もう一度、重なる手

月ヶ瀬 杏

不安〈1〉

 アツくんがオフィスビルの一階のカフェに現れたのは、13時を少し過ぎた頃だった。

「フミ、お待たせ。13時までには降りてくるって約束したのに、遅くなっちゃってごめんね。先に食べてくれてよかったのに」

 私が注文したサンドイッチを食べずに待っていたことに気付くと、アツくんが申し訳なさそうに謝ってくる。

「気にしないで。診察が伸びるかもって聞いてたし、大丈夫」

 にこっと笑いかけると、アツくんがテーブルにトレーを置いて私の向かいに座った。アツくんのトレーには、大盛りのカルボナーラとサラダ、アイスコーヒーが載せられている。

「午前の診察の受付は12時までなんだけど、今日は思ったより午前中の患者さんが多くて」
「昼と夜で気温の寒暖差が激しいし、体調崩しちゃう人も多いのかな」
「それもあるかも。ところで、フミはあと何分くらい休憩とれるの?」
「あと、三十分くらいかな」

 テーブルに置いたスマホで時間を確かめながら答えると、「そっか」とアツくんが少し残念そうに眉尻を下げた。

「一緒にいられる時間が予定の半分になっちゃって残念」

 きっと深い意味なんてないんだろうけど、アツくんの発言に思わずドキッとした。

「でも、ほら。今日の目的は、本を渡すことだから」
「そうなの? フミは案外冷たいなあ。俺は楽しみにしてたのに。ひさしぶりにフミと一緒にお昼食べるの」

 トレーに置いてあるフォークに手を伸ばしながら、アツくんがにこにこと笑いかけてくる。

 アツくんから注がれる優しい眼差しをどう受け止めていいのかわからなくて、私は顔を赤くして目を伏せた。

「とりあえず、はい、これ」

 持ってきた文庫本をカバンから取り出してテーブルの上に置くと、アツくんの手がうつむく私の頭をふわりと撫でる。

「ありがとう」

 上目遣いに見た私に優しく微笑みかけてくるアツくんは、未だに私を子ども扱いしている。それはわかっているのに、アツくんに触れられて、私の心臓はドクドクと暴れた。

 アツくんは、私の兄も同然なのに。アツくんに会う度に、私は彼のことを大人の男性として意識してしまう。

 アツくんは私のことを妹としか思っていないはずだし、私には翔吾くんという彼氏がいるのに。

 でも、心の中でこっそりとときめくだけなら……。

 アツくんの手が離れると、私は髪の乱れを治すふりをして、彼に触れられたところをそっと撫でた。

「そういえば、昨日はあのあと大丈夫だった?」
「あのあと?」
「そんな反応するってことは、大丈夫だったのかな」

 ぽかんと首を傾げると、アツくんがフッと目を細めて笑う。

「いや、昨日の夕方に俺と電話してたとき、フミ、来客だからって電話を切ったでしょ。なんか声が慌ててる感じだったから気になって」

 アツくんが気にしているのは、私が翔吾くんの訪問に焦って変な感じで電話を切ったからだ。

「うん、大丈夫。実は昨日、ほんとうは彼氏の実家に挨拶に行く予定にしてたの。だけど、お母さんのことでドタキャンしちゃったから……。彼氏が心配して様子を見に来てくれてて……」

 電話の声ですら私の様子がおかしいことに気付いてしまうアツくんに、ヘタなウソはつけない。そう思ったから、昨日のことを正直に話したら、アツくんが驚いたように目を見開いた。

「そんな大事な日だったんだ。でも、挨拶ってことは……。フミ、今付き合ってる人とそろそろ結婚するの?」

 アツくんに訊ねられて、胸がズキンと息苦しくなった。

「実家に呼ばれたけど、まだ結婚とかそういうのは……」
「でも、フミのことを実家の両親に紹介したいってことは、彼のほうはフミとの結婚を考えてるんじゃない? お互い二十代後半なんだし、その年で将来を考えてもない子を親に紹介しないと思うけど」
「そういうもの……?」
「まあ、俺には今のところそこまで覚悟を決めて付き合ってた人はいなかったから。でも、付き合ってる人を父さんに紹介するときは、結婚を決めたときかなとは思う」
「そっか……」

 アツくんの話を聞いて、私は少し複雑な気持ちでうつむいた。

「前に会ったときにフミが元気がなかったのって、もしかして彼のご両親に会うかどうかで悩んでたから?」

 返答に迷ってから、無言でコクンと頷く。

「実はね、今付き合ってる人には、父を小さい頃に亡くして家族は母だけって言ってるの。アツくんはわかると思うけど、私のお母さんってあんな感じでしょう。お母さんのこれまでの男性遍歴とか、結婚の予定もない人と同棲してることとか、そういう話をすると、彼にも彼のご両親にも引かれるんじゃないかと思って……」
「たしかに全てを正直に話したら驚かれるかもしれないけど、お母さんのこれまでの恋愛遍歴がフミ自身の評価に関わることはないんじゃない?」

 不安の言葉をこぼす私に、アツくんは優しかった。アツくんだってほんとうは、二宮さんのことを裏切った母のことをよく思っていないはずなのに……。

「そうだといいんだけど……」
「ほかにも何か不安があるの?」

 浮かない表情の私に、アツくんがもう一歩踏み込んでくる。それで、つい、翔吾くんには言えない本音が漏れた。

「不安だらけだよ……。私は、小さい頃からパートナーを取っ替え引っ替えしてる母親しか見てきてない。そんな私が、ひとりの人とちゃんと結婚生活を続けていけるのか不安だし、自分がお母さんみたいな人にならないかも心配……」
「フミは大丈夫だよ」
「ううん、大丈夫なんて保証はないよ。私にはお母さんの血が流れてるから。同じようになっちゃうかもしれない……」

 翔吾くんに結婚を仄めかされてから前向きな気持ちになれずにいるのは、その要因が大きい。

 翔吾くんの恋人でいるあいだはなんの不安もなかった。彼と過ごす時間は楽しくて、それなりに幸せだった。

 だけど私は彼の妻になれる自信がないし、彼と一緒にふつうの結婚生活を送っていく自信もない。

 テーブルの上で軽く結んでいた手に、アツくんが手を重ねてくる。アツくんの大きな手に包まれて初めて、私は自分が少し震えていたことに気が付いた。

「アツくん……?」

 伏せていた瞼をあげると、アツくんが私の手をぎゅっと握り返してくれる。

「心配しなくても大丈夫だよ。フミは優しくてちょっとお人好しなところがあるから、お母さんみたいには器用に立ち回れない。フミは、お母さんと同じにはならないよ」

 アツくんの優しい声が私の鼓膜で響く。何の根拠も保証もないのに、耳触りの良いアツくんのテノールで「大丈夫」だと言われたら、ほんとうに大丈夫な気がしてくる。

 昔からアツくんの声にはいつも不思議な力があって、優しい声で慰められると、沈んでいた心がすーっと軽くなるのだ。

 今もアツくんのおかげで、私の心はずいぶんと楽になっている。

 今の私だったら、翔吾くんのご両親と会うことや彼との結婚を前向きに考えていけるかもしれない。

「ありがとう、アツくん」
「どういたしまして。あ、もし彼との結婚が本格的に進むことになったら、ちゃんと俺にも紹介してね」

 アツくんが悪戯っぽく笑いながら「兄として」と付け加える。

 兄として……、か。あたりまえのことなのだけど、なぜかその言葉が少しだけ、私を複雑な気持ちにさせた。


コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品