすることはないです。考えたこともないですよ」
断言する彼女に、頭の中でファンレターのことが思い浮かぶ。素直で、それでいてこの口調。俺がイメージしているある人物にぴたりと当てはまる。
でも、同じ口調の人だっているはずだ。そこまで特徴的な話し方でもないのに、どうしてピンと来たのだろう。
「……名前、なんて言うんですか?」
まさか。それはない。勘違いだ。
突然名前を聞いた俺に対して、不思議そうに首を傾げながらも彼女は答えてくれた。
「芽依です」
とんでもない偶然に思わず笑ってしまいそうになる。いや、どうしよう。まさか本人か。
「あなたは?」
「悠です」
彼女は苗字までは話さなかった。これでよかったのかもしれない。自然に名前だけを伝えることができた。
「何て字を書くんですか?」
聞くと彼女は教えてくれた。鞄からメモ帳を千切って名前を書く。ファンレターを送る遠山芽依さんと同じような筆跡だ。俺も実名の漢字を書いた。
「素敵な名前ですね」
そう言って笑う芽依さんに、俺は笑みを返す。
名前を聞いてから、ずっと心臓が大きく音を立てていた。
ファンレターを何年も送ってくれる人の名前は遠山芽依。
これから編集担当になる人の名前は香月芽依。
そして今隣に座っている女性の名前も、芽依。
偶然にしてはあまりにも被りすぎている。ここまで来ると、彼女はファン、もしくは担当編集になる人のどちらかであるはずだ。もしくはすべて同一人物か。
今までの会話から、ファンであり担当編集になる人である可能性が濃厚だった。
筑波さんだって言っていた。会えば分かる、と。
ファンレターは数枚ではない。便箋を何枚も入れすぎて分厚くなった封筒がもう何十枚もある。それを読んできたからこそ、確信してしまう。
……顔合わせの時、さらに混乱させそうだ。
けれどそれはそれで、面白そうだなと思った。
だからすぐに離れることはせず、話を続ける。芽依さんは何でも嬉しそうに話してくれた。とくに俺が書いている小説の話題は、顔をふにゃりと緩ませて語ってくれる。こんな顔をしながら書いてくれたのだろうか。
可愛い。もっと知りたい。
芽依さんを見ているだけで、心が温かくなる。ころころと変わる表情を追いかけていたい。
触れて、しまいたい。
そう思った瞬間、芽依さんの言葉を思い返した。
あこがれが強い。
恋をすることはない。
はがきを送った時のことも思い返す。
彼女は俺が小説を書くこと以外は何も望んでいない。作品以外で関わりたいなんて、思っていないのだ。
お酒で上がった体温がゆっくりと下がっていく。
これ以上は止めておこう。
素の芽依さんと接し続けていたら、自制が効かなくなりそうだった。
「飲み過ぎですから、もう止めた方がいいですよ」
芽依さんがこれ以上、お酒を頼まないように止める。俺がきた時から彼女はバーにいた。そのグラスが空になってから、俺は芽依さんを連れてお店を出ることにした。
無事に彼女を家に帰さなくてはいけない。その場で別れても、誰かに声をかけられたら簡単について行ってしまいそうだった。その点、タクシーなら安全だ。
「私、まだ悠さんと話がしたいです」
一番安全な方法で別れようとした俺に、芽依さんが言った。切実な声音と純粋な瞳に、決意が揺さぶられる。
芽依さんにそんなつもりはない。
「これ以上、一緒にいると朝まで放しませんよ」
警告のつもりだった。ここまで言えば、彼女も分かってくれるはずだ。
「朝まで付き合ってくれるんですか?」
ふわふわした顔のまま、首を僅かに傾ける。俺を試そうとしているわけではなく、本心からそう言っているのは明らかだった。
「意味、分かってないな……これ」
芽依さんの頭の中は朝まで飲んだり食べたりするような風景しかないのだろう。彼女に警戒されないように、紳士的に振る舞いすぎたのが原因かもしれない。
「えろいことするって、言ってるんですよ」
女性に向けて、こんなことを言ったのは初めてだった。
心配になるほど純粋な芽依さんは、突然の発言に混乱しているようだった。
「このままだとホテル行きですよ」
だから芽依さん、一人でタクシーに乗って帰ってください。ここまで言えば、怖くなって離れるだろう。
それなのに――
「は、はい……」
芽依さんは頷いた。
いっそ、正体を言ってしまおうか。
俺は黒澤ユウだって、今度あなたが担当になる作家だと。
喉の奥で言葉が詰まる。
言えなかった。言いたくない。どうせ顔を合わせる時にすべて知られてしまうのだ。
(駄目だ。俺も……相当酔ってる)
良くないことだ。素面になったら後悔するかもしれない。分かっていても、俺は芽依さんの手を握った。小さい手だった。指は丸みを帯びて、赤子のように柔らかい。
真っ赤になった芽依さんが、黙ったまま俺についてくる。
ちゃんと意味を分かっている。
実感すると、すぐにでも抱きしめたくなった。
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