【コミカライズタイトル:恋と不眠と小説と】大好きな作家の担当編集になったけど、ワンナイトした男性でした
1章
今日から担当する作家が、ワンナイトした男性だった。
その事実に驚きすぎて目は泳いでしまうし、頭もぐちゃぐちゃで口を開いても呼吸しかできない。
今すぐ逃げ出してしまいたかった。だけど、前の担当である筑波さんと一緒だった時は私のことなど知らない素振りをしていたのだ。
それなのに、彼は二人きりになった途端、はっきりと言った。
「三日ぶりですね」
何も言えずにいる私に、おっとりとした佇まいの先生が微笑みかける。
三日ぶり。そう、私と黒澤悠さんは三日ぶりに会う。初対面は三日前。
悠さんはあの夜のことをきちんと覚えていると主張しながらも、天気の話でもしているかの如く落ち着いていた。じっとこちらを見る彼は、私と違って堂々としている。
何で! 何でこの人は焦ってないの!?
おかしい。向こうからすれば、私は『これから一緒に仕事をする担当編集が、ワンナイトした女性だった』になっているはず。
返事をしようにも舌がもつれて、うまく言葉が出ない。
しまった。ここで知らないふりをすれば良かったのに、今からでは無理がある。
「そんなに緊張しなくてもいいですよ、香月さん」
「そんな……む、無理です」
ようやく出た声は震えていた。
これは現実なのだと実感する。
緊張せずにいられるはずがない。
ワンナイトしただけでもどうかしているのに、私は翌日、寝ている悠さんを一人残して逃げ出したのだ。
* * *
――遡ること三日前の金曜日。
来週からは『黒澤ユウ』先生の担当編集として仕事をすることが決まっていた。黒澤さんのデビューから担当編集をしていた筑波さんが、副編集長になることが決まったからである。さすがに忙しいからということで、私に話が回ってきた。
黒澤さんは私にとって、デビューした作品からずっと応援してきた作家さんだ。一応、会社には秘密にしているけれど、新刊が出るたびにファンレターを送っている。差出人の欄は旧姓と実家の住所を書いているのでバレてはいないはずだ。両親が離婚する前からファンレターを送っているので、その時は何となく名前を変えたくなくて旧姓を使っていたけれど……今にして思えばよかったのかもしれない。
知られていたら、やり辛そうだ。中学生の頃から私のことを知られているのである。個人的なことはあまり書いていないけれど、何を読んでどう思ったのか。それらを詳細に書いた記憶があった。
でも中学生や高校生の頃は何を書いたのか朧気にしか覚えていない。思春期に書いた感想なんて、想像以上に恥ずかしいものだと思っている。書いた内容を忘れているから尚更だ。絶対に知られたくない。
「本当に、担当編集になるんだ……」
黒澤さんの担当になりたいなんて希望を誰かに話したことはない。そもそも、黒澤さんの担当編集になることを目標にしたこともなかった。現状に不満がなかったからだ。
今まで担当していた八乙女蝶子さんは素敵な作品を作られる方だった。個性がとても強くて、行動力がある。一緒に仕事をするのが楽しかった。昔から好きだった作家の担当になるのはもちろん嬉しいけれど、すこし寂しい。
それにしてもあと三日で担当編集になるというのに、実感がない。ずっとファンでいるつもりだったせいだろうか。緊張感も高揚感も欠けていた。こんな状態で当日を迎えて大丈夫だろうか。
このままではまずい気がした。それくらい実感がない。ふわふわと夢の中で迷子になっている気分だ。さすがに気持ちを入れ替えるべきだろう。
そう考えて、黒澤さんの担当編集になると分かってから一度もお祝いをしたことがなかったと気づく。
いつも行かない場所に行って奮起しようと、会社が終わったその足でバーに足を運んだ。
以前、友人から女性一人でも入りやすいと教えてもらっていたお店だった。友人だけでなく、筑波さんからも一人飲みはここがいいと教えてもらったことがあった。
店に入ると長いカウンター席が目に飛び込む。ほのかなオレンジ色の照明が、艶やかなカウンターを照らしている。若い人が多く、女性一人で飲んでいる人もいる。これなら人目を気にすることなく、一人でもゆったりできそうだった。
マスターも気さくで、オリジナルのカクテルを作ってくれた。赤く、すっきりとした苺の味がするお酒をすこしずつ飲みながら、料理を食べる。料理はおすすめされたローストビーフだ。
私はゆっくりと味わいながら、来週のことを考えた。
しばらくするとお酒に酔ったのか、今まで抑えていた感情が溢れていく。喜び方が分からなかったのが嘘みたいに顔が緩んだ。
私、本当に黒澤さんの担当編集になるんだ……!
黒澤さんの担当作家になるなんて想像したこともなかった。彼本人のことを私はほとんど知らない。知っているのは男性だということくらいだ。年齢も、外見も知らない。
それでも今まで大好きだった作品を作った人と話ができるという状況は夢のようだった。これから作る作品の話をして、読者よりも先に黒澤さんの文章を読むことができる。責任は重大だけれど、それは今までやってきたことと何も変わらない。
惜しむらくは、さすがにファンレターを送ることはできないだろうということだ。
けれど、直接感想を届けることができる。その時にうっかりファンらしい態度にならないように気をつけなければ。興奮した姿を見られて、黒澤さんにドン引きされたら立ち直れない。
私がのんびりお酒を飲んでいると、気づけばバーの中もだいぶ人が増えていた。だからだろう、「隣、座ってもいいですか?」と男性が話しかけた。目尻にある泣き袋が印象的だった。サラサラの黒髪が涼しげに揺れる。全体的に細いのに肩幅は広くて、カウンターに置いた手は指が長く節くれ立っている。顔が綺麗な人は、声も手も綺麗なんだな。なんて、ぼんやりと思った。服装も白シャツにチノパン。細身だからか、オシャレに見えた。
「は、はい」
反射的に頷いて、男性が座るのを見る。大きな目がきょとんとこちらを見つめ返した。それからふっと唇を緩める。
「何か嬉しいことがあったんですか?」
あまりにも綺麗な人だったから見つめ過ぎただろうか。ハッとすると、男性は笑いながら「お店に入った時どこに座ろうか悩んだら、ちょうどあなたが幸せそうな顔をしているのが見えたので」と言った。
思わず両手で口の端を触る。気づかないうちに口角が上がっていた。
「ずっとあこがれていた人とお仕事ができるので、舞い上がってしまって……あ! どんなお仕事かは言えないんですけど」
「そこまで聞かないので大丈夫ですよ。そうなんですか、あこがれている人って男性ですか?」
「そうです」
「恋愛的な意味で好きとか?」
そう受け取られてもおかしくはない。けれど私は絶対に違うと首を横に振る。
「そういうことはないと思います。あこがれが強いので……恋をすることはないと思います。考えたこともないですよ」
黒澤さんがどんな人なのか。私は彼の作品しか知らないけれど、恋することはないだろうと思った。崇拝、とまではいかないけれど雲の上のような人だ。今もこれからも、それはないと断言できる。
そう言うと、男性は困ったように目尻を下げて「そうですか」と僅かに俯いた。
この人、恋愛話がしたいのかな。
初対面だけれど、悪い人には見えなかった。彼が落ち着いてゆっくりと話してくれるからだろうか、言葉のひとつひとつが心地良くてほっとする。
「……名前、なんて言うんですか?」
不意に、男性が聞いて来た。聞かれてから、まだお互いの名前を知らなかったことに気づく。不便はないけれど、何となく寂しい。
「芽依です」
私も彼の名前が知りたかった。
「あなたは?」
「悠です」
「何て字を書くんですか?」
口で話そうとしたが、咄嗟に説明できず私はメモ帳を千切って名前を書いた。すると、悠さんも名前を書いてくれる。トメとハネがきっちりしていて、教科書に載っているような美しく整った文字だった。
「素敵な名前ですね」
その後は他愛のないことを話した。道端で出会った猫の話とか、梅雨に入ったこととか。それに本の話もできた。彼も小説を読むようで、黒澤さんの作品のことを話すことができた。彼は否定せず、嬉しそうに聞いてくれる。いつも一人、ファンレターで語るのみだったので、嬉しくてお酒を何杯も飲んでしまった。
「飲み過ぎですから、もう止めたほうがいいですよ」
悠さんに言われてから、自分が何杯飲んだのかを思い返す。具体的に何杯飲んだのか、すぐに思い出せないが気分が悪いわけではなかった。むしろ普段、冷え性なので体がポカポカして気持ちがいい。
「私、そんなに酔っているように見えますか?」
「そうですね。すくなくとも、初対面の人に見せる顔ではないと思います」
それは一体、どんな顔だろう。キリリとした表情を作ってみると、彼はおかしそうに笑った。
このお酒を最後にしましょう、と悠さんは言った。私もそうした方がいいと思っている。
だけどまだ話をしていたかった。お酒をちびちびと飲んでさりげなく抵抗する。それなのにグラスはあっという間に空になってしまった。
「そろそろ帰りましょうか」
「そうですね」
お店に入ってから、ずいぶん時間が経っていた。ここまで相手をしてくれたのに、まだ帰りたくないなど言えるはずがない。頷いて店を出て、悠さんと一緒に駅まで歩く。周辺にはタクシーが停車していた。
「お金、出すので今日はタクシーで帰ってください」
会ったばかりで素性など知らないのに、悠さんはそう言ってお金を渡そうとする。
「こんなに酔っていては心配ですから」
「私が飲みたくて飲んだだけですよ」
「はっきりと止めなかった俺も悪いので」
いよいよ別れることになっていた。もっと話をしたい。その一言が言えない。きっと困らせる。理性があったら、踏み止まっていた。
しかし今の私はお酒が回っていた。
「私、まだ悠さんと話がしたいです」
素直に話すと、悠さんは明らかに困った顔になる。
やっぱり、迷惑ですよね。
また会えるか分からないけれど、悪い印象を残したくはなかった。
「これ以上、一緒にいると朝まで離しませんよ」
「朝まで付き合ってくれるんですか?」
想像していない返答に、思わず聞き返す。
「意味、分かってないな……これ」
ぼそりと彼が呟いた。
ほんの一瞬、目つきが鋭くなって飢えた獣みたいに喉が鳴る。
「えろいことするって、言ってるんですよ」
「ひゃえ?」
礼儀正しくて優しい悠さんが、何かとんでもないことを言った気がした。
思考が停止していると、彼は仕方がないと言わんばかりに小さく息を吐いて、私の耳元に顔を寄せる。
「このままだとホテル行きですよ」
私にそんなつもりはなかった。純粋に話がしたかっただけなのだ。
けれど、言われて考えてみる。
恋人願望のなかった人生。一度も誰かと付き合ったこともなかったし、そういうきっかけに出会ったこともない。
それなら、いいのかもしれない。
まだ出会ったばかり。でも、この人は悪い人ではないと、根拠はないが確信があった。なにより私は、この人のそばにいたい。ふわりと笑う顔を何度だって見たかった。
「は、はい……」
頷くと、悠さんが息を呑んだ。私よりも緊張しているのが分かる。
だからこの選択は、間違っていない気がした。
ホテルまでどんな風に行ったのか、よく覚えていない。私よりも熱い手に握られて夜の街を歩いた記憶がある。星一つないのが寂しくて、その代わりにラブホテルを照らす光が眩しかった。
あんなに話がしたいと言って引き留めたのに、部屋に入ってから私はほとんど話をすることができなかった。先にシャワーを浴びて、悠さんを待つ。
部屋は清潔感のある場所だった。ラブホテルだと言われなかったら気づくことができないくらい、普通のホテルに見える。全然いかがわしくなかった。
思い立って、ベッドの隣にあるサイドチェストを開くとコンドームや大人のおもちゃがあったので、なるほど、私のラブホへの価値観が偏見にまみれていたのだと気づく。
他には何があるのだろうと探りかけると、悠さんが浴室から出てきた。すこし髪が湿っているように見える。急いで済ませたのかもしれない。バスローブ姿で、胸元がすこし開いていた。何かスポーツをしているのだろうか。割れているのが分かる。男性って皆こういうものなの? 物腰と肉体のギャップに頭がついていかない。
「本当にいいんですか?」
「……化粧取ったの、駄目でした?」
「とても可愛いです。そうではなくて、たぶんあなたが後悔するかもしれないので」
大きな手が私の頬をすりすりと撫でる。気持ちよさに、うっとりと目を閉じると唇に柔らかいものが触れた。
もしかして、と薄く目を開く。長い睫が見えて、すぐに目を閉じた。最中に目を開けるのはよくない気がしたのだ。
「んっ」
「ふぅ……ン」
ちゅうっと甘い音が鳴っていた。いつの間にか舌が絡まって、意識がふにゃりと緩む。まだキスしかしていないのに、背筋が溶けてしまいそうだった。
待って、待って、と言いたくなる。
「……んううっ」
「大丈夫ですか?」
「っ……はい、あの、キスってこんなに気持ちいいんですね」
はひはひ、と口で呼吸する。感触に気を取られてすっかり息をするのを忘れていた。
「どうしたんですか、まるで初めてみたいに」
「その」
言いかけて、止める。ここで初めてだと言ったら止めてしまうかもしれない。
「……今までキスした中で一番気持ちいいって意味、で」
嘘は言っていない。これが初めてなのだから。
「もしかして、芽依さんは経験豊富なんですか?」
「ど、どうなんですかね!」
そんなものはなかった。もうボロを出すまいと自分から唇を近づける。そうして都合の悪い会話は中断した。
私からキスをした後、彼に腰を抱かれて首筋や胸まで吸われていく。最初はくすぐったくて笑ってしまったのに、しばらくすると私らしくない声が出る。切れ切れに声が漏れて、息も震えていた。
私よりも私の体を知っている。それくらい、感じたことのない場所が快楽を得ていた。胸なんて摘ままれただけで、息が止まりそうなほど頭がぐちゃぐちゃになるのだ。どこを何されても、変になる。
バスローブは気づいたら脱げていた。唇に意識を持っていかれている最中に、脱がされてしまったのかもしれない。ブラのホックも外された。視線を逸らすと、ちょうど壁一面が鏡になっている。そこにはベッドの上で男女が乱れた姿で抱き合っているのが見えた。部屋が広く感じたのは壁の一面だけ鏡になっていたからだろう。
前言撤回。
――全然、普通の部屋じゃなかった!
「どうかしましたか?」
聞かれて、すぐに私は首を横に振る。鏡張りになっている場所はもう見ないようにしよう、と決めて。
♡
ホテルに入ってからどれくらい時間が経っているのだろう。
悠さんは穏やかな雰囲気とは違って、最後は激しく求めてきた。体は心地の良い疲労感で包まれている。
時間を確認する体力も気力もないけれど、普段寝ている時刻からは優に過ぎているはずだ。
でも、明日は休みなので気にしなくてもいい。
ほんの僅かに余裕ができて、指先で悠さんの目尻に触れた。
「ん、どうしました?」
悠さんはくすぐったそうに声を零す。
「黒子があるなぁって思って見てたんですけど、目の隈が……」
彼の目尻には隈もあった。今になって気づいたのは、緊張が解れてきたからだろう。
「そんなに酷いですか?」
「明るい場所でなかったら気づかないと思います」
「すこし、不眠症なので」
「薬は飲みました?」
「……本当に困った時だけ飲むので」
眠れないと思った時だけ、薬を飲むようにしているのだろう。
そこでふと、この外泊は計画的なことではないことを思い出した。すこしだけ、酔いが覚めたのかもしれない。睡眠薬を常に携帯しているようには思えなかった。
「眠れなくて、困ったら……私のことはいいので、睡眠薬がある家に帰っていいですからね」
「今日は必要ないので、大丈夫ですよ」
悠さんの長い睫が伏せられる。
「芽依さんがいるので、安心して眠れそうです」
私の体はすっぽりと悠さんの胸におさまった。たくましい腹筋に額を当てる。彼の指が私の髪をすくって、ほんのすこし、くすぐったい。
「いいですね、こういうの」
応えるように私も彼を抱き返す。
はい、と返事をして心地のよい熱に包まれて眠りに落ちた。
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