もう一度、重なる手
執着〈2〉
その夜、私が家に着いたのは八時頃だった。職場を出てから家に着くまでに何度もスマホを確認したが、翔吾くんからの連絡はない。
いつ来るのだろうと思うと、帰宅中も家に着いてからも落ち着かず。アツくんに知られたら渋い顔をされるだろうなとは思いつつも、夕飯を食べる気になれなかった。
食事の代わりに口にしたのは、お湯を注ぐだけのドリップコーヒー。心を落ち着かせるために、大きめのマグカップに注いだ薄めのコーヒーをゆっくりと飲んでいると、テーブルに置いたスマホが震え始めた。
きっと翔吾くんからだ。
ドキドキしながらスマホを手に取った私は、画面に表示された名前に顔を顰めた。電話をかけてきたのが、翔吾くんではなく母だったから。
母がバイクとの接触事故で腕をケガをしたのは一ヶ月前。事故後しばらくは週末に家事を手伝いに行っていたが、ギブスが外れて以来、母の家には顔を出していない。電話がかかってきたのもひさしぶりだ。
もうケガはよくなっていて、手の不自由もないはずなのに。何の用だろう。
気になったけれど、私は母からの電話をとらなかった。
母が私に電話をかけてくることは滅多にない。そんな母が電話をかけてくるときは、やっかいな頼み事をされることがほとんどで、たいていの場合長電話になる。
翔吾くんがいつ来るかわからない今の状況では、母の長電話に付き合えない。
しばらく無視していると、着信が切れた。
諦めたのかと思ってほっとしていると、数十秒後にまた母から電話がかかってくる。それも無視していたら、着信が切れた数十秒後に三度目の電話がかかってきた。
どうやら母は、私が電話に出るまでしつこく掛けてくるつもりらしい。途切れてはまた鳴り始める母からの着信に、最終的に私が根負けした。
七度目の着信でようやく電話に出ると、通話口で母が啜り泣いていた。
「お母さん……? どうしたの?」
驚いたけれど、母が泣いている理由にはなんとなく予想がついた。
「彼が、別れたいって出て行ったの……。仕事が忙しかったのも出張に行ってたのも、全部ウソ。あの人、私にウソをついて、他の女のところに入り浸ってたみたい……」
涙混じりに語る母の話を聞きながら、やっぱり……と思った。
母が事故に遭って家事の手伝いに行っていたときから、おかしいと思っていたのだ。
山本さんは母が事故に遭った日も仕事を理由に遅くまで帰ってこなかったし、ケガをした母の代わりに家のことを手伝っている様子もなかった。
普通は同棲している恋人が事故に遭ってケガをしたら、少しは相手を気遣うものなのに。私が家事を手伝いに行っているあいだ、母は山本さんから放置されているように見えた。
「史花、お母さん、ひとりになっちゃった……。事故に遭ってからは仕事も休んでるし、これからどうすればいいと思う……?」
お酒でも飲んでいるのか、母の呂律が怪しい。
「史花、うちに帰ってきてよ。お母さん、ひとりじゃやっていけない……。一人暮らしなんてやめて、またお母さんと一緒に暮らそう」
母が、電話口で泣きながら訴えてくる。
恋人との関係がうまくいっているときは、連絡すら寄越さなかったくせに。別れた途端に思い出したように私に擦り寄ってくる母にため息がこぼれた。
母は昔からいつもそうだ。
亡くなった私の実の父以外とは、裏切ったり、裏切られたりの連続でひとりの人と長続きしない。
山本さんとは珍しく三年も続いたから、結婚はしないまでもこのまま事実婚で一緒に暮らしていくのかと思っていたけど。それもダメだったらしい。
泣きじゃくる母の声を聞けば、気の毒だとは思うし同情もするけれど……。一時の情に流されて母のところに戻るのはよくないと、私は経験上知っている。
根っからの恋愛体質の母は、一年もすればどこからか新しい恋人を見つ寝てくるだろうし、そうなれば私に興味を示さなくなる。
「帰らないし、一緒には暮らせないよ」
きっぱりと言うと、母が「わぁーっ」と声を上げて泣いた。
「史花はいつからそんな冷たい子になったの? 独り立ちできるようになるまで、誰が世話してあげたと思ってるの?」
ヒステリックに叫ぶ母の言葉は、やたらと恩着せがましい。
たしかに、幼い頃は母のそばで、裕福ではないにしてもそれなりの生活ができた。
けれど、中学生に上がる頃からは私が食事を作ったり、洗濯や掃除をしていたし、高校生になってからは私がバイトしたお金を母の収入だけでは足りない分の生活費に充てていた。大学だって奨学金を借りて進学して、仕事をしながら少しずつ自分で返済している。母が事故に遭ったときだって、黙って愚痴を聞いて、料理や掃除をかなり手伝った。それなのに、「誰が世話をしたのか」などと言われたくない。
さすがにイラッとしと言葉を返そうとすると、玄関でガチャッと鍵の回る音がした。
翔吾くんだ……。
途端に母に対する苛立ちがスッと引き、背筋が冷える。
「ごめん、今日はもう切るから。また今度ゆっくり話そう」
「ちょっと史花……!」
スマホを耳から離しても母の叫び声が聞こえてきたけれど、もう母に構っている余裕はなかった。通話を切ると、早足で玄関へと急ぐ。
「翔吾くん、いらっしゃい」
インターホンも鳴らさずに合鍵で入ってきた翔吾くんにへらりと笑いかけると、彼が私の手元のスマホに視線を向けてきた。
「電話、誰?」
私の名前を呼ぶでも、愛想笑いを返してくれるわけでもない。私に会った瞬間、翔吾くんが口にしたのは、冷たいひとことだった。
「母からだけど……」
「着歴見せて」
機械的に手を突き出してくる翔吾くんの瞳には温度がなく、ハナから私の言うことなど信じていないみたいだった。
私たちの信頼関係の糸は、もう完全に切れている。そう思ったら、反論するのも面倒になった。
スマホのロックを解除して無言で差し出すと、翔吾くんが無表情で着信履歴をチェックして私に戻してくる。
「本当にお母さんからだったんだ。慌てて切ってたみたいだから、また《アツくん》かと思った」
靴を脱いで家に上がりながら、翔吾くんが唇を歪めて皮肉っぽく笑う。そのまま当たり前みたいにリビングに上がり込んでいく翔吾くんの背中を、私は複雑な気持ちで追いかけた。
「何か飲み物でもいれる?」
食卓の脚にカバンを置く翔吾くんの背中に、おずおずと訊ねると、振り向いた彼が眉間を寄せて目をすがめた。
「飲み物もいいけど、史花はもっと俺に言い訳したほうがいいんじゃない?」
「言い訳?」
「そう。あるでしょ、たくさん」
食卓の椅子を引いてドカッと腰を下ろすと、翔吾くんが頬杖をついて私を見上げてきた。
「先に謝りたいことがあるなら、聞くよ」
私が謝るのが当然。翔吾くんは、そう思っているらしい。
昼休みに、アツくんといるところを見られたのはよくなかった。その理由をすぐに翔吾くんに話さなかったのも、翔吾くんからかけてきた電話を無視したのもダメだった。
だけど、初めから私の不貞を疑って、100%私だけが悪いと思わせてくる翔吾くんのことをなんとなく気持ちが受け入れられない。
「早くなんとか言えば?」
言い訳も謝罪もせずに黙っていると、翔吾くんが不機嫌そうに舌打ちをする。
「昼休みに……、すぐに事情を説明しなかったのは、よくなかったと思う……」
途切れ途切れに、言葉を探しながら話す。
「それだけ?」
はっきりと謝らない私に、翔吾くんはどこか不満そうだった。
「翔吾くんは、私に何をどう謝ってほしいの?」
不機嫌な顔で私に謝罪を求めてくる翔吾くんに、ついそう返すと、私を睨む彼の眼光が鋭くなる。
「あるだろ、謝ること。前に約束したよな、あの人とはもう会わないって」
「約束……、したつもりはない」
「は?」
「約束したつもりはないけど、翔吾くんを怒らせたくないから、アツくんには会わないように気を付けてた」
「だったら、どうして今日は会ってたんだよ」
「一週間前に、アツくんの勤めてる内科クリニックで貧血の検査を受けていて、昼休みに結果を聞きにいってたの。エレベーターで鉢合わせたのは本当に偶然。だけど、アツくんと一緒にいるところを翔吾くんに見られたらと思うと怖くて……。あの場で動けなくなった」
「それは、史花にやましい気持ちがあるからだろ。貧血の検査って言えば、正当な理由であの人に会えると思ったんだ?」
翔吾くんが口端を引き上げて、皮肉っぽくフッと笑う。
私に疑いの目を向け続ける翔吾くんを悲しい気持ちで見つめ返しながら、私たちはもうダメなんだと悟った。
私の気持ちを疑い切っている翔吾くんに、どんな言葉を使って何時間説明したとしても、きっと事実は伝わらない。
私を監視してそばに縛り付けようとする翔吾くんの気持ちは、もはやただの執着で。付き合い始めた頃のように、純粋な気持ちで私を好きでいてくれるわけじゃない。私も、拗れきった今の状態でも関係を続けたいと思えるほど、翔吾くんのことが好きじゃない。
だったら、もう……。
「たしかに、翔吾くんに昼休みに見つからなければ、アツくんの病院で検査を受けたことは黙ってようと思ってたよ。だけど、翔吾くんを裏切るようなことは何もしてない」
「だったら、もっと必死で言い訳しろよ」
「翔吾くんこそ、もっと私のことを信じてよ」
「信じたくても、史花が信用できない言動ばっかりするんだろ」
「そんなに私は信用できない?」
「できるわけないだろ」
翔吾くんの語気が荒くなる。だけど、翔吾くんが声を荒げるほど私の頭は冷静になっていった。
「……だったら、もう別れよう」
穏やかな口調で私がそう告げた瞬間、部屋の中がしんと静かになった。
「それ、本気で言ってる?」
目の前で翔吾くんが、薄く開いた唇をわずかに震わせている。
「本気だよ。このままだと、私も翔吾くんもお互いに苦しいだけだし――」
冷静に言葉を返すと、翔吾くんが勢いよく立ち上がって、手のひらでテーブルをバンッと叩いた。
「こんなふうになったのは、誰のせいだと思ってんだよ!」
翔吾くんの剣幕に驚いて思わず一歩後ずさる。そんな私に二歩で歩み寄ってきた翔吾くんが、私の手首を強くつかんだ。指が肉に食い込むほどの力で両腕を圧迫されて、痛みに表情が歪む。
「痛い……」
小さく訴えかけたけれど、翔吾くんは私の手首を力加減なく締め付けてくる。
「将来も考えて付き合ってたつもりの彼女に、理由もなく結婚渋られたら、ほかに男でもいるんじゃないかって疑っても仕方ないだろ」
「翔吾くん以外に付き合ってる人なんていないよ」
「じゃあ、《アツくん》はどうなんだよ。あの人がいるから、俺の両親に会うことも俺との結婚も渋ってたんだろ。別れたいって言い出したのも、どうせあの人と堂々と会いたいからだろ」
「そうじゃないよ。このまま相手を疑ったり怯えたりしながら付き合い続けても、私たちお互いに幸せになれない」
「それで、史花は俺と別れて《アツくん》と幸せになるつもりなんだ?」
口角を引き上げる翔吾くんの目は完全に座っていて、まともじゃない。それでも、私はきちんと翔吾くんと話をして、彼との関係を終わらせなければいけなかった。
「翔吾くんと別れたいって思ってることと、アツくんの存在は全く関係ないよ」
「黙れ! 俺の前で、他の男の名前なんか口にするな!」
感情的に叫んだ翔吾くんが、私に向かって拳を振り上げる。次の瞬間、左目の下辺りに鈍い衝撃が走った。
身体が後ろによろけて尻餅をつき、すぐにまた、左耳の横に衝撃がくる。
それが、痛みに因るもので、自分が殴られたのだと気付くのにしばらく時間がかかった。いくら怒りに駆られたとはいえ、翔吾くんが私の顔を撲るなんて思っても見なかったから。
床に尻餅をついた状態で茫然としていると、私に馬乗りになっていた翔吾くんが、ハッとしたように自分の手のひらを見つめた。翔吾くんも、衝動的に起こした行動に驚いているのだろう。
顔面蒼白になって、私を殴った右手をブルブルと小刻みに震わせていた。
「違う……。史花、ごめん……」
翔吾くんが唇を震わせながらそう言って、床に尻餅をついた私を助け起こす。それから、震える手で私の左頬に触れると、泣きそうな顔で謝ってきた。
「史花、ごめん。こんなことするつもりじゃなかった……」
茫然と立ち尽くす私の頬を撫でながら、翔吾くんが譫言のように謝罪の言葉を繰り返す。
「ごめん、史花。許して……。もう二度としないから……」
最後は本当に泣き出してしまった翔吾くんが、私の肩に縋るように抱きついてくる。
「ごめん、史花。もう絶対にしない……。だから、俺から離れないで。史花のことが好きなんだ……」
翔吾くんが、強い力で私をぎゅっと抱きしめてくる。
翔吾くんの口から繰り返される「ごめん」と「好きだ」という言葉。それを聞きながら、私は母のことを思い出していた。
二宮さんと離婚したあとに母が付き合った人は、普段は気が弱くて優しいのに、お酒を飲むと手が出るタイプだった。ある夜、お酒を飲んで帰宅した恋人に痣ができるほど殴られた母は、私を連れて恋人から逃げた。
二宮さんの家を出てから一年も経たないうちに急な引っ越しを決めた母に文句を言うと、いつもいい加減な母が、「自分と史花を守るためだから」と妙にキッパリと言い切った。
「史花も覚えときなさい。人を殴って『もうしない』って言う人は、また同じことをするから。『もうしない』って本気で思っている人はそんなこと言わないし、そもそも恋人や家族を殴らない」
私の母は、基本的に男の人に依存してばかりのダメな人だけど……。恋人に暴力を振るわれて即座に逃げたあのときの判断だけは、たぶん賢かったのだと思う。
無抵抗で抱きしめられていると、翔吾くんが殴った私の左頬にキスをしてきた。
「ごめん、史花……」
もう何度目になるかわからない謝罪の言葉を聞きながら不安になった。
私は、翔吾くんから――。彼の執着から逃げ出せるだろうか。
いつ来るのだろうと思うと、帰宅中も家に着いてからも落ち着かず。アツくんに知られたら渋い顔をされるだろうなとは思いつつも、夕飯を食べる気になれなかった。
食事の代わりに口にしたのは、お湯を注ぐだけのドリップコーヒー。心を落ち着かせるために、大きめのマグカップに注いだ薄めのコーヒーをゆっくりと飲んでいると、テーブルに置いたスマホが震え始めた。
きっと翔吾くんからだ。
ドキドキしながらスマホを手に取った私は、画面に表示された名前に顔を顰めた。電話をかけてきたのが、翔吾くんではなく母だったから。
母がバイクとの接触事故で腕をケガをしたのは一ヶ月前。事故後しばらくは週末に家事を手伝いに行っていたが、ギブスが外れて以来、母の家には顔を出していない。電話がかかってきたのもひさしぶりだ。
もうケガはよくなっていて、手の不自由もないはずなのに。何の用だろう。
気になったけれど、私は母からの電話をとらなかった。
母が私に電話をかけてくることは滅多にない。そんな母が電話をかけてくるときは、やっかいな頼み事をされることがほとんどで、たいていの場合長電話になる。
翔吾くんがいつ来るかわからない今の状況では、母の長電話に付き合えない。
しばらく無視していると、着信が切れた。
諦めたのかと思ってほっとしていると、数十秒後にまた母から電話がかかってくる。それも無視していたら、着信が切れた数十秒後に三度目の電話がかかってきた。
どうやら母は、私が電話に出るまでしつこく掛けてくるつもりらしい。途切れてはまた鳴り始める母からの着信に、最終的に私が根負けした。
七度目の着信でようやく電話に出ると、通話口で母が啜り泣いていた。
「お母さん……? どうしたの?」
驚いたけれど、母が泣いている理由にはなんとなく予想がついた。
「彼が、別れたいって出て行ったの……。仕事が忙しかったのも出張に行ってたのも、全部ウソ。あの人、私にウソをついて、他の女のところに入り浸ってたみたい……」
涙混じりに語る母の話を聞きながら、やっぱり……と思った。
母が事故に遭って家事の手伝いに行っていたときから、おかしいと思っていたのだ。
山本さんは母が事故に遭った日も仕事を理由に遅くまで帰ってこなかったし、ケガをした母の代わりに家のことを手伝っている様子もなかった。
普通は同棲している恋人が事故に遭ってケガをしたら、少しは相手を気遣うものなのに。私が家事を手伝いに行っているあいだ、母は山本さんから放置されているように見えた。
「史花、お母さん、ひとりになっちゃった……。事故に遭ってからは仕事も休んでるし、これからどうすればいいと思う……?」
お酒でも飲んでいるのか、母の呂律が怪しい。
「史花、うちに帰ってきてよ。お母さん、ひとりじゃやっていけない……。一人暮らしなんてやめて、またお母さんと一緒に暮らそう」
母が、電話口で泣きながら訴えてくる。
恋人との関係がうまくいっているときは、連絡すら寄越さなかったくせに。別れた途端に思い出したように私に擦り寄ってくる母にため息がこぼれた。
母は昔からいつもそうだ。
亡くなった私の実の父以外とは、裏切ったり、裏切られたりの連続でひとりの人と長続きしない。
山本さんとは珍しく三年も続いたから、結婚はしないまでもこのまま事実婚で一緒に暮らしていくのかと思っていたけど。それもダメだったらしい。
泣きじゃくる母の声を聞けば、気の毒だとは思うし同情もするけれど……。一時の情に流されて母のところに戻るのはよくないと、私は経験上知っている。
根っからの恋愛体質の母は、一年もすればどこからか新しい恋人を見つ寝てくるだろうし、そうなれば私に興味を示さなくなる。
「帰らないし、一緒には暮らせないよ」
きっぱりと言うと、母が「わぁーっ」と声を上げて泣いた。
「史花はいつからそんな冷たい子になったの? 独り立ちできるようになるまで、誰が世話してあげたと思ってるの?」
ヒステリックに叫ぶ母の言葉は、やたらと恩着せがましい。
たしかに、幼い頃は母のそばで、裕福ではないにしてもそれなりの生活ができた。
けれど、中学生に上がる頃からは私が食事を作ったり、洗濯や掃除をしていたし、高校生になってからは私がバイトしたお金を母の収入だけでは足りない分の生活費に充てていた。大学だって奨学金を借りて進学して、仕事をしながら少しずつ自分で返済している。母が事故に遭ったときだって、黙って愚痴を聞いて、料理や掃除をかなり手伝った。それなのに、「誰が世話をしたのか」などと言われたくない。
さすがにイラッとしと言葉を返そうとすると、玄関でガチャッと鍵の回る音がした。
翔吾くんだ……。
途端に母に対する苛立ちがスッと引き、背筋が冷える。
「ごめん、今日はもう切るから。また今度ゆっくり話そう」
「ちょっと史花……!」
スマホを耳から離しても母の叫び声が聞こえてきたけれど、もう母に構っている余裕はなかった。通話を切ると、早足で玄関へと急ぐ。
「翔吾くん、いらっしゃい」
インターホンも鳴らさずに合鍵で入ってきた翔吾くんにへらりと笑いかけると、彼が私の手元のスマホに視線を向けてきた。
「電話、誰?」
私の名前を呼ぶでも、愛想笑いを返してくれるわけでもない。私に会った瞬間、翔吾くんが口にしたのは、冷たいひとことだった。
「母からだけど……」
「着歴見せて」
機械的に手を突き出してくる翔吾くんの瞳には温度がなく、ハナから私の言うことなど信じていないみたいだった。
私たちの信頼関係の糸は、もう完全に切れている。そう思ったら、反論するのも面倒になった。
スマホのロックを解除して無言で差し出すと、翔吾くんが無表情で着信履歴をチェックして私に戻してくる。
「本当にお母さんからだったんだ。慌てて切ってたみたいだから、また《アツくん》かと思った」
靴を脱いで家に上がりながら、翔吾くんが唇を歪めて皮肉っぽく笑う。そのまま当たり前みたいにリビングに上がり込んでいく翔吾くんの背中を、私は複雑な気持ちで追いかけた。
「何か飲み物でもいれる?」
食卓の脚にカバンを置く翔吾くんの背中に、おずおずと訊ねると、振り向いた彼が眉間を寄せて目をすがめた。
「飲み物もいいけど、史花はもっと俺に言い訳したほうがいいんじゃない?」
「言い訳?」
「そう。あるでしょ、たくさん」
食卓の椅子を引いてドカッと腰を下ろすと、翔吾くんが頬杖をついて私を見上げてきた。
「先に謝りたいことがあるなら、聞くよ」
私が謝るのが当然。翔吾くんは、そう思っているらしい。
昼休みに、アツくんといるところを見られたのはよくなかった。その理由をすぐに翔吾くんに話さなかったのも、翔吾くんからかけてきた電話を無視したのもダメだった。
だけど、初めから私の不貞を疑って、100%私だけが悪いと思わせてくる翔吾くんのことをなんとなく気持ちが受け入れられない。
「早くなんとか言えば?」
言い訳も謝罪もせずに黙っていると、翔吾くんが不機嫌そうに舌打ちをする。
「昼休みに……、すぐに事情を説明しなかったのは、よくなかったと思う……」
途切れ途切れに、言葉を探しながら話す。
「それだけ?」
はっきりと謝らない私に、翔吾くんはどこか不満そうだった。
「翔吾くんは、私に何をどう謝ってほしいの?」
不機嫌な顔で私に謝罪を求めてくる翔吾くんに、ついそう返すと、私を睨む彼の眼光が鋭くなる。
「あるだろ、謝ること。前に約束したよな、あの人とはもう会わないって」
「約束……、したつもりはない」
「は?」
「約束したつもりはないけど、翔吾くんを怒らせたくないから、アツくんには会わないように気を付けてた」
「だったら、どうして今日は会ってたんだよ」
「一週間前に、アツくんの勤めてる内科クリニックで貧血の検査を受けていて、昼休みに結果を聞きにいってたの。エレベーターで鉢合わせたのは本当に偶然。だけど、アツくんと一緒にいるところを翔吾くんに見られたらと思うと怖くて……。あの場で動けなくなった」
「それは、史花にやましい気持ちがあるからだろ。貧血の検査って言えば、正当な理由であの人に会えると思ったんだ?」
翔吾くんが口端を引き上げて、皮肉っぽくフッと笑う。
私に疑いの目を向け続ける翔吾くんを悲しい気持ちで見つめ返しながら、私たちはもうダメなんだと悟った。
私の気持ちを疑い切っている翔吾くんに、どんな言葉を使って何時間説明したとしても、きっと事実は伝わらない。
私を監視してそばに縛り付けようとする翔吾くんの気持ちは、もはやただの執着で。付き合い始めた頃のように、純粋な気持ちで私を好きでいてくれるわけじゃない。私も、拗れきった今の状態でも関係を続けたいと思えるほど、翔吾くんのことが好きじゃない。
だったら、もう……。
「たしかに、翔吾くんに昼休みに見つからなければ、アツくんの病院で検査を受けたことは黙ってようと思ってたよ。だけど、翔吾くんを裏切るようなことは何もしてない」
「だったら、もっと必死で言い訳しろよ」
「翔吾くんこそ、もっと私のことを信じてよ」
「信じたくても、史花が信用できない言動ばっかりするんだろ」
「そんなに私は信用できない?」
「できるわけないだろ」
翔吾くんの語気が荒くなる。だけど、翔吾くんが声を荒げるほど私の頭は冷静になっていった。
「……だったら、もう別れよう」
穏やかな口調で私がそう告げた瞬間、部屋の中がしんと静かになった。
「それ、本気で言ってる?」
目の前で翔吾くんが、薄く開いた唇をわずかに震わせている。
「本気だよ。このままだと、私も翔吾くんもお互いに苦しいだけだし――」
冷静に言葉を返すと、翔吾くんが勢いよく立ち上がって、手のひらでテーブルをバンッと叩いた。
「こんなふうになったのは、誰のせいだと思ってんだよ!」
翔吾くんの剣幕に驚いて思わず一歩後ずさる。そんな私に二歩で歩み寄ってきた翔吾くんが、私の手首を強くつかんだ。指が肉に食い込むほどの力で両腕を圧迫されて、痛みに表情が歪む。
「痛い……」
小さく訴えかけたけれど、翔吾くんは私の手首を力加減なく締め付けてくる。
「将来も考えて付き合ってたつもりの彼女に、理由もなく結婚渋られたら、ほかに男でもいるんじゃないかって疑っても仕方ないだろ」
「翔吾くん以外に付き合ってる人なんていないよ」
「じゃあ、《アツくん》はどうなんだよ。あの人がいるから、俺の両親に会うことも俺との結婚も渋ってたんだろ。別れたいって言い出したのも、どうせあの人と堂々と会いたいからだろ」
「そうじゃないよ。このまま相手を疑ったり怯えたりしながら付き合い続けても、私たちお互いに幸せになれない」
「それで、史花は俺と別れて《アツくん》と幸せになるつもりなんだ?」
口角を引き上げる翔吾くんの目は完全に座っていて、まともじゃない。それでも、私はきちんと翔吾くんと話をして、彼との関係を終わらせなければいけなかった。
「翔吾くんと別れたいって思ってることと、アツくんの存在は全く関係ないよ」
「黙れ! 俺の前で、他の男の名前なんか口にするな!」
感情的に叫んだ翔吾くんが、私に向かって拳を振り上げる。次の瞬間、左目の下辺りに鈍い衝撃が走った。
身体が後ろによろけて尻餅をつき、すぐにまた、左耳の横に衝撃がくる。
それが、痛みに因るもので、自分が殴られたのだと気付くのにしばらく時間がかかった。いくら怒りに駆られたとはいえ、翔吾くんが私の顔を撲るなんて思っても見なかったから。
床に尻餅をついた状態で茫然としていると、私に馬乗りになっていた翔吾くんが、ハッとしたように自分の手のひらを見つめた。翔吾くんも、衝動的に起こした行動に驚いているのだろう。
顔面蒼白になって、私を殴った右手をブルブルと小刻みに震わせていた。
「違う……。史花、ごめん……」
翔吾くんが唇を震わせながらそう言って、床に尻餅をついた私を助け起こす。それから、震える手で私の左頬に触れると、泣きそうな顔で謝ってきた。
「史花、ごめん。こんなことするつもりじゃなかった……」
茫然と立ち尽くす私の頬を撫でながら、翔吾くんが譫言のように謝罪の言葉を繰り返す。
「ごめん、史花。許して……。もう二度としないから……」
最後は本当に泣き出してしまった翔吾くんが、私の肩に縋るように抱きついてくる。
「ごめん、史花。もう絶対にしない……。だから、俺から離れないで。史花のことが好きなんだ……」
翔吾くんが、強い力で私をぎゅっと抱きしめてくる。
翔吾くんの口から繰り返される「ごめん」と「好きだ」という言葉。それを聞きながら、私は母のことを思い出していた。
二宮さんと離婚したあとに母が付き合った人は、普段は気が弱くて優しいのに、お酒を飲むと手が出るタイプだった。ある夜、お酒を飲んで帰宅した恋人に痣ができるほど殴られた母は、私を連れて恋人から逃げた。
二宮さんの家を出てから一年も経たないうちに急な引っ越しを決めた母に文句を言うと、いつもいい加減な母が、「自分と史花を守るためだから」と妙にキッパリと言い切った。
「史花も覚えときなさい。人を殴って『もうしない』って言う人は、また同じことをするから。『もうしない』って本気で思っている人はそんなこと言わないし、そもそも恋人や家族を殴らない」
私の母は、基本的に男の人に依存してばかりのダメな人だけど……。恋人に暴力を振るわれて即座に逃げたあのときの判断だけは、たぶん賢かったのだと思う。
無抵抗で抱きしめられていると、翔吾くんが殴った私の左頬にキスをしてきた。
「ごめん、史花……」
もう何度目になるかわからない謝罪の言葉を聞きながら不安になった。
私は、翔吾くんから――。彼の執着から逃げ出せるだろうか。
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