もう一度、重なる手
再会〈3〉
普段の帰宅よりもだいぶ遅い時間に自宅マンションまで帰り着いた私は、アツくんと過ごした時間の余韻に浸りながら、上機嫌で家のカギを差し込んでドアノブを捻った。
今日はいい夢を見ながら、ぐっすりと眠れそうだ。そんなふうに思っていたのに、開いたドアの先で灯っている部屋の明かりと、玄関に揃えられた男性用の革靴を目にした瞬間、一気に身体の熱が冷めた。
今夜もまた、小田翔吾がうちに来ている。それも、アポなしで。
翔吾くんは、三つ年上の私の恋人だ。私が勤めている大洋損保河お世話になっている広告会社の担当者で、仕事でやってきた翔吾くんに事務員として何度か対応しているうちに親しくなり、連絡先を渡されて食事に誘われた。
アツくんに話した、一年ほど付き合っている彼氏というのは翔吾くんのことだ。
明るくて社交的な翔吾くんにどこか引っ張られるようにして始まった私達の交際は、世間一般的には順調なのだと思う。
先月がちょうど、私達が付き合い始めて一周年の記念日で。夜景と海の見えるレストランでふたりでお祝いをしたときに、翔吾くんに言われた。
「今度、史花のことを両親に紹介したいと思ってる」
翔吾くんは「結婚」という言葉をはっきり口に出したわけではなかったけれど、あれは実質プロポーズだったのだろうと、私は思っている。
翔吾くんは、自分の両親に私を紹介したあと、私の母のところにも挨拶に行きたいと言ってきた。
私が二十四歳、翔吾くんが二十七歳。結婚を意識して付き合っていてもいい年頃なのに、私は翔吾くんから「両親に紹介したい」と言われて初めて、彼と結婚というものを意識して付き合ってこなかったことに気が付いた。
翔吾くんのことはもちろん好きだし、長くお付き合いができればいいとは思っていたけれど、そこに急に結婚という現実が現れたときに、いまいちピンとこなかった。
それは、私の母が、結婚とか家庭とか家族とか、そういうものとあまり縁のない人だったからかもしれない。
もちろん、母にも私の実の父や二宮さんと結婚生活を送っていた期間があった。だけど私は、誰かの妻として結婚生活を送る母よりも、恋人を絶えず入れ換えてひとりの女として奔放に生きてきた母を見ていた期間のほうが長い。
そんな母に、翔吾くんのことを紹介するのは少し不安があった。それに、私も結婚生活をうまく送ることができずに母のようになってしまったら……。
わずかではあるが、絶対にないとは言えないその可能性を考えたら、私との結婚を考えてくれているらしい翔吾くんとの交際に迷いが生じた。
私はこのまま、翔吾くんの両親に会っていいのだろうか。
再婚の予定もない彼氏と同棲している母を、翔吾くんに会わせていいのだろうか。翔吾くんは、男の人にだらしない母を見て引いてしまわないだろうか。
頭で先回りしていろいろと考えてしまい、私は「両親に紹介したい」と言ってくれた翔吾くんの話を曖昧な態度で誤魔化した。
だけど、たぶんそれがよくなかった。
翔吾くんはきっと、私が彼との結婚を渋っているのだと思っていて。その一因として、私に他の男がいるのでは……と疑っているようなのだ。
もちろん、私には翔吾くんのほかに付き合っている人なんていない。やましいことは何もない。
だけど、私の浮気を心配して疑心暗鬼になっている彼は、一ヶ月前からこんなふうに、合鍵を使ってアポなしで私の家にやってくる。まるで、抜き打ち検査でもするみたいに。
私は小さく息を吐くと、なんとか憂鬱な気持ちを胸から押し退けた。暗い表情や煩わしげな顔を見せれば、きっと翔吾くんは余計に私のことを疑う。
だからいつもどおり。靴を脱ぎながら、部屋の奥の翔吾くんに呼びかけた。
「ただいまー。翔吾くん、来てたんだ」
ゆっくりと廊下を歩いていくと、リビングのドアのところで慌てて飛び出してきた翔吾くんとぶつかりそうになる。
「おかえり、史花」
少し目尻の上がった翔吾くんの二重の目。その双眸は、あるはずもない私の隠し事を突き止めようと鋭い光を放っていて。ほんの少し怖かった。
けれど、下手に怯えた様子を見せれば、翔吾くんに余計に疑いをもたれてしまう。それがわかっているから、私は鈍感なフリをして彼に微笑みかけた。
「来るなら連絡くれたらよかったのに。ごはんはもう食べた? 簡単なものでよければ何か作ろうか」
リビングのドアの前に立ちはだかる翔吾くんを躱してキッチンに進もうとすると、彼が私の手首をつかんで引き留める。そのまま背中から抱き込むように引き寄せられて、思わず肩がビクリと震えてしまった。
「どうしたの?」
胸の前で交差した翔吾くんの両腕。そこにそっと手のひらで触れると、彼が私の肩口に頭を寄せてきた。
「早く仕事が終わったから、会いたくて。史花はずいぶんと帰りが遅かったんだな。どこか寄ってきたの?」
耳元で聞こえた翔吾くんの探るような声に、答えを一瞬躊躇った。
適当に残業だったと答えておけばいいのかもしれないけれど、万が一にもウソだとバレたら……。
「うん。同僚の人に誘われて、仕事帰りに会社のビルの下のカフェでお茶してたの」
会社の下のカフェでお茶をしたのはほんとう。だけど、お茶した相手が同僚だということはウソ。
アツくんのことや彼との関係を説明し始めたら時間がかかるうえに面倒なことになりそう。そう思ったから、翔吾くんに中途半端なウソをついた。
「同僚って、史花と同じ部署の?」
「そうだよ。由紀恵さん」
私がすぐに同じ部署で仲良くしてもらっている先輩の名前を出すと、翔吾くんも納得したらしい。
「そう」とつぶやいて、私を拘束する腕を解いた。
半袖のブラウスからのぞく腕に触れると、寒くもないのに肌が冷えている。そっと両腕を重ねて引き寄せると、手のひらで擦って肌を温める。
「翔吾くん、何か食べる? パスタでよければすぐに作れるよ」
「うん、食べる」
振り向いて見上げた翔吾くんのまなざしは、さっきまでよりもいくらか和らいでいる。
翔吾くんからなるべく自然な動きでゆっくりと離れると、キッチンに向かって歩きながら細い息を吐いた。
翔吾くんのことは好きだ。嫌いになったわけじゃない。だけど、この頃はどうしてか、一緒にいると気詰まりする。
ひさしぶりにアツくんに会って気持ちが和んだあとだから、余計にそう感じるのかもしれない。
キッチンに立って、ベーコンと玉ねぎを薄く刻んでいると、翔吾くんがそばに寄ってきた。
隣に立って何か手伝うでもなく、私の作業をじっと見ている。近過ぎて作業しづらいと思ったけど、敢えて指摘はしなかった。
火にかけたフライパンに切った材料を入れて、醤油ベースの和風パスタソースを作る。
大鍋に水を入れて湯が沸くのを待っていると、それまで黙って私のすることを見ていた翔吾くんが口を開いた。
「史花」
名前を呼ばれて、何気なく振り向く。だけど翔吾くんと目が合った瞬間、振り向いた自分に後悔した。
翔吾くんが次に何を言おうとしているか。その言葉がすぐに想像できてしまったから。
「実家の両親に、いつ史花を合わせてくれるのかって急かされてるんだけど。再来週の日曜日にでもスケジュールを調整してくれないかな」
一周年の記念日以降、翔吾くんからはもう何度も「実家の両親に会わせたい」と言われていたが、私はその度に話をはぐらかしてきた。
結婚するが嫌なわけじゃない。でも、今のタイミングで結婚を決めることがベストな選択なのかわからない。
このまま曖昧にはぐらかして、翔吾くんにご両親に会う話も結婚の話も、もう少し先延ばしにできないだろうか。そんなふうに考えていたから、「再来週の日曜日」という具体的な日にちを提示されて、少し焦った。
翔吾くんから結婚の意志をほのめかされてから一ヶ月。いつまでも煮え切らない私の態度に、翔吾くんもそろそろ焦れてきている。
もうこれ以上、先延ばしにするのはムリなのかもしれない。
強火にかけた大鍋の中で、沸騰したお湯がブクブクと泡立っている。コンロの火を緩めると、私は少し無理やり笑顔を作った。
「わかった。再来週の日曜日、空けとくね」
私の言葉に、翔吾くんがほっとしたように頬を緩める。
「ありがとう」
嬉しそうな翔吾くんに、私はやっぱり少し無理した笑顔しか返すことができなくて。そのことに、小さな罪悪感を覚えた。
「大好きだよ、史花」
調理台に置いたパスタを手に取ろうとする私の背中を翔吾くんがぎゅっと強く抱きしめてくる。
「うん、私も」
好きだった。好きだと思っていた。
翔吾くんの甘えるような声に頷きながら、はたして私の想いは彼の想いと同じ重さで釣り合っているのだろうかと頭の隅で思った。そして、首筋に翔吾くんの唇の熱を受けながら、冷静にそんなことを考えてしまっている自分にぞっとした。
今日はいい夢を見ながら、ぐっすりと眠れそうだ。そんなふうに思っていたのに、開いたドアの先で灯っている部屋の明かりと、玄関に揃えられた男性用の革靴を目にした瞬間、一気に身体の熱が冷めた。
今夜もまた、小田翔吾がうちに来ている。それも、アポなしで。
翔吾くんは、三つ年上の私の恋人だ。私が勤めている大洋損保河お世話になっている広告会社の担当者で、仕事でやってきた翔吾くんに事務員として何度か対応しているうちに親しくなり、連絡先を渡されて食事に誘われた。
アツくんに話した、一年ほど付き合っている彼氏というのは翔吾くんのことだ。
明るくて社交的な翔吾くんにどこか引っ張られるようにして始まった私達の交際は、世間一般的には順調なのだと思う。
先月がちょうど、私達が付き合い始めて一周年の記念日で。夜景と海の見えるレストランでふたりでお祝いをしたときに、翔吾くんに言われた。
「今度、史花のことを両親に紹介したいと思ってる」
翔吾くんは「結婚」という言葉をはっきり口に出したわけではなかったけれど、あれは実質プロポーズだったのだろうと、私は思っている。
翔吾くんは、自分の両親に私を紹介したあと、私の母のところにも挨拶に行きたいと言ってきた。
私が二十四歳、翔吾くんが二十七歳。結婚を意識して付き合っていてもいい年頃なのに、私は翔吾くんから「両親に紹介したい」と言われて初めて、彼と結婚というものを意識して付き合ってこなかったことに気が付いた。
翔吾くんのことはもちろん好きだし、長くお付き合いができればいいとは思っていたけれど、そこに急に結婚という現実が現れたときに、いまいちピンとこなかった。
それは、私の母が、結婚とか家庭とか家族とか、そういうものとあまり縁のない人だったからかもしれない。
もちろん、母にも私の実の父や二宮さんと結婚生活を送っていた期間があった。だけど私は、誰かの妻として結婚生活を送る母よりも、恋人を絶えず入れ換えてひとりの女として奔放に生きてきた母を見ていた期間のほうが長い。
そんな母に、翔吾くんのことを紹介するのは少し不安があった。それに、私も結婚生活をうまく送ることができずに母のようになってしまったら……。
わずかではあるが、絶対にないとは言えないその可能性を考えたら、私との結婚を考えてくれているらしい翔吾くんとの交際に迷いが生じた。
私はこのまま、翔吾くんの両親に会っていいのだろうか。
再婚の予定もない彼氏と同棲している母を、翔吾くんに会わせていいのだろうか。翔吾くんは、男の人にだらしない母を見て引いてしまわないだろうか。
頭で先回りしていろいろと考えてしまい、私は「両親に紹介したい」と言ってくれた翔吾くんの話を曖昧な態度で誤魔化した。
だけど、たぶんそれがよくなかった。
翔吾くんはきっと、私が彼との結婚を渋っているのだと思っていて。その一因として、私に他の男がいるのでは……と疑っているようなのだ。
もちろん、私には翔吾くんのほかに付き合っている人なんていない。やましいことは何もない。
だけど、私の浮気を心配して疑心暗鬼になっている彼は、一ヶ月前からこんなふうに、合鍵を使ってアポなしで私の家にやってくる。まるで、抜き打ち検査でもするみたいに。
私は小さく息を吐くと、なんとか憂鬱な気持ちを胸から押し退けた。暗い表情や煩わしげな顔を見せれば、きっと翔吾くんは余計に私のことを疑う。
だからいつもどおり。靴を脱ぎながら、部屋の奥の翔吾くんに呼びかけた。
「ただいまー。翔吾くん、来てたんだ」
ゆっくりと廊下を歩いていくと、リビングのドアのところで慌てて飛び出してきた翔吾くんとぶつかりそうになる。
「おかえり、史花」
少し目尻の上がった翔吾くんの二重の目。その双眸は、あるはずもない私の隠し事を突き止めようと鋭い光を放っていて。ほんの少し怖かった。
けれど、下手に怯えた様子を見せれば、翔吾くんに余計に疑いをもたれてしまう。それがわかっているから、私は鈍感なフリをして彼に微笑みかけた。
「来るなら連絡くれたらよかったのに。ごはんはもう食べた? 簡単なものでよければ何か作ろうか」
リビングのドアの前に立ちはだかる翔吾くんを躱してキッチンに進もうとすると、彼が私の手首をつかんで引き留める。そのまま背中から抱き込むように引き寄せられて、思わず肩がビクリと震えてしまった。
「どうしたの?」
胸の前で交差した翔吾くんの両腕。そこにそっと手のひらで触れると、彼が私の肩口に頭を寄せてきた。
「早く仕事が終わったから、会いたくて。史花はずいぶんと帰りが遅かったんだな。どこか寄ってきたの?」
耳元で聞こえた翔吾くんの探るような声に、答えを一瞬躊躇った。
適当に残業だったと答えておけばいいのかもしれないけれど、万が一にもウソだとバレたら……。
「うん。同僚の人に誘われて、仕事帰りに会社のビルの下のカフェでお茶してたの」
会社の下のカフェでお茶をしたのはほんとう。だけど、お茶した相手が同僚だということはウソ。
アツくんのことや彼との関係を説明し始めたら時間がかかるうえに面倒なことになりそう。そう思ったから、翔吾くんに中途半端なウソをついた。
「同僚って、史花と同じ部署の?」
「そうだよ。由紀恵さん」
私がすぐに同じ部署で仲良くしてもらっている先輩の名前を出すと、翔吾くんも納得したらしい。
「そう」とつぶやいて、私を拘束する腕を解いた。
半袖のブラウスからのぞく腕に触れると、寒くもないのに肌が冷えている。そっと両腕を重ねて引き寄せると、手のひらで擦って肌を温める。
「翔吾くん、何か食べる? パスタでよければすぐに作れるよ」
「うん、食べる」
振り向いて見上げた翔吾くんのまなざしは、さっきまでよりもいくらか和らいでいる。
翔吾くんからなるべく自然な動きでゆっくりと離れると、キッチンに向かって歩きながら細い息を吐いた。
翔吾くんのことは好きだ。嫌いになったわけじゃない。だけど、この頃はどうしてか、一緒にいると気詰まりする。
ひさしぶりにアツくんに会って気持ちが和んだあとだから、余計にそう感じるのかもしれない。
キッチンに立って、ベーコンと玉ねぎを薄く刻んでいると、翔吾くんがそばに寄ってきた。
隣に立って何か手伝うでもなく、私の作業をじっと見ている。近過ぎて作業しづらいと思ったけど、敢えて指摘はしなかった。
火にかけたフライパンに切った材料を入れて、醤油ベースの和風パスタソースを作る。
大鍋に水を入れて湯が沸くのを待っていると、それまで黙って私のすることを見ていた翔吾くんが口を開いた。
「史花」
名前を呼ばれて、何気なく振り向く。だけど翔吾くんと目が合った瞬間、振り向いた自分に後悔した。
翔吾くんが次に何を言おうとしているか。その言葉がすぐに想像できてしまったから。
「実家の両親に、いつ史花を合わせてくれるのかって急かされてるんだけど。再来週の日曜日にでもスケジュールを調整してくれないかな」
一周年の記念日以降、翔吾くんからはもう何度も「実家の両親に会わせたい」と言われていたが、私はその度に話をはぐらかしてきた。
結婚するが嫌なわけじゃない。でも、今のタイミングで結婚を決めることがベストな選択なのかわからない。
このまま曖昧にはぐらかして、翔吾くんにご両親に会う話も結婚の話も、もう少し先延ばしにできないだろうか。そんなふうに考えていたから、「再来週の日曜日」という具体的な日にちを提示されて、少し焦った。
翔吾くんから結婚の意志をほのめかされてから一ヶ月。いつまでも煮え切らない私の態度に、翔吾くんもそろそろ焦れてきている。
もうこれ以上、先延ばしにするのはムリなのかもしれない。
強火にかけた大鍋の中で、沸騰したお湯がブクブクと泡立っている。コンロの火を緩めると、私は少し無理やり笑顔を作った。
「わかった。再来週の日曜日、空けとくね」
私の言葉に、翔吾くんがほっとしたように頬を緩める。
「ありがとう」
嬉しそうな翔吾くんに、私はやっぱり少し無理した笑顔しか返すことができなくて。そのことに、小さな罪悪感を覚えた。
「大好きだよ、史花」
調理台に置いたパスタを手に取ろうとする私の背中を翔吾くんがぎゅっと強く抱きしめてくる。
「うん、私も」
好きだった。好きだと思っていた。
翔吾くんの甘えるような声に頷きながら、はたして私の想いは彼の想いと同じ重さで釣り合っているのだろうかと頭の隅で思った。そして、首筋に翔吾くんの唇の熱を受けながら、冷静にそんなことを考えてしまっている自分にぞっとした。
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