色香滴る外資系エリートに甘く溶かされて
2-3. 遠い夏の夜の記憶
「————って感じでさ、最近奥さんの機嫌が悪くてほんと嫌になっちゃうよ」
「うーん、そういうふうに言われると傷つきますよね……」
「そうなんだよねぇ……長年夫婦として支え合ってきたし、こんなことで妻を嫌いになることはないけど結構ショックで」
溜め息を吐きながら愚痴をこぼす相川さんは今日初めてお会いしたお客様だ。絵梨花さんを指名することが多いらしいが、ちょうど別の卓で接客中なのでヘルプとして私がついている。
きっちりとした身嗜みの紳士は随分落ち込んでいた。なんでも最近、家にいると奥さんからの八つ当たりが激しいそうでお疲れ気味らしい。そういう訳で今夜は仕事終わりにそのまま夜の街に繰り出したのだという。
「あー、だめだね。せっかく気分転換しようと思って遊びにきたのに暗い話になっちゃったや」
「そんなことないですよ。奥様のことを大切に思っていらっしゃるのが伝わってきて、相川さんは素敵な旦那様なんだなって感動しました。でも、辛いことが続くと誰かに話を聞いて欲しくもなりますよね」
相川さんのグラスについた水滴をハンカチで丁寧に拭う。本心からの言葉だった。相川さんの年齢を鑑みるに、奥様はちょうど感情が乱れやすい時期なのだろう。その世代の女性はホルモンバランスが崩れて苦労すると耳にしたことがある。
「今すぐには難しくても、きっといつか元の穏やかな奥様に戻られると思います。ただ、そうは言っても、相川さんが落ち込んじゃった時はいつでも遊びにいらしてくださいね」
あまりにも奥様のご体調が優れないようならお医者様に診てもらってもいいかもしれませんね、と控えめに言い添える。余計なお世話かも知れないと思ったが、心配でつい言ってしまった。
「リリちゃん……だっけ。ありがとう。なんだか心が少し楽になったよ」
柔らかな笑みを浮かべた相川さんに感謝された。ここのお店の子たちは無理に話を盛り上げたりしないから、なんだか落ち着けるんだよねと話す紳士の顔は先ほどより晴れやかだ。
「相川様、失礼致します」
その後も和やかに会話を楽しんでいると、黒服の柳さんがやってきた。相川さんに了承を得て、柳さんは私に耳打ちした。
「1卓に加賀谷様、本指名」
手短に伝えられた内容に頷くと、相川さんに指名が入った旨を伝える。素敵な紳士は私に改めて感謝の言葉を伝えると、快く送り出してくれた。
加賀谷さんの待つテーブルへ移動する前に、バックヤードに立ち寄って軽く化粧直しをする。ハンドバックから手鏡を取り出したタイミングで柳さんがやってきた。
「リリちゃーん、入店から1ヶ月足らずで本指なんてやるじゃん」
柳さんはグラスを磨きながら軽い口調で話しかけてきた。七瀬ママの右腕を務めるこのチャラ男は女の子の扱いに至極長けていて、あらゆる面から私たちのサポートをしてくれる。異性に苦手意識のある私の懐にすらスッと入って来た凄腕のお兄さんだ。入店後のちょっとした研修を担当するのも彼なので、私もすでに色々とお世話になっている。
「あー、ありがとうございます……」
ファンデーションが崩れていないかチェックしつつ、曖昧な返事をした。私の微妙な反応に何かを察したのか柳さんが揶揄うようなテンションで話を続ける。
「加賀谷様はとんでもないイケメンだし、リリちゃんとしてもラッキーじゃないの?あんな色男、なかなかいないよ。それとも、もしかして初回で口説かれたのが響いてたりする?」
あれは凄かったよねぇ、初回の第一声で女の子口説き始めたお客様は俺も初めて見たわ!と柳さんは笑っている。柳さんもなかなかのイケメンなのだが、加賀谷さんは…終始にこやかで優しいのに、ふとした瞬間に男性の色気を感じるというか……何にせよ魅力的過ぎて心臓に悪い。
『俺は気になる人への愛情表現は惜しまない方だと思うよ』
それに加えてこの前のあの囁き。あんなアピールをされてしまうと本当にどうしていいか分からない。初回から好意を滲ませた視線で私を見てくれていたが、さすがに受け流すのがしんどくなってきた。
「いや、ほんとに…ああいう態度取られると正直どうすればいいかわからなくて……私、恋愛経験全くないので」
「え、マジ?リリちゃん落ち着いてるし、今まで何人かと長く付き合ってきた感じなのかと思ってたわ」
「よく言われます。私、そもそも恋愛に興味なくて」
アイメイクも軽く手直しする。今夜は透け感のある夏らしいペールブルーのドレスを着ているので、濡れ感のあるアイシャドウを選んでみた。清楚さを演出しつつも、適度に色っぽく仕上げているつもりだ。
「待って、なにそれ。詳しく聞きたいんだけど。今度詳しく教えてよ」
「あはは、良かったら相談に乗ってくださいよ。そろそろ1卓行ってきますね」
最後に艶のあるリップを塗り直した。柳さんに見送られながらバックヤードを出る。フロアは華やいでいて、どの卓のお客様も楽しそうだ。時々、自分がこうして働いているのは夢なんじゃないかと思う。
「加賀谷さん、いらっしゃいませ。今夜も遊びに来てくださって嬉しいです」
「リリちゃん、会いたかったよ。なんだか今日は……大人っぽいね」
「ありがとうございます。加賀谷さんこそ、今日も素敵ですね」
にこりと笑顔を浮かべて加賀谷さんに挨拶をする。彼はいつもの笑顔をこちらに向けた途端、じっと私の姿を見つめ始めた。どうやら、今夜のドレスは彼好みらしい。
今日は同世代のお連れ様が2名いるようだ。ちらりと目線を向けた途端、彼らの顔に喜色が浮かんだ。
「この子が噂のリリちゃんかー!」
「いやぁ、確かに美人だね。可愛いのにセクシーというか、ドキドキする」
「え、俺も口説いてもいいかな?」
「橘、お前今すぐ帰れ」
「うわ、加賀谷こわっ」
「お前、リリちゃんの前だと色んな意味で豹変するんだね……」
会話が一気に盛り上がったので私は目を瞬かせた。3人はかなり気安い仲のようだ。加賀谷さんはハッとした表情で私に説明してくれた。
「いきなりごめんね。この2人は会社の同期の橘と佐倉」
「そうそう。今日は久しぶりに3人で飲んでたんだけど、加賀谷が————」
「うるさいよ、橘」
笑顔の加賀谷さんが橘さんの口を方手で塞いだ。ちょっと続きが気になる。
「加賀谷が最近、気になる女の子がいるって言うから君に会いに来ちゃったんだ。上司の榊原さんからもこのお店の話は聞いてたから、一度来てみたかったんだよね」
柔らかな微笑みを湛えながら佐倉さんが教えてくれた。海外の血が混じっているのか、色素の薄い髪と明るいブラウンの瞳が印象的な方だ。加賀谷さんと何か話し込んでいる橘さんは溌剌とした印象の人で、焼けた肌からしてスポーツやアウトドアが好きそうな雰囲気を感じる。
「そうなんですね。お会いできて嬉しいです」
「2人ともちょっと静かに…騒がしくてごめんね」
「こういう賑やかな雰囲気も新鮮で楽しいですよ?」
さっきまで相川さんと一緒に楽しく飲んでいたおかげか、程よく酔いが回ってきた私は悪戯っぽい笑みを浮かべて加賀谷さんを上目遣いに見つめる。バックヤードで思い悩んでいたことなどすっかり忘れて、大胆に加賀谷さんの右腕に触れてみた。
「————っ、リリちゃん!」
瞬時に加賀谷さんが体をこちらに向けて、私と視線を絡ませる。驚喜の色を浮かべた瞳に熱心に見つめられて恥ずかしくなってきた。
「……うわ」
「これは……想像以上だね」
「俺、榊原さんが面白がって話盛ってんだと勘違いしてたわ」
「うん、僕もそうだと思ってた」
話の内容はよく分からなかったが橘さんと佐倉さんの声に彼らの存在を思い出した私は、加賀谷さんから離れてテーブルに着くよう促した。
「本来であればお1人ずつ隣で接客させて頂いてるんですが、今夜は少々混み合っていまして…しばらくすれば私以外の者も席に着きますので、ご了承いただけると助かります」
今日は予約なしでの来店がいくつかあって、キャストの数が足りていない。橘さんと佐倉さんにその旨を伝えて謝ると「いや、俺らはリリちゃんだけでいいよ」と言われた。
「僕は既婚者でね。妻が嫉妬するから元々遠慮しようと思ってたんだ。その分、加賀谷とリリちゃんのやり取りを堪能させてもらうよ」
「俺も別に女に飢えてねぇしな。佐倉はさっさと結婚しちまったし、加賀谷はリリちゃんにご執心だけど俺ら結構モテるんだぜ?」
「橘、お前は本当に帰れ」
「わっ、その顔はマジで怖いって加賀谷。リリちゃんに見られたら泣かれるぞ」
その顔が気になって、バッと加賀谷さんの方を向いたが間に合わなかった。いつも通りの明るい笑顔が私を見ていた。
「加賀谷さんの怖い顔、気になります」
「ほんと超怖いよ、殺されるかと思った」
「まさか」
相変わらず加賀谷さんは笑顔だが、橘さんが突っかかる度に確かになんだか機嫌が悪そうな雰囲気が出ている。彼の意外な一面を見た気がした。
それからは4人でお酒を交えつつ、仕事の話や佐倉さんの奥様の話で盛り上がった。なんと佐倉さんは社内婚らしく、恐ろしくハイスペックな夫婦じゃん……と1人で慄いていると、不意に加賀谷さんのスマホが鳴った。
「榊原さんからだ。ちょっと行ってくるね」
加賀谷さんはスッと立ち上がると、長い脚であっという間に店から出て行った。
「この時間に電話だなんて、お忙しいんですね」
「うーん、多分業務外の話だとは思うけどね。どこかで取引先と飲んでるから来いとかそんな感じじゃないかな」
それは業務なのでは?と思ったが言葉を飲み込んだ。野暮なことは言わないでおこう。
「そんなことより、リリちゃんよ」
「はい、何でしょう。橘さん」
「君はあの加賀谷に気に入られてる訳だけど、どう思ってるん?」
「…と言うと?」
「いやぁね。加賀谷いないからぶっちゃけちゃうけど、さっき3人で飲んでる時のあいつの様子は相当でね。好きな子ができた、かわいい、かわいいってずっと言ってたんだよね」
「……………そうですか」
薄々気づいていたとはいえ、こうして加賀谷さんのご友人から話を聞くと気恥ずかしくて言葉に詰まった。今も視線が泳いでいる自信がある。
「いやー、ほんとびっくりしたわ。加賀谷ってあのルックスだからさ、死ぬほどモテるんだけど誰かを好きになったって話を聞くのは初めてで」
「ね、本気で驚いたよ。しかも、加賀谷の君への対応は僕たちの目からすると異様なレベルだね」
「間違いない。仕事中はほんっとに冷静沈着って感じで、超クールなんだぜ。そうかと思えば、俺たちと飲んでる時は口が悪くなるし…あんなににこにこ嬉しそうしてるとこなんて見たことない。っていうかあんな表情できるんだな、あいつ」
「前に女の子に告白されてる場面に出くわしたことがあるんだけど、1ミリも興味ないですって顔でバッサリ断ってて、見てるこっちまで辛い気持ちになったね」
なかなかに散々な言われ様だが、お2人が言いたいことはなんとなく伝わった。頬を赤らめてにこにこしている印象が強いので、私としても意外でしかない。私が無言でいると、佐倉さんが言葉を続けた。
「リリちゃんが仕事でここにいるのは分かってる。どんなにイケメンだろうが加賀谷は客の1人に過ぎないのかもしれない。でも、彼のことを少なからず知っている僕たちから見るとあいつのリリちゃんへの思い入れは尋常じゃないんだ」
「ほんとになぁ。本当は俺たちからこんなこと言うべきじゃないってわかってんだけど、あいつのことちゃんと見てやって欲しいんだ」
「そうそう」
「なー……って、肝心なこと聞くの忘れてたわ。リリちゃんて彼氏いたりする?ガチで聞きたいんだけど」
「……彼氏いないですよ。本当に」
本当の私は、彼氏いないどころか一度もいたことがない女だ。これからも作る気はない。お客様の前で失礼だと承知の上で溜め息を吐いて、お酒を煽りながら考えを巡らす。
そもそも私が異性を苦手になった、というより異性を避け始めたのは中学の頃からだ。私が通っていた中学校は男子生徒の数が多く、何かと女子は好奇の目に晒されていた。私は身体の発達が早かったこともあって、その中でも特に男子たちの興味を惹いてしまった。幸いにも具体的な実害には遭わずに済んだが、思春期男子特有の粘つくような好奇心と欲に塗れた視線に常に纏わりつかれ、とにかく不快で仕方なかった。
今でもあの表現しがたい無数の視線を思い出すと気分が悪くなる。それ以来、異性をなんとなく避ける癖がついてしまった。法学部に進むことにしたのも、ひとりで立派に生きていけるような知識を身につけたかったからだ。
時が過ぎて、今ではこうしてラウンジ嬢として働ける程に異性への苦手意識はマシになっている。これから社会生活を営む上で問題ない程度には克服できたと考えていいだろう。
ただし、恋愛————延いては性的接触のことを考えるとあの頃のトラウマがほんの少し甦る。だから、彼氏は作らないと決めていた。恋愛に興味なんてないと言い聞かせて、意図的に考えないようにしていた。
「榊原さんからの電話、大したことない話だった……あれ、リリちゃんどうしたの?」
————でも、もし加賀谷さんが私のことを本気で想ってくれているなら?
「うーん、そういうふうに言われると傷つきますよね……」
「そうなんだよねぇ……長年夫婦として支え合ってきたし、こんなことで妻を嫌いになることはないけど結構ショックで」
溜め息を吐きながら愚痴をこぼす相川さんは今日初めてお会いしたお客様だ。絵梨花さんを指名することが多いらしいが、ちょうど別の卓で接客中なのでヘルプとして私がついている。
きっちりとした身嗜みの紳士は随分落ち込んでいた。なんでも最近、家にいると奥さんからの八つ当たりが激しいそうでお疲れ気味らしい。そういう訳で今夜は仕事終わりにそのまま夜の街に繰り出したのだという。
「あー、だめだね。せっかく気分転換しようと思って遊びにきたのに暗い話になっちゃったや」
「そんなことないですよ。奥様のことを大切に思っていらっしゃるのが伝わってきて、相川さんは素敵な旦那様なんだなって感動しました。でも、辛いことが続くと誰かに話を聞いて欲しくもなりますよね」
相川さんのグラスについた水滴をハンカチで丁寧に拭う。本心からの言葉だった。相川さんの年齢を鑑みるに、奥様はちょうど感情が乱れやすい時期なのだろう。その世代の女性はホルモンバランスが崩れて苦労すると耳にしたことがある。
「今すぐには難しくても、きっといつか元の穏やかな奥様に戻られると思います。ただ、そうは言っても、相川さんが落ち込んじゃった時はいつでも遊びにいらしてくださいね」
あまりにも奥様のご体調が優れないようならお医者様に診てもらってもいいかもしれませんね、と控えめに言い添える。余計なお世話かも知れないと思ったが、心配でつい言ってしまった。
「リリちゃん……だっけ。ありがとう。なんだか心が少し楽になったよ」
柔らかな笑みを浮かべた相川さんに感謝された。ここのお店の子たちは無理に話を盛り上げたりしないから、なんだか落ち着けるんだよねと話す紳士の顔は先ほどより晴れやかだ。
「相川様、失礼致します」
その後も和やかに会話を楽しんでいると、黒服の柳さんがやってきた。相川さんに了承を得て、柳さんは私に耳打ちした。
「1卓に加賀谷様、本指名」
手短に伝えられた内容に頷くと、相川さんに指名が入った旨を伝える。素敵な紳士は私に改めて感謝の言葉を伝えると、快く送り出してくれた。
加賀谷さんの待つテーブルへ移動する前に、バックヤードに立ち寄って軽く化粧直しをする。ハンドバックから手鏡を取り出したタイミングで柳さんがやってきた。
「リリちゃーん、入店から1ヶ月足らずで本指なんてやるじゃん」
柳さんはグラスを磨きながら軽い口調で話しかけてきた。七瀬ママの右腕を務めるこのチャラ男は女の子の扱いに至極長けていて、あらゆる面から私たちのサポートをしてくれる。異性に苦手意識のある私の懐にすらスッと入って来た凄腕のお兄さんだ。入店後のちょっとした研修を担当するのも彼なので、私もすでに色々とお世話になっている。
「あー、ありがとうございます……」
ファンデーションが崩れていないかチェックしつつ、曖昧な返事をした。私の微妙な反応に何かを察したのか柳さんが揶揄うようなテンションで話を続ける。
「加賀谷様はとんでもないイケメンだし、リリちゃんとしてもラッキーじゃないの?あんな色男、なかなかいないよ。それとも、もしかして初回で口説かれたのが響いてたりする?」
あれは凄かったよねぇ、初回の第一声で女の子口説き始めたお客様は俺も初めて見たわ!と柳さんは笑っている。柳さんもなかなかのイケメンなのだが、加賀谷さんは…終始にこやかで優しいのに、ふとした瞬間に男性の色気を感じるというか……何にせよ魅力的過ぎて心臓に悪い。
『俺は気になる人への愛情表現は惜しまない方だと思うよ』
それに加えてこの前のあの囁き。あんなアピールをされてしまうと本当にどうしていいか分からない。初回から好意を滲ませた視線で私を見てくれていたが、さすがに受け流すのがしんどくなってきた。
「いや、ほんとに…ああいう態度取られると正直どうすればいいかわからなくて……私、恋愛経験全くないので」
「え、マジ?リリちゃん落ち着いてるし、今まで何人かと長く付き合ってきた感じなのかと思ってたわ」
「よく言われます。私、そもそも恋愛に興味なくて」
アイメイクも軽く手直しする。今夜は透け感のある夏らしいペールブルーのドレスを着ているので、濡れ感のあるアイシャドウを選んでみた。清楚さを演出しつつも、適度に色っぽく仕上げているつもりだ。
「待って、なにそれ。詳しく聞きたいんだけど。今度詳しく教えてよ」
「あはは、良かったら相談に乗ってくださいよ。そろそろ1卓行ってきますね」
最後に艶のあるリップを塗り直した。柳さんに見送られながらバックヤードを出る。フロアは華やいでいて、どの卓のお客様も楽しそうだ。時々、自分がこうして働いているのは夢なんじゃないかと思う。
「加賀谷さん、いらっしゃいませ。今夜も遊びに来てくださって嬉しいです」
「リリちゃん、会いたかったよ。なんだか今日は……大人っぽいね」
「ありがとうございます。加賀谷さんこそ、今日も素敵ですね」
にこりと笑顔を浮かべて加賀谷さんに挨拶をする。彼はいつもの笑顔をこちらに向けた途端、じっと私の姿を見つめ始めた。どうやら、今夜のドレスは彼好みらしい。
今日は同世代のお連れ様が2名いるようだ。ちらりと目線を向けた途端、彼らの顔に喜色が浮かんだ。
「この子が噂のリリちゃんかー!」
「いやぁ、確かに美人だね。可愛いのにセクシーというか、ドキドキする」
「え、俺も口説いてもいいかな?」
「橘、お前今すぐ帰れ」
「うわ、加賀谷こわっ」
「お前、リリちゃんの前だと色んな意味で豹変するんだね……」
会話が一気に盛り上がったので私は目を瞬かせた。3人はかなり気安い仲のようだ。加賀谷さんはハッとした表情で私に説明してくれた。
「いきなりごめんね。この2人は会社の同期の橘と佐倉」
「そうそう。今日は久しぶりに3人で飲んでたんだけど、加賀谷が————」
「うるさいよ、橘」
笑顔の加賀谷さんが橘さんの口を方手で塞いだ。ちょっと続きが気になる。
「加賀谷が最近、気になる女の子がいるって言うから君に会いに来ちゃったんだ。上司の榊原さんからもこのお店の話は聞いてたから、一度来てみたかったんだよね」
柔らかな微笑みを湛えながら佐倉さんが教えてくれた。海外の血が混じっているのか、色素の薄い髪と明るいブラウンの瞳が印象的な方だ。加賀谷さんと何か話し込んでいる橘さんは溌剌とした印象の人で、焼けた肌からしてスポーツやアウトドアが好きそうな雰囲気を感じる。
「そうなんですね。お会いできて嬉しいです」
「2人ともちょっと静かに…騒がしくてごめんね」
「こういう賑やかな雰囲気も新鮮で楽しいですよ?」
さっきまで相川さんと一緒に楽しく飲んでいたおかげか、程よく酔いが回ってきた私は悪戯っぽい笑みを浮かべて加賀谷さんを上目遣いに見つめる。バックヤードで思い悩んでいたことなどすっかり忘れて、大胆に加賀谷さんの右腕に触れてみた。
「————っ、リリちゃん!」
瞬時に加賀谷さんが体をこちらに向けて、私と視線を絡ませる。驚喜の色を浮かべた瞳に熱心に見つめられて恥ずかしくなってきた。
「……うわ」
「これは……想像以上だね」
「俺、榊原さんが面白がって話盛ってんだと勘違いしてたわ」
「うん、僕もそうだと思ってた」
話の内容はよく分からなかったが橘さんと佐倉さんの声に彼らの存在を思い出した私は、加賀谷さんから離れてテーブルに着くよう促した。
「本来であればお1人ずつ隣で接客させて頂いてるんですが、今夜は少々混み合っていまして…しばらくすれば私以外の者も席に着きますので、ご了承いただけると助かります」
今日は予約なしでの来店がいくつかあって、キャストの数が足りていない。橘さんと佐倉さんにその旨を伝えて謝ると「いや、俺らはリリちゃんだけでいいよ」と言われた。
「僕は既婚者でね。妻が嫉妬するから元々遠慮しようと思ってたんだ。その分、加賀谷とリリちゃんのやり取りを堪能させてもらうよ」
「俺も別に女に飢えてねぇしな。佐倉はさっさと結婚しちまったし、加賀谷はリリちゃんにご執心だけど俺ら結構モテるんだぜ?」
「橘、お前は本当に帰れ」
「わっ、その顔はマジで怖いって加賀谷。リリちゃんに見られたら泣かれるぞ」
その顔が気になって、バッと加賀谷さんの方を向いたが間に合わなかった。いつも通りの明るい笑顔が私を見ていた。
「加賀谷さんの怖い顔、気になります」
「ほんと超怖いよ、殺されるかと思った」
「まさか」
相変わらず加賀谷さんは笑顔だが、橘さんが突っかかる度に確かになんだか機嫌が悪そうな雰囲気が出ている。彼の意外な一面を見た気がした。
それからは4人でお酒を交えつつ、仕事の話や佐倉さんの奥様の話で盛り上がった。なんと佐倉さんは社内婚らしく、恐ろしくハイスペックな夫婦じゃん……と1人で慄いていると、不意に加賀谷さんのスマホが鳴った。
「榊原さんからだ。ちょっと行ってくるね」
加賀谷さんはスッと立ち上がると、長い脚であっという間に店から出て行った。
「この時間に電話だなんて、お忙しいんですね」
「うーん、多分業務外の話だとは思うけどね。どこかで取引先と飲んでるから来いとかそんな感じじゃないかな」
それは業務なのでは?と思ったが言葉を飲み込んだ。野暮なことは言わないでおこう。
「そんなことより、リリちゃんよ」
「はい、何でしょう。橘さん」
「君はあの加賀谷に気に入られてる訳だけど、どう思ってるん?」
「…と言うと?」
「いやぁね。加賀谷いないからぶっちゃけちゃうけど、さっき3人で飲んでる時のあいつの様子は相当でね。好きな子ができた、かわいい、かわいいってずっと言ってたんだよね」
「……………そうですか」
薄々気づいていたとはいえ、こうして加賀谷さんのご友人から話を聞くと気恥ずかしくて言葉に詰まった。今も視線が泳いでいる自信がある。
「いやー、ほんとびっくりしたわ。加賀谷ってあのルックスだからさ、死ぬほどモテるんだけど誰かを好きになったって話を聞くのは初めてで」
「ね、本気で驚いたよ。しかも、加賀谷の君への対応は僕たちの目からすると異様なレベルだね」
「間違いない。仕事中はほんっとに冷静沈着って感じで、超クールなんだぜ。そうかと思えば、俺たちと飲んでる時は口が悪くなるし…あんなににこにこ嬉しそうしてるとこなんて見たことない。っていうかあんな表情できるんだな、あいつ」
「前に女の子に告白されてる場面に出くわしたことがあるんだけど、1ミリも興味ないですって顔でバッサリ断ってて、見てるこっちまで辛い気持ちになったね」
なかなかに散々な言われ様だが、お2人が言いたいことはなんとなく伝わった。頬を赤らめてにこにこしている印象が強いので、私としても意外でしかない。私が無言でいると、佐倉さんが言葉を続けた。
「リリちゃんが仕事でここにいるのは分かってる。どんなにイケメンだろうが加賀谷は客の1人に過ぎないのかもしれない。でも、彼のことを少なからず知っている僕たちから見るとあいつのリリちゃんへの思い入れは尋常じゃないんだ」
「ほんとになぁ。本当は俺たちからこんなこと言うべきじゃないってわかってんだけど、あいつのことちゃんと見てやって欲しいんだ」
「そうそう」
「なー……って、肝心なこと聞くの忘れてたわ。リリちゃんて彼氏いたりする?ガチで聞きたいんだけど」
「……彼氏いないですよ。本当に」
本当の私は、彼氏いないどころか一度もいたことがない女だ。これからも作る気はない。お客様の前で失礼だと承知の上で溜め息を吐いて、お酒を煽りながら考えを巡らす。
そもそも私が異性を苦手になった、というより異性を避け始めたのは中学の頃からだ。私が通っていた中学校は男子生徒の数が多く、何かと女子は好奇の目に晒されていた。私は身体の発達が早かったこともあって、その中でも特に男子たちの興味を惹いてしまった。幸いにも具体的な実害には遭わずに済んだが、思春期男子特有の粘つくような好奇心と欲に塗れた視線に常に纏わりつかれ、とにかく不快で仕方なかった。
今でもあの表現しがたい無数の視線を思い出すと気分が悪くなる。それ以来、異性をなんとなく避ける癖がついてしまった。法学部に進むことにしたのも、ひとりで立派に生きていけるような知識を身につけたかったからだ。
時が過ぎて、今ではこうしてラウンジ嬢として働ける程に異性への苦手意識はマシになっている。これから社会生活を営む上で問題ない程度には克服できたと考えていいだろう。
ただし、恋愛————延いては性的接触のことを考えるとあの頃のトラウマがほんの少し甦る。だから、彼氏は作らないと決めていた。恋愛に興味なんてないと言い聞かせて、意図的に考えないようにしていた。
「榊原さんからの電話、大したことない話だった……あれ、リリちゃんどうしたの?」
————でも、もし加賀谷さんが私のことを本気で想ってくれているなら?
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