もう一度、重なる手

月ヶ瀬 杏

決別〈2〉

 普段よりも五分ほど遅れて職場に着くと、デスクに座るなり、由紀恵さんが「史ちゃん」と顔を寄せてきた。

「私の見間違いだったら悪いんだけど、今朝、背の高いイケメンと一緒に電車に乗ってなかった? 相手は小田くんじゃないよね……?」

 由紀恵さんがそう言いながら、昨日と同じ、私の長袖の白のブラウスを疑わしげにチラリと見てくる。

 由紀恵さんは、私が昨日家に帰ってないと気付いているんだろう。

 翔吾くんのことは、彼を知っている由紀恵さんにはあまり話したくないけれど、浮気をしていると思われるのも困る。少し迷ってから、私は由紀恵さんに、昼休みに聞いてほしいことがあると伝えて、業務を開始した。

 午前中の仕事のルーティンをいつものようにこなしたあと、部署の他の同僚に許可をもらって、私と由紀恵さんはふたりで同じ時間帯に昼休みをとらせてもらった。

 私がお昼はビルの休憩スペースで食べたいと言うと、由紀恵さんは最初不思議そうにしていたけれど……。私がここ数ヶ月の翔吾くんとの関係や別れ話をして殴られたこと、この前は殴られた痣が目立つので仕事を休んだことをぽつぽつ話していくと、由紀恵さんの表情が徐々に険しくなっていった。

「どうしてそうなるまで我慢してたの。史ちゃんがしんどい思いをしてるってもっと早くわかってれば、力になれることもあったかもしれないのに……」

 私の話を聞いた由紀恵さんは、悔しげにそう言ってくれて。それだけで、私の心は少し軽くなった。

 これまで誰にも言えずに翔吾くんからの束縛や監視に耐えていたけれど、アツくんや由紀恵さんに打ち明けて初めて、私と翔吾くんの関係が歪だったことに気付く。

 翔吾くんから逃げられないと怯えていたけれど、私自身も彼の監視下で少しおかしくなっていたのかもしれない。

「帰りは、史ちゃんのお義兄さんの仕事が終わるまで私が付き合うよ。下手にオフィスの外に出ると小田くんに見つかるかもしれないから、仕事が終わったらここの休憩スペースで待っていよう。ここなら、ビルのテナントの従業員しか入れないし」

 話の流れでアツくんのことも話すと、由紀恵さんがそんなふうに言ってくれた。由紀恵さんの存在が心強くて、少し泣きそうになってしまう。

 午後から、もしかしたら翔吾くんが仕事でうちの会社を訪れてくるんじゃないかと心配だったけど、その心配は杞憂に終わった。順調に仕事を終えた私と由紀恵さんは、十八時過ぎに会社を出てビルの休憩スペースに向かった。

 仕事終わりに今日も翔吾くんからの電話がくるんじゃないかと思ったけれど、由紀恵さんと缶コーヒー飲みながらおしゃべりしてアツくんを待つ間、翔吾くんからの連絡は一度もなかった。ラインも電話も。昨夜の履歴の数はなんだったのか。不気味なくらいにスマホが鳴らない。

「史ちゃんのこと、諦めてくれたのかな。だったら安心だよね」

 由紀恵さんはそう言ったけど、私の胸はそわそわして不安だった。

 あれほどの執着をみせてきた翔吾くんが、一晩音信不通になったくらいで諦めてくれるだろうか。連絡がないのは、彼が何かを企んでいるからなのでは……。考えれば考えるほど、悪い予感ばかりがして落ち着かない。

 そんな私の元に仕事を終えたアツくんが来てくれたのは、夜の八時頃だった。

「お待たせ、フミ」

 休憩スペースまで迎えに来てくれたアツくんを見た由紀恵さんは、「近くで見たらさらにイケメンだ」と私の耳元ではしゃいだ声を出す。

「史花の同僚の方ですよね。この度はお世話になり、ありがとうございます」
「いえいえ、心配ですよね。今日、史ちゃんから話を聞いてビックリしました。できることがあれば、いつでも力になりますので」

 アツくんににこやかに対応した由紀恵さんは「年上だし、頼りになりそうなお義兄さんだね」と、私にこそっと耳打ちしてきた。どうやら由紀恵さんの中でアツくんはかなりの好印象だったらしい。

 由紀恵さんは笑顔で私とアツくんに会釈をすると「気をつけてね」と、先に帰って行った。

「じゃあ、俺たちも帰ろうか。あれから、小田くんからの連絡はあった?」

 昨日の夜から今朝にかけて翔吾くんからひっきりなしにラインがきていたことを知っているアツくんが、心配そうに訊いてくる。

「それが、今日は全く連絡がないの。由紀恵さんは諦めたのかもって言ってたけど、そうなのかな」
「どうだろうね……」

 アツくんが、神妙な顔付きでしばらく黙り込む。

「とりあえず、フミは今日も俺の家に来た方が安全なんじゃないかなとは思うけど」

 アツくんはそう言ってくれたけど、二日連続でお邪魔するのは悪い気がする。明日から土日のお休みだから、三日連続同じ服で出勤……と言うことにはならないけれど、服一着では困るし、いつかは覚悟を決めて帰らないといけないのだ。

「ありがとう。気持ちは嬉しいけど、着替えも必要だし、今日は家に帰りたい」
「そっか。じゃあ、フミの家まで送るよ」
「アツくんの家とは電車で逆方向だよ」
「それでも、心配だから」

 アツくんの言葉に、心臓がドクンと鳴る。

 アツくんだって、仕事で疲れているだろうから真っ直ぐ帰りたいはずなのに……。家まで付き合わせて申し訳ないと思う反面、心配して守ってもらえることが嬉しい。

「ありがとう……」

 素直にお礼を言うと、アツくんにぽんっと頭を撫でられた。

「じゃあ、帰ろうか。もし途中で小田くんから連絡が来るようなことがあればすぐに教えて」

 優しい言葉に頷くと、私はアツくんと並んで休憩スペースを出た。

 エレベーターで一階に降りてビルの入り口付近までくると、不意に立ち止まったアツくんに肩を引き寄せられた。

「アツくん?」

 びっくりして飛び退こうとする私に、アツくんが「あー、ごめん」と苦笑いする。

「外に出たら、フミはなるべく俺にぴったりくっついてて」
「どうして?」
「いや……。俺にはやっぱり、小田くんがそんなに簡単にフミを諦めたとは思えないんだよね。敢えて連絡をせずに、どこかで待ち伏せしてるって可能性もあるんじゃないかと思って」

 アツくんの言葉に、心臓がヒヤリとした。

 私も、翔吾くんが諦めたとは思っていなかったけど……。

「翔吾くんが、待ち伏せなんて、そんなストーカーじみたことするかな……」
「どうだろう。深夜までしつこくラインや電話をかけてきたり、持ってる合鍵で勝手にフミの家に入ってきてる時点で、ストーカー行為一歩手前だと思うけど。今日、ほんとうに自分の家に帰って大丈夫?」

 念を押すように確認されて、判断に迷った。

 アツくんの言うとおり、翔吾くんが私の家の合鍵を持っている時点で、自宅に帰るのは危ないのかもしれない。

 でも、着替えを含めた生活必需品は全て家にあるのだから、このまま一生帰らないわけにもいかない。

「大丈夫だよ。帰ったら、すぐにチェーンをかけておくようにする」

 迷った末に家に帰る判断を下すと、アツくんが「わかった」と心配そうに息を吐いた。

「とにかく、ビルの外に出たら俺のそばから離れないでね」

 アツくんに何度も念を押されて、深く頷く。

 私はアツくんの左隣にぴったりとくっつくと、周囲を警戒しながらビルの外に出た。出入り口の前で立ち止まってアツくんと一緒に周囲を見回したが、近くに翔吾くんの姿は見つからない。

「大丈夫そう、だよね?」

 アツくんと顔を見合わせて確認すると、地下鉄の駅のほうに足を向ける。そのとき。

「史花」

 私たちのオフィスが入っているビルから少し離れた街路樹の陰から、翔吾くんがぬっと姿を現した。

 いつからいたのかわからないが、スーツ姿で仕事のカバンを片手に持った翔吾くんは、会社帰りに私を待ち伏せしていたらしい。

「史花が電話にも出ないしラインも返してくれないから、迎えに来たよ」

 口角をあげて、翔吾くんがニヤッと不気味に笑う。

 まさか、彼がこんなストーカーじみたことをするなんて……。信じられない気持ちでいっぱいだった。それでも、不気味に笑う翔吾くんの顔から目を逸らせずにいると、彼が一歩、二歩と近付いてくる。

 アツくんが庇うように私を背中に隠してくれたけど、翔吾くんにはアツくんの姿が目に入っていないらしい。翔吾くんの双眸は、アツくんの陰に隠れる私だけをジッと見ていた。

「昨日はどこにいたんだよ。なんで家に帰ってこなかったの? 俺、ずっと待ってたんだけど」

 翔吾くんの言葉に、サーッと全身から血の気がひいた。

 昨夜、私がアツくんの家でゆったりとお風呂に入って温かなベッドで眠っているあいだに、翔吾くんは合鍵でうちに入って待っていたのだ。

 もし昨日、私が帰宅していたらどうなっていたのだろう。翔吾くんは「ちゃんと話したい」と言うけれど、ちゃんとした別れ話ができただろうか。きっと、うまくいかなかったんじゃないだろうか。

「もしかして、昨日はそいつと一緒にいたのか? 今日もふたりでコソコソして、そいつの家に帰るつもりだったんだろ」

 私に向かってそう言ったあと、翔吾くんがアツくんを鋭い目付きで睨む。

「あんた、俺の史花に手ぇ出してないだろうな。昔一緒に住んでた兄だか家族だか知らないけど、俺と史花の間に割って入ってくんなよ」

 翔吾くんが、アツくんを押し退けて私に手を伸ばしてくる。その瞬間、殴れたときの恐怖が蘇ってきて身体が硬直した。

 助けて――。

 声にならない悲鳴をあげながら目を閉じる。けれど、伸ばされた手は私を捕まえることはなく、アツくんに制された。

 一見、アツくんのほうが翔吾くんよりも華奢に見えるのに。アツくんは、余裕げな涼しい顔で翔吾くんの腕を押さえている。

「離せ……!」

 顔を歪めた翔吾くんが歯を噛み締めて唸るのを、アツくんは冷静に見下ろしていた。

「小田くん、君がフミに何をしたかは聞いてるよ。フミに暴力を振るったんだよね?」

 アツくんの言葉に、翔吾くんがピクリと頬を引き攣らせる。

「だから……、そのことはずっと謝ってる……」
「でも、フミは許せてないよ。君がしたことに傷付いて、今も怯えてる」
「わかってるよ。だから、ちゃんと話を……」

 翔吾くんの声のトーンが、少しずつ下がっていく。さっきまでアツくんを鋭く睨みつけてきた彼の視線は、私への暴力を指摘された途端に気まずそうに彷徨い始めた。

 翔吾くんが、私を殴ったことを後悔しているのは事実なんだろう。彼自身、それで私が傷付いたことはアツくんに指摘されるまでもなくわかっている。

「フミのことを大切にしてくれるなら、俺は君とフミの将来に賛成だった。だけど、君にはそれが難しそうだよね。仮にフミが君を許したとしても、俺は一度でもフミを傷付けた人間を信用できないよ」
「は? あんたの信用なんてどうでもいいよ。俺が話したいのは史花だ」

 翔吾くんが、アツくんに噛み付くように反論する。

「じゃあ、この場でフミに気持ちを聞いてみたらいいよ。フミはどうしたい?」

 アツくんが、背中に隠れていた私を前に押し出して翔吾くんと対峙させようとする。

「でも……」

 翔吾くんは私の話をちゃんと聞いてくれるだろうか。ほんとうの気持ちを言えば、また手を出されるんじゃ……。

 小さく唇を震わせていると、アツくんが私の肩に手をのせて耳元に囁いてくる。

「大丈夫。そばについてるから、思ってることをちゃんと話して。フミが彼との関係をどうしたいか」

 鼓膜を揺らす優しい声に、気持ちが少し落ち着いた。

 大丈夫……。殴られたあのときとは違って、今はアツくんがそばにいてくれる。

 私はお腹の辺りで両手をぎゅっと組み合わせると、一歩前に出た。

「史花……」

 顔をあげると、翔吾くんがいつになく甘い猫撫で声で私を呼ぶ。付き合い始めた頃は、耳に心地よかった翔吾くんの声。だけど今は、その声にときめくどころか、耳が完全に拒絶していた。

「史花、この前はほんとうにごめん。もう絶対にあんなことしない。これからはもっと史花のことを大事にする。だからこっちに来て。俺ともう一度ちゃんと――」

 甘く優しい声で謝って、私を説得しようとする翔吾くん。だけど、その言葉がどれひとつとして私の心に響かない。

 数日会わないあいだに翔吾くんの顔は少しやつれていて、目の下に隈ができている。ここ何日か、私のことで思い悩んだのだろうか。その姿を見ても、同情の気持ちすら湧いてこない。

 私は目の前で懸命に話す恋人である人のことを、冷めた気持ちで見つめた。

 翔吾くんがどれだけ謝ってくれたとしても、好意の言葉を伝えてくれたとしても、私の前には透明な、決して打ち破れない壁があって。以前と同じように彼を恋人として受け入れることができない。

「ごめんね、翔吾くん。別れてほしい……」

 翔吾くんの話を遮って震える声で伝えると、彼が大きく目を見開いて唇を戦慄かせた。

「史花、本気で言ってる?」
「本気だよ。やっぱり、どれだけ謝られても殴られたことは許せないし、私は翔吾くんが怖い……」
「史花……」

 翔吾くんの瞳が、泣き出しそうに揺れる。

「俺は本当に史花のこと好きだった……」
「ごめん……、私、どうしても翔吾くんとの将来がイメージができなかった。ずっと言えなかったけど、母親との関係のせいで結婚に対してあまりいいイメージが持てなくて……」
「だったら、今までどおり付き合うだけでもいいよ。結婚のことは、史花がイメージできるようになってからでも……」
「ごめん。私はもう、付き合い始めた頃と同じようには翔吾くんのことを思えない」

 静かに首を横に振ると、翔吾くんが瞳を曇らせてうつむく。肩を落として背中を丸めた翔吾くんの頼りない姿に、罪悪感でチクリと胸が痛んだけれど。それが私の正直な気持ちだった。

 一年ほど付き合っていたけれど、翔吾くんには母親との微妙な関係や自分が育ってきた家庭環境のことを打ち明けられなかった。翔吾くんから将来についての話を持ちかけられたときも、やっぱり言えなかった。翔吾くんに、いい年をして男の人にだらしのない母のことを知られたくなかった。

 今思えば、話せない、隠したいと、そう思っている時点で、翔吾くんとの未来はなかったのだろう。

「ごめん、翔吾くん。別れてほしい。それから、家の鍵も返して……」

 翔吾くんはしばらく渋っていたけれど、どう説得しても私の気持ちが変わらないとわかると、カバンに入れたキーケースの中から、私の家の鍵を外してくれた。

「ごめんな、傷付けて……」

 私の手のひらにポトンと鍵を落としながら、翔吾くんがつぶやく。

「私も、ごめん……」

 私に向けてくれた気持ちに応えきれなくて。

 未練とは違う。だけど、少し切なく悲しい気持ちで、手のひらの鍵を握り締める。

 終盤は互いに互いを苦しめてきた私と翔吾くんの恋は、彼の涙とともに静かに終わっていった。


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