もう一度、重なる手

月ヶ瀬 杏

味方〈2〉

〈おはよう。11時に史花のマンションまで迎えに行くから。〉

 翔吾くんからそんなラインが届いたのは、彼の両親と会う約束をした日の朝だった。

 翔吾くんからのメッセージに、私は目覚めたそばから憂鬱な気分になっていた。彼の両親と会うことが、ついに避けられない事態になってしまったからだ。

 今日の午後、私たちは翔吾くんの車で埼玉にある彼の実家にお邪魔することになっている。

 12時頃に翔吾くんの家に着くように向かい、ご両親と一緒にお昼を食べる予定だ。

 気を遣わないでいいと言ったのに、翔吾くんの両親は私たちのために、少しいいお店のお寿司をとってくれているらしい。

 私の思い過ごしかもしれないけど、翔吾くんのご両親から近日中の結婚を迫られているようで、なんとなくプレッシャーだ。

 どう足掻いたところで時間になれば翔吾くんが迎えに来るのだから、腹を括るしかないのだけれど。ベッドから起き上がった私の口からこぼれるのはため息ばかりだ。

 午後から大雪にでもなればいいのに……。

 そんなふうに思うけど、今は夏。梅雨も明けて、今日の天気予想は一日をとおして快晴。しかも、最高気温35℃を超える真夏日だ。雪など降ってくるわけがない。

 わたしは深いため息を吐くと、立ち上がってキッチンに向かった。

 苦目のコーヒーでも淹れて、気分転換でもしよう。

 ミル付きのコーヒーメーカーの電源を入れて、カップ一杯分のコーヒーを淹れる。時間をかけてそれを飲み干すと、翔吾くんが迎えに来るまでの残り数時間をどうやって過ごそうかと考えた。

 テレビ台の横の本棚の前に立って、そこに並ぶ本を見つめる。最近買った本は数日前に全て読み終えたから、今は積読本もない。仮にあったとしても、翔吾くんとの約束を控えた今の状況では、どうせ読書に身も入らないだろう。

 今はとりあえず、翔吾くんの両親との食事会のために少しでも体力を温存しておくべきなのかもしれない。

 そんなことを思いつつ、目に付いた一冊の文庫本を本棚から抜き出す。それは最近読み終えたばかりのミステリー小説で、アツくんに貸すと約束している本だった。

 アツくんとは、二週間ほど前に会社のビルの一階のカフェでランチして以来会っていない。

 また偶然会えないかなと思ってランチタイムに何度かカフェに足を運んだけど、休憩時間がズレているのか、他の場所でお昼を食べているのか、アツくんとは会わなかった。

 アツくんは仕事が終わった夜の八時以降によくカフェでコーヒーを飲んでいるみたいだけど、私の退社時間は基本が六時で遅くても七時。

 特別な用事もないのに八時まで待つのは待ち伏せするみたいでよくないような気がして……。

 アツくんに会いたいな、と思う気持ちを自らセーブしてしまう。

 でも、理由があればアツくんに会える。

 それにアツくんに会う約束があれば、翔吾くんのご両親との憂鬱な食事会も、なんとか笑顔で乗り切れるかもしれない。

 文庫本を持ってベッドのそばに無造作に転がるビーズクッションに座ると、私は少し考えてからアツくんにラインを送った。

〈前に貸して欲しいって言ってた本、読み終わったよ。昼休みか仕事終わりに渡したいからアツくんが都合のいいとき教えてね。〉

 送ったメッセージをしばらく眺めてから、スマホの画面をラインからインターネットに切り替える。

 暇つぶしに今月の新刊情報や今月の人気ランキングなどを調べて気になる本をチェックしていると、突然知らない番号から電話がかかってきた。

 休みの日に、誰だろう。

 不思議に思いつつ電話に出ると、スマホの受話口から低い男性の声が聞こえてきた。

「◯◯警察署の者ですが、後藤史花さんの携帯で間違いないでしょうか」
「え、あ、はい……」

 警察という言葉に反応して、全身に緊張が走る。 
 どうして、警察から電話が……? ドキドキしながら強くスマホを握りしめると、警察を名乗る相手がゆっくりと話し始めた。

「実は、後藤さんのお母様の梨花さんが交通事故に遭われまして……」
「え?」

 びっくりして事情を聞くと、家の近くの道を自転車で走っていた母に曲がり角から突然出てきたバイクが接触したとのことだった。自転車に乗っていた母は転倒してしまい、ケガして病院に運ばれたらしい。

 母には同棲している恋人がいるが、その人と籍は入れていない。それで、母の唯一の身内である私に連絡がきたらしかった。

「こちらのほうでお母様のケガの状態についてはっきりとお伝えできないので、病院のほうに出向いていただけますか?」

 もう一度よく確認すると、電話をかけてきてくれたのは母の住む近所の警察所の人で。今回の事故は状況から判断して母のほうに過失はないことを説明され、母がケガをして運ばれたという病院名を伝えられた。

 ケガの状態をはっきりと伝えられないって……。もしかして、母の状態はあまりよくないのだろうか。

 警察からの電話を切ったあと母に電話してみたが、留守電に繋がるだけで応答はなかった。

 もしかして、電話に出られないような大ケガなんじゃ……。事故のことを、同棲している恋人は知っているのだろうか。

 母の今の恋人とは一度だけ顔を合わせたことがあるが、私が彼に関して知っていることと言えば名字が「山本さん」であるということと、母よりいくつか年下であるということだけだ。もちろん、連絡先なんて知らないから、母の事故について知らせようもない。

 とりあえず、私がすぐにでも母が運ばれたという病院に出向くしかないのだろう。

 警察の人に教えてもらった病院は、母の家に近く、うちからは電車で小一時間かかる。そこまでの行き先の経路を頭の中で考えながら、同時に思い浮かべたのは翔吾くんのことだった。

 翔吾くんの実家に伺う約束はどうしよう。

 今から母が運ばれた病院に行けば、彼が迎えに来る11時の約束には間に合わない。遅れて行という選択肢もあるが、もし母の状態が悪ければそのまま病院に留まることになるだろ。

 そうなれば、翔吾くんの実家に二重で迷惑がかかる。

 私はため息を吐くと、少し迷ってから翔吾くんにラインを送った。

〈お母さんがバイクとの接触事故に遭って病院に運ばれたみたい。すぐに行かないといけないから、今日の約束はキャンセルさせてもらえないかな。また別の日程で改めさせて。急でごめんなさい……! ご両親にも謝っておいてください……。〉

 直接電話で断りをいれなかったのは、どんな理由であれ、今日の予定をドタキャンしたら翔吾くんが怒るような気がして怖かったから。

 私が実家に挨拶に行くと約束してからの二週間、翔吾くんはとても機嫌がよかった。私の家にアポ無しでやってきて、浮気の抜き打ち検査をすることもない。

 だから、今日の約束をキャンセルすれば、きっと翔吾くんの機嫌は悪くなる。でも……。母の事故のおかげで、彼の実家への挨拶が引き延ばされたことにほっとする気持ちもあった。

 母のケガの状況もわからないのに、心のどこかで今日の予定をうまく回避できたと思っている自分を酷いと思う。

 私からのメッセージに気付いていないのか、翔吾くんに送ってラインはまだ既読にならない。

 私はスマホビーズクッションとともにベッドのそばに並べてあるローテーブルに置くと、出かける準備を始めるために寝室に戻った。

 翔吾くんの実家に行くためにと思って用意しておいたベージュのワンピースをクローゼットにしまい、普段用のTシャツとマキシ丈スカートを取り出して、のろのろと着替える。頭の中ではできるだけ早く家を出なければと思うのに、なんとなく体が重たかった。

 本来なら、母が交通事故に遭ったと知らされたら、一刻も早く病院に飛んでいくのが娘としての勤めなのだろう。

 母のケガの状態は気になるが、病院に行くために炎天下のなかを最寄りの駅まで歩き、乗り継ぎも含めて一時間は電車に乗らなければならないことが憂鬱にも感じられる。

 こんなことを思うなんて薄情かもしれないけれど、実際のところ私と母はあまり仲の良い親子じゃない。

 私が子どもの頃は優しかった記憶があるけれど、実の父が亡くなってからは母の私への興味は薄くなった。特に新しい恋人ができると、私は母の興味関心の対象から100%外れてしまう。学校行事や週末の約束は何度もすっぽかされたし、その度に悲しい思いや恥ずかしい思いをたくさんしてきた。

 母に全く愛されていないとは思わないけれど、母にあまり必要とされていない自覚はあった。そんな母でも、私にとっては唯一の血縁者だ。だから十四年前の二宮さんと離婚のときも、私は苦渋の決断をして母の手を取ったのに。母のほうは、決して私の手を握り返してくれない。

 二宮さんの家での暮らしでアツくんや二宮さんから家族の温かさを知ってしまったせいか、離婚のあとの母との暮らしにはいつも淋しさや満たされなさが付き纏っていた。

 月日が過ぎるにつれて、母の手を選んだ理由がよくわからなくなった。優しかった二宮さんを裏切って離婚したあとも、交際相手を次々と変えては失敗する母のことを子どもの頃のように純粋に受け入れられなくなった。だから、大学を卒業するときに母の元を離れた。

 ひとり暮らしを始めた私に、母はめったに連絡をよこさない。特に私が社会人になってからは、お金に困ったときなど都合のいいときだけ連絡をしてくるようになった。

 母が事故でケガをしたと聞かされたというのに心の底から心配できないのは、私の母に対する愛情が年齢を重ねるごとに希薄になっているせいかもしれない。

 着替えを済ませたあと、普段よりも簡単なメイクをすると、ベッドのそばにほったらかしてあった小さめのカバンに財布とハンドタオルとティッシュを押し込む。それから最後にローテーブルに置いておいたスマホを入れようとして、着信とラインの通知が何件かあることに気が付いた。

 二件の着信と一件のラインは翔吾くんから。

〈お母さんの状況、大丈夫? また落ち着いたら連絡して〉

 ドタキャンしたことを怒っているかと思ったけど、ラインの文面を見る限り、翔吾くんの反能は冷静だった。理由が理由だから、仕方ないと思ってくれたのだろうか。

 ほっとしてもう一件のメッセージを見ると、アツくんからだった。

〈連絡ありがとう。じゃあ、明日の昼休みにこの前のカフェで一緒にランチでもどう?〉

 そういえば、警察から連絡をもらう前にアツくんにラインを送っていたんだ。数十分前の自分の呑気さが嫌になる。

〈明日は、もしかしたらダメかもしれない。〉

 ため息を吐きながらアツくんにメッセージを返すと、すぐに既読が付いた。

〈なにかあったの?〉
〈お母さんが、バイクに衝突されて病院に運ばれたみたい。〉

 そう返した直後、アツくんから電話がかかってきた。

「もしもしフミ? 大丈夫?」
「わからない。とりあえず、今から病院に行ってみる」
「お母さんの状況も気になるけど、俺が心配してるのはフミのこと」
「え?」

 当然母の状況を訊かれているのだと思っていた私は、アツくんの言葉に驚いた。

「大丈夫? ひとりで病院まで行ける? 俺も付き添おうか?」

 アツくんは、私が母のことで動揺しているのではないかと気にかけてくれたらしい。アツくんの優しい気遣いに、思わず胸がきゅっとなった。

「ありがとう。でも、ひとりで大丈夫だよ。私、お母さんにアツくんと再会したことをまだ話してないから。アツくんのこと見たら、お母さん、ビックリすると思う」
「そうか。じゃあ、せめて病院の前まで車で送ろうか? フミの家の住所教えてくれる?」

 アツくんの言葉に、わずかに心が揺れた。今から炎天下を駅まで歩き、電車で一時間揺られると思ったら、アツくんからの申し出はとても魅力的だ。

 でも……。私と母とのことに、今は無関係なアツくんを巻き込むわけにはいかない。

「ううん、大丈夫。ひとりで行けるよ」
「遠慮しなくてもいいんだよ?」
「遠慮とかじゃないよ。アツくんの家からうちまでは結構距離があるでしょ」

 なんとなくしかわからないけれど、アツくんが今住んでいるらしい街の最寄り駅から私の駅の最寄り駅までは車で二十分くらいかかるのだ。

「そっか。俺の迎えを待つより電車かタクシーに乗ってしまったほうが早いね」
「うん。でも、電話かけてきてくれてありがとう。出かける前にアツくんの声が聞けて、少し気持ちが落ち着いた」
「それならよかった。もし何かあったら、いつでも駆け付けるから。すぐに連絡してね」

 心強いアツくんの言葉のおかげで、憂鬱だった気持ちが和らぐ。

「ありがとう」

 アツくんとの通話を切ると、私は病院へと向かった。

◇◇◇

「この手じゃ、本当に不自由だわ」

 病院から自宅に連れ帰ってからの母は、右肘から手首にかけて巻かれたギブスを見つめてことあるごとにため息を吐いていた。

「しばらくは仕方ないね。山本さん、今日は早く帰って来てくれそう?」

 冷蔵庫から取り出した麦茶をグラスに注ぎながら訊ねると、母は眉を寄せて少し渋い顔をした。

「連絡はしたんだけど、今日は残業だって。この頃、忙しいみたいで毎日帰ってくる時間が遅いの」
「ふーん」

 私は母の恋人の山本さんが何の仕事をしている人なのか詳しくは知らない。だが、同棲している恋人が事故に遭った日くらい仕事を早く切り上げて帰って来てくれてもいいのにと思う。

「買い物やご飯の準備はどうしようかしら。自転車で買い物に行く途中に事故に遭ったから、冷蔵庫の中が空っぽなのよね」

 ギブスを眺めながら、母がぶつぶつと文句を言っている。さっき麦茶を入れるために冷蔵庫を開けたが、母の言うとおり、その中にはろくな食材が入っていなかった。

 山本さんの仕事が忙しくて家事の協力を得られないのだとしたら、母はケガが治るまでの数週間どうやって生活するつもりなのだろう。

「ねえ、史花。今日はお母さんの代わりに買い物行って、夕飯の準備してくれない?」

 ぼんやり考えていると、母が突然私のほうを見てにこっと笑いかけてきた。

「え、私が?」
「だってこの手じゃ何もできそうにないし。いつ帰ってくるかわからない彼に買い物も頼めないでしょう。どうせなら、しばらく史花がごはんの用意や掃除の世話をしにきてよ」
「何言ってるの。私だって仕事があるんだけど」
「だったら、しばらくうちから通えば? そうすれば、お母さんも助かるし」

 にこにこと悪びれもなく笑いながら勝手なことを言う母に、少しムッとした。

「勝手に決めないでよ。ここからじゃ、通勤も遠いのに」

 それに、母が恋人と同棲している家に、一緒に住むなんてごめんだ。たとえ一ヶ月の期間限定でも。
 むすっとした顔で答えると、母の笑顔が歪む。

「遠いっていったって、たった一ヶ月我慢すればいいだけでしょ。それくらいやってくれたっていいじゃない。だってほら、この手じゃお風呂に入るのだって不便なのよ。わかるでしょ」

 ギブスを巻いた右腕を前に押し出すように強調してくる母に、私は顔を引き攣らせた。

 母の右腕には大げさなほどにしっかりとギブスが巻かれているが、実際には見た目ほど重症ではない。

 バイクにぶつかられて自転車から落ちた母は道路に右腕を強打したらしいのだが、幸いにもひびが入る程度のケガで済んだ。

 頭の中で命に関わる最悪の事態も想定しながら病院に行くと、母はけろっとした顔で「あら、どうしたの?」なんて言ってきて。すっかり拍子抜けした。

「家を出て行ってから、史花は本当に冷たくなっちゃったわよね。昔はお母さんの頼みはなんでも聞いてくれて、かわいかったのに」

 昔はなんて……。いったい、いつの話をしているのだろう。

 昔の私が従順だったのだとしたら、それはたぶん、子どもの自分が母に見捨てられたら生きていけないということを本能的に知っていたから。でも、今の私は違う。自分の足でしっかり立てる。

「はぁー。明日から、どうしようかしら。彼のごはんも作らなきゃいけないのに……」

 山本さんだって大人なんだから、母が手の不自由な一ヶ月くらい、自分の食事は自分でなんとかできるだろう。

 母だって、私ではなく山本さんにもっといろいろ頼ればいいのだ。一緒に暮らしているんだから。

 母の止まらない愚痴に、ため息がこぼれる。

「わかった。今日は買い物して、なにか作り置きしていく。でも、この家から通勤はしないし、毎日手伝いにも来れない。週末にだけ様子を見にくるから、あとは山本さんとふたりでなんとかして」

 終わりそうにない母の愚痴にうんざりとした私は、仕方なく妥協案をつきつけた。

「週末にしか手伝いに来てくれないの?」
「買い物行ってくる」

 母は不満そうだったが、私がカバンを持って立ち上がるとそれ以上は文句を言ってこなかった。


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