もう一度、重なる手
味方〈1〉
翌日の昼休み。私はなんとなく浮かない気持ちで、オフィスビルの一階にあるカフェに入った。
普段なら午後からの仕事に備えてちゃんと昼ごはんを食べるところだが、サンドイッチやパスタなどのカフェメニューを見てもあまり食欲が湧いてこない。だからといって、ほかに食べたいものがあるわけでもない。
私はホットのロイヤルミルクティーを頼むと、入口付近のテーブルに腰を落ち着けた。
熱々のミルクティーのカップに口をつけて少し啜ると、カバンの中から読みかけの文庫本を開く。昨日、読み終わったらアツくんに貸すという約束をしたミステリー小説だ。結末までは、あと少し。一時間もあれば読んでしまえそうな分量だったが、そこに書かれた文章の内容がひとつも頭に入ってこない。
こういうときはたぶん、読むべきじゃない。
文庫本を閉じてテーブルの上に置くと、私はまた少しミルクティーを啜った。
朝から何にも乗り気になれない理由は、自分でもなんとなくわかっている。
翔吾くんの両親と会う。
昨日の夜に翔吾くんと交わした約束のせいで、憂鬱な気分になっているのだ。
昨夜、私の家に泊まって、うちから出勤していった翔吾は、私とは反対に朝から機嫌がよかった。彼の両親と会うことに対して、私がやっと前向きな返事をしたから嬉しかったのだろう。
同じベッドの中で目覚めた私に、朝からシャワーのようなキスを浴びせてきた。翔吾くんが喜んでくれている。それがわかりすぎるほど伝わってくるのに、私の気持ちは悲しいくらいに翔吾くんの気持ちに比例していない。
ミルクティーをまた一口啜ったとき、テーブルの上に置いていたスマホが震える。翔吾くんから、ラインがきていた。
〈来週の日曜日、うちの両親も史花に会えるのを楽しみにしてるって。〉
翔吾くんからのメッセージに、さらに気分が沈み、ため息がこぼれる。そのとき、「フミ」とふいに名前を呼ばれた。その呼び方で、アツくんだとすぐにわかる。十四年も会わずにいたのに、アツくんの声は私の耳によく馴染むのだ。
「休憩に出ようとしたら、入口からフミの姿が見えたから。今からお昼なら、一緒にいい?」
「もちろん」
これまで同じビルで働いていても全く会えなかったのに。一度の偶然が、二度目の偶然を呼び寄せてくれたらしい。
次に会えるのは、本を貸すときかなと思っていたから、翔吾くんのことで沈んでいた気持ちが少しだけ浮上した。
「食べるもの注文してくるから、ちょっと待ってて。というか、フミの昼ごはん、それだけ?」
ミルクティーしか注文していない私を見下ろしてアツくんが顔を顰める。
「あ、うん。最近暑くなってきたからかな。特に今日はあんまり食欲なくて」
暑いのは苦手だ。特に、湿度を多く含んだ咽せ返るような夏の暑さは。
ハハッと誤魔化すように笑うと、アツくんが眉根を寄せたまま腕を組んだ。
「そういえば、フミは暑いときはアイスばっかり食べてたな。ムリして食べろとは言わないけど、何も食べないのもダメだよ」
「わかってる。普段はちゃんと食べてるよ。それよりアツくん、注文するなら早く行って来て」
「フミの分もなにか食べられそうなもの買ってこようか?」
「大丈夫だよ。自分のだけ買ってきて。早くしないと、私の昼休みが終わっちゃうよ」
私はもう小学生じゃないのに……。アツくんの心配性で世話焼きなところは昔と変わってない。
心配されて嬉しい気持ちと少し恥ずかしい気持ち。その両方に頬を染めながら、私はアツくんの背中をレジの方にグイグイ押した。
「わかった、わかった。すぐ買ってくるから」
クスリと笑うと、アツくんが私のことを宥めるようにポンポンッと頭を撫でてくる。
「アツくん、人前で恥ずかしいよ。私、もう子どもじゃないのに」
「あぁ、ごめん、ごめん。すぐ戻る」
アツくんが、スッと優しく目を細めて私の頭から手を退ける。そのまなざしに、私は自然と心音が速くなるのを感じた。
子どもの頃は、アツくんに頭を撫でてもらうと純粋に嬉しくて仕方がなかった。それが、大人になった今はなんだか私を落ち着かない気分にさせる。
気持ちを落ち着かせるために、ミルクティーをそろそろとゆっくり啜っていると、しばらくしてアツくんが戻ってきた。
トレーに乗っているのは、大盛りのチキンカツカレーとサラダとアイスコーヒー。
「アツくん、結構ガッツリだね」
細身の体のどこに入るんだろうというくらいボリューム満点なお昼ごはんを見て目を瞬いていると、アツくんがスプーンに巻かれていた紙ナプキンを外しながら笑った。
「そう? 一人暮らしで、朝は適当だから。昼になるとすごく腹が減るんだよね」
そう言って、カレーにかぶりつくアツくんは、もう三十を超えているのに食べ盛りの学生みたいだ。
イケメンなくせに、気持ちの良いくらいの食べっぷりを見せるアツくんのことを眺めていると、視線に気付いた彼が手を止める。
「フミもひとくちいる?」
私が物欲しそうに見えたのか、アツくんがカレーを掬ったスプーンをこちらに向けて首を傾げた。
「う、ううん。いい、いい……!」
今にも「あーん」と私の口元にスプーンを持ってきそうな勢いのアツくんを、全力で止める。
いちおう、ここは会社の入っているオフィスビルの中のカフェだし。誰に見られるともわからない。
十四年ぶりに会ったにも関わらず、こんなことを自然とやってのけるアツくんにとって、私はきっと今も庇護の対象なのだ。
だけど私だってもう大人なんだし。アツくんに世話してもらわなくても大丈夫だってことを知ってもらわないと。
「そう?」
恥ずかしさで頬を熱らせながらブンブンと首を左右に振ると、そんな私を不思議そうに眺めながら、アツくんがこちらに向けていたスプーンを自分の口に運ぶ。
「ところでさ」
ミルクティーのカップを両手で包んで持ち上げ、火照りのおさまらない頬を隠していると、アツくんがアイスコーヒーのグラスに手を伸ばした。
「なんだか元気がないみたいだったけど、何か悩み事?」
「え?」
不意打ちの質問にドキッとする。動揺を隠しきれない私の顔を、アツくんがアイスコーヒーを飲みながら上目遣いにジッと見てきた。
「なにか困ってることがあるなら聞くよ」
「別に、困ってることなんてないよ」
「そう? でも気付いてる? 昔からフミは、なにか困ったことが起きると手元の本に集中できなくなるんだよ。この本、昼休みに続きを読む予定だったのに、考え事に邪魔されて読めないんでしょ」
「どうして……」
まさに、アツくんの指摘されたとおりだったから驚いてしまう。
そういえばアツくんは、私が嫌なことや心配なことがあって落ち込んでいると、誰よりも先に気付いてくれていた。あの頃は、一緒に暮らしていたから私の感情の機微にも気付きやすかったのだと思うけど。何年も離れていたのに、私の気持ちに気付いてしまうアツくんは人の心でも読めるのだろうか。
「俺にはあまり話したくないこと?」
困ってうつむくと、アツくんが優しい声で訊ねてくる。
「そういうわけじゃないけど、私の個人的な問題だから……」
「そっか。フミももう子どもじゃないし、ひとりで考えたい悩み事もあるよね」
顔をあげると、アツくんが淋しそうな目をして微笑んだ。アツくんにそんな顔をさせてしまったことに、なぜか少し罪悪感を感じてしまう。
「ごめん……」
つい謝ると、アツくんが首を傾げながらわたしの頭をぽんっと優しく撫でてきた。
「なんで謝るの? 別にいいんだよ、そんなの。あ、そういえばさ。昨日、フミに再会したことを父さんに話したら、すごく驚いて羨ましがってたよ」
アツくんが私の頭から手を離しながら、話題を変える。
「父さんも、またフミに会いたいって。父さん、フミのこと本当の娘みたいに可愛がってたからなぁ」
アツくんのことだから、敢えてさりげなく話題を変えてくれたんだろう。その気遣いに、ほっとした。
いくらアツくんがほんとうのお兄さんみたいな存在でも、「付き合っている彼氏の両親と会うことが決まって気が重い」なんてことまでは話せない。
「私も二宮さんに会いたいな。時間があるときに会いましょうって伝えといて。土日はだいたい空いてるから」
「伝えとく。父さんも喜ぶよ」
翔吾くんに週末の予定を聞かれたときは忙しいと散々渋ったくせに、相手がアツくんだとスケジュールが簡単に空けられるなんて。そういうのはずるいだろうか。
でも、アツくんも二宮さんも私にとっては家族みたいなものだから。自然と優先度が高くなっても仕方がない。
アツくんが大盛りのチキンカツカレーを平らげるまでの二十分間、私たちは他愛のないことをたくさん話した。
「私、そろそろ戻らなきゃ」
先にカフェで休憩をとっていた私が、アツくんよりも先に立ち上がる。
「じゃあね」
カバンを肩にかけて、ミルクティーのカップを返却口に持って行こうとすると、「フミ」とアツくんが呼び止めてきた。
「本、忘れてるよ」
アツくんとの話に夢中になって、テーブルの上に置いた文庫本のことをすっかり忘れていた。
慌てて取りに戻ると、アツくんが「はい」と文庫本を差し出してくる。
「ありがとう」
それを受け取ろうとすると、アツくんが本をつかむ手に力を入れた。
「アツくん?」
まるで本を渡すことを拒むような態度に首を傾げると、アツくんが「フミ」と呼ぶ。
「昨日はこの本をフミに会うための口実にしようとしたけど、やっぱり訂正」
「え……?」
「口実なんていらないから、何かあったらいつでも相談して。俺は今も昔も、絶対にフミの味方だから」
別れ際に急にそんなこと言い出すなんて、どうしたんだろう。
「わかった?」
優しいけれど、有無を言わせない声音で念を押されて、流されるままにコクンと頷く。
具体的なことは訊いてこなかったけど、アツくんは悩み事をしていた私のことを心配してくれているんだろう。
翔吾くんとのことは話せないけど、「絶対にフミの味方だ」というアツくんの言葉が嬉しい。
「ありがとう、アツくん。ほんとうに困ったことが起きたら、そのときはちゃんと話す」
「約束だよ?」
「うん、約束」
もう一度しっかりと頷くと、アツくんがようやく文庫本から手を離してくれた。
普段なら午後からの仕事に備えてちゃんと昼ごはんを食べるところだが、サンドイッチやパスタなどのカフェメニューを見てもあまり食欲が湧いてこない。だからといって、ほかに食べたいものがあるわけでもない。
私はホットのロイヤルミルクティーを頼むと、入口付近のテーブルに腰を落ち着けた。
熱々のミルクティーのカップに口をつけて少し啜ると、カバンの中から読みかけの文庫本を開く。昨日、読み終わったらアツくんに貸すという約束をしたミステリー小説だ。結末までは、あと少し。一時間もあれば読んでしまえそうな分量だったが、そこに書かれた文章の内容がひとつも頭に入ってこない。
こういうときはたぶん、読むべきじゃない。
文庫本を閉じてテーブルの上に置くと、私はまた少しミルクティーを啜った。
朝から何にも乗り気になれない理由は、自分でもなんとなくわかっている。
翔吾くんの両親と会う。
昨日の夜に翔吾くんと交わした約束のせいで、憂鬱な気分になっているのだ。
昨夜、私の家に泊まって、うちから出勤していった翔吾は、私とは反対に朝から機嫌がよかった。彼の両親と会うことに対して、私がやっと前向きな返事をしたから嬉しかったのだろう。
同じベッドの中で目覚めた私に、朝からシャワーのようなキスを浴びせてきた。翔吾くんが喜んでくれている。それがわかりすぎるほど伝わってくるのに、私の気持ちは悲しいくらいに翔吾くんの気持ちに比例していない。
ミルクティーをまた一口啜ったとき、テーブルの上に置いていたスマホが震える。翔吾くんから、ラインがきていた。
〈来週の日曜日、うちの両親も史花に会えるのを楽しみにしてるって。〉
翔吾くんからのメッセージに、さらに気分が沈み、ため息がこぼれる。そのとき、「フミ」とふいに名前を呼ばれた。その呼び方で、アツくんだとすぐにわかる。十四年も会わずにいたのに、アツくんの声は私の耳によく馴染むのだ。
「休憩に出ようとしたら、入口からフミの姿が見えたから。今からお昼なら、一緒にいい?」
「もちろん」
これまで同じビルで働いていても全く会えなかったのに。一度の偶然が、二度目の偶然を呼び寄せてくれたらしい。
次に会えるのは、本を貸すときかなと思っていたから、翔吾くんのことで沈んでいた気持ちが少しだけ浮上した。
「食べるもの注文してくるから、ちょっと待ってて。というか、フミの昼ごはん、それだけ?」
ミルクティーしか注文していない私を見下ろしてアツくんが顔を顰める。
「あ、うん。最近暑くなってきたからかな。特に今日はあんまり食欲なくて」
暑いのは苦手だ。特に、湿度を多く含んだ咽せ返るような夏の暑さは。
ハハッと誤魔化すように笑うと、アツくんが眉根を寄せたまま腕を組んだ。
「そういえば、フミは暑いときはアイスばっかり食べてたな。ムリして食べろとは言わないけど、何も食べないのもダメだよ」
「わかってる。普段はちゃんと食べてるよ。それよりアツくん、注文するなら早く行って来て」
「フミの分もなにか食べられそうなもの買ってこようか?」
「大丈夫だよ。自分のだけ買ってきて。早くしないと、私の昼休みが終わっちゃうよ」
私はもう小学生じゃないのに……。アツくんの心配性で世話焼きなところは昔と変わってない。
心配されて嬉しい気持ちと少し恥ずかしい気持ち。その両方に頬を染めながら、私はアツくんの背中をレジの方にグイグイ押した。
「わかった、わかった。すぐ買ってくるから」
クスリと笑うと、アツくんが私のことを宥めるようにポンポンッと頭を撫でてくる。
「アツくん、人前で恥ずかしいよ。私、もう子どもじゃないのに」
「あぁ、ごめん、ごめん。すぐ戻る」
アツくんが、スッと優しく目を細めて私の頭から手を退ける。そのまなざしに、私は自然と心音が速くなるのを感じた。
子どもの頃は、アツくんに頭を撫でてもらうと純粋に嬉しくて仕方がなかった。それが、大人になった今はなんだか私を落ち着かない気分にさせる。
気持ちを落ち着かせるために、ミルクティーをそろそろとゆっくり啜っていると、しばらくしてアツくんが戻ってきた。
トレーに乗っているのは、大盛りのチキンカツカレーとサラダとアイスコーヒー。
「アツくん、結構ガッツリだね」
細身の体のどこに入るんだろうというくらいボリューム満点なお昼ごはんを見て目を瞬いていると、アツくんがスプーンに巻かれていた紙ナプキンを外しながら笑った。
「そう? 一人暮らしで、朝は適当だから。昼になるとすごく腹が減るんだよね」
そう言って、カレーにかぶりつくアツくんは、もう三十を超えているのに食べ盛りの学生みたいだ。
イケメンなくせに、気持ちの良いくらいの食べっぷりを見せるアツくんのことを眺めていると、視線に気付いた彼が手を止める。
「フミもひとくちいる?」
私が物欲しそうに見えたのか、アツくんがカレーを掬ったスプーンをこちらに向けて首を傾げた。
「う、ううん。いい、いい……!」
今にも「あーん」と私の口元にスプーンを持ってきそうな勢いのアツくんを、全力で止める。
いちおう、ここは会社の入っているオフィスビルの中のカフェだし。誰に見られるともわからない。
十四年ぶりに会ったにも関わらず、こんなことを自然とやってのけるアツくんにとって、私はきっと今も庇護の対象なのだ。
だけど私だってもう大人なんだし。アツくんに世話してもらわなくても大丈夫だってことを知ってもらわないと。
「そう?」
恥ずかしさで頬を熱らせながらブンブンと首を左右に振ると、そんな私を不思議そうに眺めながら、アツくんがこちらに向けていたスプーンを自分の口に運ぶ。
「ところでさ」
ミルクティーのカップを両手で包んで持ち上げ、火照りのおさまらない頬を隠していると、アツくんがアイスコーヒーのグラスに手を伸ばした。
「なんだか元気がないみたいだったけど、何か悩み事?」
「え?」
不意打ちの質問にドキッとする。動揺を隠しきれない私の顔を、アツくんがアイスコーヒーを飲みながら上目遣いにジッと見てきた。
「なにか困ってることがあるなら聞くよ」
「別に、困ってることなんてないよ」
「そう? でも気付いてる? 昔からフミは、なにか困ったことが起きると手元の本に集中できなくなるんだよ。この本、昼休みに続きを読む予定だったのに、考え事に邪魔されて読めないんでしょ」
「どうして……」
まさに、アツくんの指摘されたとおりだったから驚いてしまう。
そういえばアツくんは、私が嫌なことや心配なことがあって落ち込んでいると、誰よりも先に気付いてくれていた。あの頃は、一緒に暮らしていたから私の感情の機微にも気付きやすかったのだと思うけど。何年も離れていたのに、私の気持ちに気付いてしまうアツくんは人の心でも読めるのだろうか。
「俺にはあまり話したくないこと?」
困ってうつむくと、アツくんが優しい声で訊ねてくる。
「そういうわけじゃないけど、私の個人的な問題だから……」
「そっか。フミももう子どもじゃないし、ひとりで考えたい悩み事もあるよね」
顔をあげると、アツくんが淋しそうな目をして微笑んだ。アツくんにそんな顔をさせてしまったことに、なぜか少し罪悪感を感じてしまう。
「ごめん……」
つい謝ると、アツくんが首を傾げながらわたしの頭をぽんっと優しく撫でてきた。
「なんで謝るの? 別にいいんだよ、そんなの。あ、そういえばさ。昨日、フミに再会したことを父さんに話したら、すごく驚いて羨ましがってたよ」
アツくんが私の頭から手を離しながら、話題を変える。
「父さんも、またフミに会いたいって。父さん、フミのこと本当の娘みたいに可愛がってたからなぁ」
アツくんのことだから、敢えてさりげなく話題を変えてくれたんだろう。その気遣いに、ほっとした。
いくらアツくんがほんとうのお兄さんみたいな存在でも、「付き合っている彼氏の両親と会うことが決まって気が重い」なんてことまでは話せない。
「私も二宮さんに会いたいな。時間があるときに会いましょうって伝えといて。土日はだいたい空いてるから」
「伝えとく。父さんも喜ぶよ」
翔吾くんに週末の予定を聞かれたときは忙しいと散々渋ったくせに、相手がアツくんだとスケジュールが簡単に空けられるなんて。そういうのはずるいだろうか。
でも、アツくんも二宮さんも私にとっては家族みたいなものだから。自然と優先度が高くなっても仕方がない。
アツくんが大盛りのチキンカツカレーを平らげるまでの二十分間、私たちは他愛のないことをたくさん話した。
「私、そろそろ戻らなきゃ」
先にカフェで休憩をとっていた私が、アツくんよりも先に立ち上がる。
「じゃあね」
カバンを肩にかけて、ミルクティーのカップを返却口に持って行こうとすると、「フミ」とアツくんが呼び止めてきた。
「本、忘れてるよ」
アツくんとの話に夢中になって、テーブルの上に置いた文庫本のことをすっかり忘れていた。
慌てて取りに戻ると、アツくんが「はい」と文庫本を差し出してくる。
「ありがとう」
それを受け取ろうとすると、アツくんが本をつかむ手に力を入れた。
「アツくん?」
まるで本を渡すことを拒むような態度に首を傾げると、アツくんが「フミ」と呼ぶ。
「昨日はこの本をフミに会うための口実にしようとしたけど、やっぱり訂正」
「え……?」
「口実なんていらないから、何かあったらいつでも相談して。俺は今も昔も、絶対にフミの味方だから」
別れ際に急にそんなこと言い出すなんて、どうしたんだろう。
「わかった?」
優しいけれど、有無を言わせない声音で念を押されて、流されるままにコクンと頷く。
具体的なことは訊いてこなかったけど、アツくんは悩み事をしていた私のことを心配してくれているんだろう。
翔吾くんとのことは話せないけど、「絶対にフミの味方だ」というアツくんの言葉が嬉しい。
「ありがとう、アツくん。ほんとうに困ったことが起きたら、そのときはちゃんと話す」
「約束だよ?」
「うん、約束」
もう一度しっかりと頷くと、アツくんがようやく文庫本から手を離してくれた。
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