もう一度、重なる手

月ヶ瀬 杏

自覚〈1〉

 アツくんからのラインが届いたのは、翔吾くんとともにホテルのラウンジで会った一週間後だった。

〈この前は、小田くんのこと紹介してくれてありがとう。楽しかったよ。ところで、近々下のカフェで一緒にお昼を食べない? 借りてた本を読み終えたから、返したいんだけど。フミの都合はどうかな?〉

 仕事の昼休みに、オフィスビルの十五階にある休憩スペースでコンビニのサンドイッチを食べていた私は、アツくんへの返答に困った。

〈今日からしばらく、昼休みは仕事の打ち合わせを兼ねて会社の人と一緒にお昼を食べるの。だから、貸した本はしばらくアツくんが持ってていいよ。〉

 五分ほど悩んだ末に、私がアツくんに送ったのはそんなメッセージ。事務の仕事をしている私が打ち合わせを兼ねて会社の人とお昼を食べることなんてまずないけれど、アツくんの誘いを断るのにそれ以上に適当な言い訳を思いつかない。

〈わかった。また時間ができたら連絡ちょうだい。〉

 送ったメッセージに、すぐにアツくんからの返事がくる。

 アツくんからの誘いは嬉しいけれど、私にはもうアツくんのための時間は作れないかもしれない。

 スマホの画面を切ない気持ちで見つめる。口に含んだサンドイッチを飲み込もうとすると、喉の奥が狭くて詰まるような感じがして苦しかった。

 まだ半分ほど残っているサンドイッチを無糖の紅茶で必死に流し込みながら食べていると、スマホにラインの通知が届いた。

 今度のメッセージはアツくんではなくて翔吾くんから。

〈今、昼休みだよな? 何食ってる?〉

 翔吾くんは今、外回りの移動中なのだろうか。仕事中まで私のことを監視するようなラインを送ってくる彼に、うんざりしてしまう。

 だけど無視はできないので、私はひとりでいることがわかるように、休憩スペースのテーブルに置いた無糖紅茶のペットボトルを写真に撮って送った。

〈コンビニのサンドイッチと紅茶。サンドイッチはもう食べちゃった。〉

 写真の下に付け加えると、翔吾くんはそれ以上何も送ってこなかった。

 翔吾くんが仕事の休み時間にまで私の所在を確認するようなラインを送ってくるようになったのは、ホテルのラウンジでアツくんを紹介して以来だ。あれ以来、翔吾くんの私への束縛はそれまで以上に厳しくなった。

 仕事終わりにアポなしで私の家にやってくるのはもはや当たり前だし、来れない夜は私の都合なんてお構いなしにビデオ電話をかけてくる。

 アツくんのことを警戒しているのか、私のことがよほど信頼できないのか。最近の私は、狭い籠に入れられた鳥になった気分だ。自由がなくて、息苦しい。

 スマホで時間を確かめると、昼休みはあと二十分残っていた。カバンの中には、数日前に買った恋愛小説が入っている。お気に入りの作者の本で、発売前から読むのを楽しみにしていた。

 それなのに、購入してカバンに入れたまま、私はまだその本を一ページも捲れていない。

 残りの昼休みで、読書を楽しむ気分にもなれない。

 早めに仕事に戻ろうかな。

 のろのろと立ち上がると、私は休憩スペースを出た。エレベーターで大洋損保のオフィスのある二十階まで降り、すぐ左手にあるドアを押し開ける。

「休憩戻りました――」

 オフィスの中に下向き加減で足を踏み入れたそのとき。

「おかえりなさい。お疲れさまです、後藤さん」

 入り口のカウンターのほうから、よく知っている声が聞こえてきた。ドキッとする、というよりはビクッとして顔をあげると、やっぱりそこには翔吾くんがいて。私に他所行きの爽やかな笑顔を向けてくる。

「あ、お、お疲れさまです……」

 吃りながら返した声が震えた。

 休憩スペースで、翔吾くんからのラインを確認したのが十分ほど前。営業回りでうちの会社に来た翔吾くんは、私がデスクにいないことを確かめたうえでラインを送ってきたのだろうか。

 今日はほんとうに、うちの会社に仕事の用事があってきたの……? それとも、私がアツくんと会っていないか抜き打ちで確認するため……?

 疑いたくはないけれど、笑顔の翔吾くんが何を考えているのかさっぱりわからない。

 私は、家だけではなく職場でも翔吾くんに監視されているってこと……?

 怖い。最近の翔くんは、いくらなんでもやりすぎだ。

 気付けばカバンを持つ手が震えていて。それを抑えるために、私はお腹のあたりで両手をぎゅっと握り合わせた。

「おかえり。史ちゃん。小田くんも史ちゃんも会社ではわざとらしいくらい他人行儀だよね」

 挨拶回りにやってきた翔吾くんの対応をしていた由紀恵さんが、ふふっとからかうように笑う。

「仕事とプライベートとは別なので」

 翔吾くんは由紀恵さんに笑顔を返していたけれど、私は少しも笑えなかった。

「仕事とプライベートとは別」ともっともらしい顔で話すその裏で、翔吾くんは私の仕事とプライベートの両方を監視しているのだから。

「史ちゃん、どうかしたの? 体調でも悪い?」

 翔吾くんの横顔を見つめて立ちすくんでいると、由紀恵さんが不思議そうに首を傾げる。

「いえ。大丈夫です……。暑さのせいかな。私、夏って苦手で……」

 ハハッと笑ってみせたけれど、左目の瞼が細かく痙攣していた。

 そう。暑い季節は苦手なのだ。昔から……。

「体調悪いなら、無理せず言ってね」
「ありがとうございます」

 左のこめかみをそっと押さえながらデスクに向かおうとすると、通りすがりに翔吾くんがボソリとささやく。

「体調大丈夫? 夜、様子見に行くよ」

 優しげな声に、ゾクリと背筋が凍る。振り向くと、翔吾くんが由紀恵さんに気付かれない程度に、ゆるりと口端を引き上げた。

 私を真っ直ぐに捉える翔吾くんの双眸。

 逃れることはできない、と。本能的にそう思った。


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