【コミカライズ配信中!】社長、この偽婚約はいつまで有効ですか?(原題:花束と婚約指輪)
Stay with me
「蒼、ちゃ……」
バスルームから出て、肩にかけていたタオルで髪を拭いていると、ふと誰かに名前を呼ばれたような気がした。
ホテルの広いスイートルームの部屋には、俺とバーで出会ってそのまま成り行きで拾ってきた女の子が一人。
ドレス姿でたったひとりで酒を煽っていた見ず知らずの子に声をかけたきっかけは、彼女がつかんで振り上げた花束に目を惹かれたからだ。床に投げつけられるのかと思った花束は、唇を噛み締めながら思いとどまった彼女の手によって、カウンターの上に戻される。オレンジや黄色の華やかな色で纏められたミニブーケが気になって彼女の隣にさりげなく座って見ると、思ったとおり。最近うちの会社が業務提携を考えている花屋の名前が印字されたリボンがかけられていた。
ミニブーケを見て思わず「綺麗ですね」と、声をかけたら、彼女が一瞬驚いた顔をして、泣きそうに笑う。
「ハナコ」だと名乗る彼女は、かつて婚約者だった男とそいつを寝取った女の結婚式に参加させられた直後で、ホテルのバーでヤケ酒してたらしい。
お酒に強くないのに、自棄になって無理して飲んだのだろう。初対面の俺に向かって泣いたり怒ったりしながら、婚約者だった男の愚痴を喚き散らしたあと、すっかり酔いつぶれてしまって動かなくなり。仕方なく、急遽取ったホテルの部屋まで運んで寝かせている。
初対面の女の子なんだから、バーの店長かホテルのスタッフにでも任せて置いてくればよかったのかもしれない。だけど、俺は誰かが困っていたら——、特にそれが女の子だった場合、なんとなく放っておけない。俺が放置したことで、その子が危険な目に遭ったらと思うと申し訳ないからだ。
大学時代からの友人の基は、「蒼大郎は根が紳士だから」とよくバカにしてくるし、「そういうとこが、気のない女まで勘違いさせるんだ」と忠告してくるけど、別に間違ったことをしているわけでもないと思う。
昔から誰にでも親切にはできるけど、その中に特別はいない。我儘放題で、甘やかされたお嬢様だと思っていたけど、元婚約者だった麗奈にもそのことをちゃんと見抜かれていた。
ドアを開けっぱなしにしていたクローゼットに掛けてあるスーツのジャケット。そのポケットに入っている、高級ブランドのエンゲージリングを想ってため息を吐く。
クローゼットに歩み寄って、ジャケットのポケットから指輪の入ったジュエリーケースを取り出す。蓋を開けてみると、そこに収まった大粒のダイヤがスイートルームの暖色のシーリングライトの光に反射して、憎らしいくらいにキラキラと美しく輝いていた。
元婚約者だった麗奈に渡したエンゲージリングは、海外のセレブが特注して恋人に贈るような高級ブランドのものだった。ミーハーな麗奈に絶対にそこのブランドのものがいい、としつこくせがまれ、流されるままに用意して渡したものだ。そこに、全く俺の意志はない。
今夜、麗奈に婚約破棄を言い渡されてエンゲージリングを突き返されたばかりだというのに、そのこと自体はそれほどショックではなく。ただ、俺は自分が付けられもしない指輪だけが手元に残ったことに困り果てていた。
「こんなもの、手元に残ってどうすればいいんだ……」
小さくぼやいたとき、ふと初対面の女の子が俺にしてくれたアドバイスが耳に蘇ってきた。
『返品するとか。それが無理なら、質屋に売るとかしてください』
「質屋、か……」
大真面目な顔でそう言った彼女の言葉を思いだすと、自然と笑えてくる。ここ一年ほど麗奈の我儘や贅沢さに毒されてすっかりマヒしていたけれど、『高級品は質屋で金にしろ』と暗にそういうアドバイスをしてくれた彼女の感覚のほうがきっとまともだ。
クローゼットの棚に置いてある、彼女からもらったミニブーケ。自分を裏切った男とその結婚相手のために作ったというオレンジと黄色を基調にした花束をジッと見つめ、それからベッドで眠る彼女を振り返る。そのとき。
「蒼、ちゃん……」
今度ははっきりと、誰かに名前を呼ばれたのがわかった。
「蒼ちゃん……」
涙声で名前を呼んでいるのは、ベッドで眠っている女の子だ。
「蒼ちゃん、蒼、ちゃん……」
求められるみたいに何度も名前を呼ばれて、心音が高鳴る。俺が彼女に教えた名前は「タロー」で、本名なんて伝えた覚えはないんだけど。
手に持っていた指輪の箱を風呂上がりで羽織っていたバスローブのポケットに突っ込む。ドキドキしながらベッドに歩み寄っていくと、そこで寝ている彼女は目を閉じたまま泣いていた。溢れて止まらない涙で、睫毛と頬を濡らしながら、「蒼ちゃん」と譫言のようにその名前を呼んでいる。
「ハナコ、ちゃん?」
声をかけてみたけれど彼女からの応答はなく、ただ「蒼ちゃん」という名前を呼びながら苦しそうな表情でぐずぐずと泣くばかりだ。
「蒼ちゃん……、どうして私じゃないの?」
ずっと一人の名前を呼び続けていた彼女が、不意に弱々しい声でつぶやく。それを聞いた俺は、「蒼ちゃん」が彼女の婚約者だった男の名前なのだと気が付いた。
バーでお酒を飲みながら婚約者だった男のことを俺に話してくれた彼女は、泣いたり怒ったりしながら、裏切った男のことを徹底的に悪く言っていた。だけど、それは悲しさや苦しさを誤魔化すための、彼女なりの強がりだったんだろう。ベッドの上で震えて涙する彼女の姿は苦しそうで、ひどく痛々しかった。
「ハナちゃん、大丈夫?」
婚約者だった男の結婚式に出た直後で、悪い夢を見ているのかもしれない。何か助けになって声をかけたら、彼女が俺の呼びかけに反応したようにうっすらと目を開けた。
「ハナちゃん、うなされてたよ。水でも飲む?」
顔を覗き込むようにして声をかけると、ぼんやりとしていた彼女の目付きが一瞬にして変わった。
「どうして、あんたがここにいるの?」
低い声でつぶやいた彼女が、俺のバスローブの胸倉をつかんで起き上がる。
え? 介抱して、悪夢から覚まそうとしてあげたつもりなのに、逆切れ……?
一瞬焦ったし、冗談じゃないって思ったけど。次の言葉で、彼女の怒りの矛先が俺に向いているわけではないことが分かった。
「バカ! 最低! クソ男っ! あんたなんて、一生あの女の言いなりになって、私を選ばなかったことを後悔すればいいんだ!」
大声で怒鳴りつけてくる彼女は、涙のたまった目で俺を睨んでいるようで、どこか遠くを見ている。傷付いた彼女が怒りをぶつけたい相手は、俺ではなくて裏切った元婚約者だ。
「嫌い! 大っ嫌い! 元々あんたなんて、そんなに好みじゃなかったし。いつかこっちからフッてやるくらいのつもりでいたし」
バスローブをつかむのとは反対の手で、彼女が俺の胸をバシバシと殴りつけてくる。その衝撃で肩が揺れたけど、正直少しも痛くなかった。
俺と婚約者だった男とを混同して殴りかかってくる彼女の表情のほうが、よっぽど痛くて苦しそうだったから。しばらく俺を殴って気が済んだのか、彼女の手の動きが止まる。
「ハナちゃん……」
心配になって呼びかけると、彼女が俺のバスローブの胸元を両手でぎゅーっと握って額を押し付けてきた。
「違う……」
「え?」
「嫌いなんて、違う。好きだった、蒼ちゃんのこと……蒼ちゃんがあの女のこと選んだってわかってても、ずっと。まだ、大好きだった……」
俺の胸に顔を押し付けて嗚咽を漏らす彼女の本音は、もう「蒼ちゃん」には届かない。彼女の気持ちを想うと俺まで苦しくなってしまって。気付けば、震える彼女の肩をきつく抱きしめていた。
「大丈夫。ただ、悪い夢を見ていただけだから」
「夢……?」
虚ろな目をして問いかけてきた彼女に笑いかけると、頬を濡らす涙をバスローブの袖で拭ってやった。
彼女の涙を拭いた手をそっとおろしたとき、バスローブのポケットに入れていた指輪の角が触れた。ポケットに手を突っ込んで、ジュエリーボックスを開けると、彼女がびっくりしたように瞬きをする。
ちょっとした思い付きだった。これ以上俺の前で、傷付いた彼女のことを泣かせたくなかった。だから——。
「全部、悪い夢だったんだよ。だって、俺が選んだのは君だから。俺と結婚してくれる?」
まやかしの婚約指輪と甘い言葉で惑わせて、彼女の婚約者だった男のフリをした。
「蒼、ちゃん?」
細い指に、シーリングライトの光を受けて輝く指輪を嵌めて、大きく目を見開く彼女を引き寄せて抱きしめる。
「朝までそばにいるから。だから、安心して眠って」
柔らかな後ろ髪をそっと撫でると、彼女が俺の肩口に額をのせて、ふーっと安堵の息を漏らした。それから間もなくして眠ってしまった彼女を、そっとベッドに横たえる。
頃合いを見計らって、別室のベッドに移動しようと思ったけれど、ようやく落ち着いて眠り始めた彼女は、いつまでたっても俺のバスローブをつかんだまま離そうとしなかった。
仕方がないので、彼女のそばで俺も目を閉じる。けれど、すぐ隣で眠る彼女のことが気になってなかなか寝付けなかった。目を開けると、俺のほうに顔を向けて眠る彼女の顔が否応なく視界に入ってきて、ドキリとする。
会ったばかりだけれど、俺の心にいろんな感情を湧き上がらせてくれる子だと思った。それは、彼女がバーで俺にくれたブーケのせいかもしれないし、婚約者だった男に傷付けられた彼女への同情なのかもしれない。でもそれ以上に俺を惹き付けたのは、彼女が婚約者だった男に抱いていた愛情の強さだったのかもしれない。
自分を裏切った男のことを憎もうとして躍起になっているくせに、心の底では彼を好きだった気持ちを消しきれない。泣きながら必死に訴えてきた彼女の想いが、俺の心を揺さぶっていた。
麗奈と婚約していた俺に足りなかったのは、目の前にいる彼女が持っていたような、相手を本気で想う気持ちだ。でもそれは、俺を婚約者として選んだ麗奈のほうにも足りていなかったものだと思う。
もし俺がこの子の恋人になるようなことがあれば、この子は「蒼ちゃん」に向けていたのと同じくらいの一途な感情を俺にも向けてくれるんだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら、隣で眠る彼女の前髪を撫で上げる。
触れられて擽ったそうに小さく声を漏らした彼女の表情はなんだかやけに煽情的で、眠っている彼女にキスしたい欲望に駆られた。彼女の頬を撫でて、髪を梳きながら、溢れそうになる欲を必死で堪える。彼女の隣で、俺は結局朝までほとんど眠れなかった。
◆
翌朝。ホテルのベッドで目覚めた彼女は、笑えるくらいに俺との一夜を覚えていなかった。
「えーっと。た、タローさん?」
「よかった。名前は覚えててくれたんだ?」
「えぇ、まぁ……」
自分がバスローブ姿でベッドに寝かされていた彼女は、たぶん酔った勢いで俺と過ちを犯したのではないかと慌てていて。
「あの、私……すごく酔っ払ってたみたいでいろいろ記憶が曖昧で……」
ブランケットで全身を隠しながら、動揺している姿がすごく可愛かった。
昨夜は初対面の俺に酔っぱらって管を巻いて、人のことを怒ったり殴ったりした末に、眠るときは引っ付いてきて朝まで離れなかったのに。
「何も気にしなくていいよ。俺のほうも、君のおかげでいい夜が過ごせたから」
別に真実を教えてあげてもよかったんだけど、ちょっと意地悪を言ってみたら彼女が本気で青ざめたから、このままうやむやにしておくのもいいかと思えてきた。
「もっとゆっくり過ごしたいところだけど、俺はもう行かないと。フロントでレイトチェックアウトにしてもらっとくから、ハナちゃんはもう少しゆっくりしてから出ていいよ」
「え? あ、ちょっと……ちょ、ちょっと待ってください。いろいろ記憶ないですけど、ホテル代は払います。いくらですか?」
酔っぱらった自分を襲ったかもしれない男に、律儀にホテル代を支払おうとする彼女の真面目さに、つい吹き出しそうになる。
「いいよ。これをもらったお礼だから、気にしないで」
「いや。そういうわけには……」
勝手に連れてきたのは俺だし、ホテル代をもらう義理もない。
昨夜彼女からもらったブーケを笑って持ち上げると、彼女が可愛く、困った顔をした。その表情を見た瞬間、足が勝手にベッドのほうに引き返していて。冷静な頭で、「あーあ、せっかく一晩我慢したのにな」と思う。
「そこまで言うなら、ホテル代もいただこうかな」
彼女の左頬に触れた俺は、欲望のままにそんなことを口走り。自制できずに、彼女の唇を塞いでいた。
衝動を抑えられなかった自分を一瞬悔いたけれど、俺のキスに驚いて大きく目を見開いている彼女の反応が可愛すぎて。思わず笑みがこぼれる。
「またね、ハナちゃん」
茫然とする彼女をそのまま連れ去りたい気分だったけれど、昨夜の記憶のない彼女にとって、俺はただの一夜の過ちなわけで。彼女の心の中にはきっとまだ、「蒼ちゃん」がいる。それに、今焦って彼女を連れ去らなくても、また会えることはわかっている。
ホテルの部屋を出て、エレベーターに乗り込んだ俺は彼女からもらった明るい色のブーケを見つめて頬を緩めた。
裏切った男とその結婚相手のために作ったブーケだというのに、そこからは結婚したふたりへの優しい気持ちしか感じられない。
ふと、唇に触れてみた指先が、別れ際のキスを思い出して熱くなる。ホテル代に託けて、我慢できずに一度だけ奪った唇は、魅惑的で甘い味がした。
もし、もう一度君に会ったときにやっぱり心が動いたらそのときは……。
君の隣にいる権利を奪うために、本気になってみてもいいかな。
fin.
バスルームから出て、肩にかけていたタオルで髪を拭いていると、ふと誰かに名前を呼ばれたような気がした。
ホテルの広いスイートルームの部屋には、俺とバーで出会ってそのまま成り行きで拾ってきた女の子が一人。
ドレス姿でたったひとりで酒を煽っていた見ず知らずの子に声をかけたきっかけは、彼女がつかんで振り上げた花束に目を惹かれたからだ。床に投げつけられるのかと思った花束は、唇を噛み締めながら思いとどまった彼女の手によって、カウンターの上に戻される。オレンジや黄色の華やかな色で纏められたミニブーケが気になって彼女の隣にさりげなく座って見ると、思ったとおり。最近うちの会社が業務提携を考えている花屋の名前が印字されたリボンがかけられていた。
ミニブーケを見て思わず「綺麗ですね」と、声をかけたら、彼女が一瞬驚いた顔をして、泣きそうに笑う。
「ハナコ」だと名乗る彼女は、かつて婚約者だった男とそいつを寝取った女の結婚式に参加させられた直後で、ホテルのバーでヤケ酒してたらしい。
お酒に強くないのに、自棄になって無理して飲んだのだろう。初対面の俺に向かって泣いたり怒ったりしながら、婚約者だった男の愚痴を喚き散らしたあと、すっかり酔いつぶれてしまって動かなくなり。仕方なく、急遽取ったホテルの部屋まで運んで寝かせている。
初対面の女の子なんだから、バーの店長かホテルのスタッフにでも任せて置いてくればよかったのかもしれない。だけど、俺は誰かが困っていたら——、特にそれが女の子だった場合、なんとなく放っておけない。俺が放置したことで、その子が危険な目に遭ったらと思うと申し訳ないからだ。
大学時代からの友人の基は、「蒼大郎は根が紳士だから」とよくバカにしてくるし、「そういうとこが、気のない女まで勘違いさせるんだ」と忠告してくるけど、別に間違ったことをしているわけでもないと思う。
昔から誰にでも親切にはできるけど、その中に特別はいない。我儘放題で、甘やかされたお嬢様だと思っていたけど、元婚約者だった麗奈にもそのことをちゃんと見抜かれていた。
ドアを開けっぱなしにしていたクローゼットに掛けてあるスーツのジャケット。そのポケットに入っている、高級ブランドのエンゲージリングを想ってため息を吐く。
クローゼットに歩み寄って、ジャケットのポケットから指輪の入ったジュエリーケースを取り出す。蓋を開けてみると、そこに収まった大粒のダイヤがスイートルームの暖色のシーリングライトの光に反射して、憎らしいくらいにキラキラと美しく輝いていた。
元婚約者だった麗奈に渡したエンゲージリングは、海外のセレブが特注して恋人に贈るような高級ブランドのものだった。ミーハーな麗奈に絶対にそこのブランドのものがいい、としつこくせがまれ、流されるままに用意して渡したものだ。そこに、全く俺の意志はない。
今夜、麗奈に婚約破棄を言い渡されてエンゲージリングを突き返されたばかりだというのに、そのこと自体はそれほどショックではなく。ただ、俺は自分が付けられもしない指輪だけが手元に残ったことに困り果てていた。
「こんなもの、手元に残ってどうすればいいんだ……」
小さくぼやいたとき、ふと初対面の女の子が俺にしてくれたアドバイスが耳に蘇ってきた。
『返品するとか。それが無理なら、質屋に売るとかしてください』
「質屋、か……」
大真面目な顔でそう言った彼女の言葉を思いだすと、自然と笑えてくる。ここ一年ほど麗奈の我儘や贅沢さに毒されてすっかりマヒしていたけれど、『高級品は質屋で金にしろ』と暗にそういうアドバイスをしてくれた彼女の感覚のほうがきっとまともだ。
クローゼットの棚に置いてある、彼女からもらったミニブーケ。自分を裏切った男とその結婚相手のために作ったというオレンジと黄色を基調にした花束をジッと見つめ、それからベッドで眠る彼女を振り返る。そのとき。
「蒼、ちゃん……」
今度ははっきりと、誰かに名前を呼ばれたのがわかった。
「蒼ちゃん……」
涙声で名前を呼んでいるのは、ベッドで眠っている女の子だ。
「蒼ちゃん、蒼、ちゃん……」
求められるみたいに何度も名前を呼ばれて、心音が高鳴る。俺が彼女に教えた名前は「タロー」で、本名なんて伝えた覚えはないんだけど。
手に持っていた指輪の箱を風呂上がりで羽織っていたバスローブのポケットに突っ込む。ドキドキしながらベッドに歩み寄っていくと、そこで寝ている彼女は目を閉じたまま泣いていた。溢れて止まらない涙で、睫毛と頬を濡らしながら、「蒼ちゃん」と譫言のようにその名前を呼んでいる。
「ハナコ、ちゃん?」
声をかけてみたけれど彼女からの応答はなく、ただ「蒼ちゃん」という名前を呼びながら苦しそうな表情でぐずぐずと泣くばかりだ。
「蒼ちゃん……、どうして私じゃないの?」
ずっと一人の名前を呼び続けていた彼女が、不意に弱々しい声でつぶやく。それを聞いた俺は、「蒼ちゃん」が彼女の婚約者だった男の名前なのだと気が付いた。
バーでお酒を飲みながら婚約者だった男のことを俺に話してくれた彼女は、泣いたり怒ったりしながら、裏切った男のことを徹底的に悪く言っていた。だけど、それは悲しさや苦しさを誤魔化すための、彼女なりの強がりだったんだろう。ベッドの上で震えて涙する彼女の姿は苦しそうで、ひどく痛々しかった。
「ハナちゃん、大丈夫?」
婚約者だった男の結婚式に出た直後で、悪い夢を見ているのかもしれない。何か助けになって声をかけたら、彼女が俺の呼びかけに反応したようにうっすらと目を開けた。
「ハナちゃん、うなされてたよ。水でも飲む?」
顔を覗き込むようにして声をかけると、ぼんやりとしていた彼女の目付きが一瞬にして変わった。
「どうして、あんたがここにいるの?」
低い声でつぶやいた彼女が、俺のバスローブの胸倉をつかんで起き上がる。
え? 介抱して、悪夢から覚まそうとしてあげたつもりなのに、逆切れ……?
一瞬焦ったし、冗談じゃないって思ったけど。次の言葉で、彼女の怒りの矛先が俺に向いているわけではないことが分かった。
「バカ! 最低! クソ男っ! あんたなんて、一生あの女の言いなりになって、私を選ばなかったことを後悔すればいいんだ!」
大声で怒鳴りつけてくる彼女は、涙のたまった目で俺を睨んでいるようで、どこか遠くを見ている。傷付いた彼女が怒りをぶつけたい相手は、俺ではなくて裏切った元婚約者だ。
「嫌い! 大っ嫌い! 元々あんたなんて、そんなに好みじゃなかったし。いつかこっちからフッてやるくらいのつもりでいたし」
バスローブをつかむのとは反対の手で、彼女が俺の胸をバシバシと殴りつけてくる。その衝撃で肩が揺れたけど、正直少しも痛くなかった。
俺と婚約者だった男とを混同して殴りかかってくる彼女の表情のほうが、よっぽど痛くて苦しそうだったから。しばらく俺を殴って気が済んだのか、彼女の手の動きが止まる。
「ハナちゃん……」
心配になって呼びかけると、彼女が俺のバスローブの胸元を両手でぎゅーっと握って額を押し付けてきた。
「違う……」
「え?」
「嫌いなんて、違う。好きだった、蒼ちゃんのこと……蒼ちゃんがあの女のこと選んだってわかってても、ずっと。まだ、大好きだった……」
俺の胸に顔を押し付けて嗚咽を漏らす彼女の本音は、もう「蒼ちゃん」には届かない。彼女の気持ちを想うと俺まで苦しくなってしまって。気付けば、震える彼女の肩をきつく抱きしめていた。
「大丈夫。ただ、悪い夢を見ていただけだから」
「夢……?」
虚ろな目をして問いかけてきた彼女に笑いかけると、頬を濡らす涙をバスローブの袖で拭ってやった。
彼女の涙を拭いた手をそっとおろしたとき、バスローブのポケットに入れていた指輪の角が触れた。ポケットに手を突っ込んで、ジュエリーボックスを開けると、彼女がびっくりしたように瞬きをする。
ちょっとした思い付きだった。これ以上俺の前で、傷付いた彼女のことを泣かせたくなかった。だから——。
「全部、悪い夢だったんだよ。だって、俺が選んだのは君だから。俺と結婚してくれる?」
まやかしの婚約指輪と甘い言葉で惑わせて、彼女の婚約者だった男のフリをした。
「蒼、ちゃん?」
細い指に、シーリングライトの光を受けて輝く指輪を嵌めて、大きく目を見開く彼女を引き寄せて抱きしめる。
「朝までそばにいるから。だから、安心して眠って」
柔らかな後ろ髪をそっと撫でると、彼女が俺の肩口に額をのせて、ふーっと安堵の息を漏らした。それから間もなくして眠ってしまった彼女を、そっとベッドに横たえる。
頃合いを見計らって、別室のベッドに移動しようと思ったけれど、ようやく落ち着いて眠り始めた彼女は、いつまでたっても俺のバスローブをつかんだまま離そうとしなかった。
仕方がないので、彼女のそばで俺も目を閉じる。けれど、すぐ隣で眠る彼女のことが気になってなかなか寝付けなかった。目を開けると、俺のほうに顔を向けて眠る彼女の顔が否応なく視界に入ってきて、ドキリとする。
会ったばかりだけれど、俺の心にいろんな感情を湧き上がらせてくれる子だと思った。それは、彼女がバーで俺にくれたブーケのせいかもしれないし、婚約者だった男に傷付けられた彼女への同情なのかもしれない。でもそれ以上に俺を惹き付けたのは、彼女が婚約者だった男に抱いていた愛情の強さだったのかもしれない。
自分を裏切った男のことを憎もうとして躍起になっているくせに、心の底では彼を好きだった気持ちを消しきれない。泣きながら必死に訴えてきた彼女の想いが、俺の心を揺さぶっていた。
麗奈と婚約していた俺に足りなかったのは、目の前にいる彼女が持っていたような、相手を本気で想う気持ちだ。でもそれは、俺を婚約者として選んだ麗奈のほうにも足りていなかったものだと思う。
もし俺がこの子の恋人になるようなことがあれば、この子は「蒼ちゃん」に向けていたのと同じくらいの一途な感情を俺にも向けてくれるんだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら、隣で眠る彼女の前髪を撫で上げる。
触れられて擽ったそうに小さく声を漏らした彼女の表情はなんだかやけに煽情的で、眠っている彼女にキスしたい欲望に駆られた。彼女の頬を撫でて、髪を梳きながら、溢れそうになる欲を必死で堪える。彼女の隣で、俺は結局朝までほとんど眠れなかった。
◆
翌朝。ホテルのベッドで目覚めた彼女は、笑えるくらいに俺との一夜を覚えていなかった。
「えーっと。た、タローさん?」
「よかった。名前は覚えててくれたんだ?」
「えぇ、まぁ……」
自分がバスローブ姿でベッドに寝かされていた彼女は、たぶん酔った勢いで俺と過ちを犯したのではないかと慌てていて。
「あの、私……すごく酔っ払ってたみたいでいろいろ記憶が曖昧で……」
ブランケットで全身を隠しながら、動揺している姿がすごく可愛かった。
昨夜は初対面の俺に酔っぱらって管を巻いて、人のことを怒ったり殴ったりした末に、眠るときは引っ付いてきて朝まで離れなかったのに。
「何も気にしなくていいよ。俺のほうも、君のおかげでいい夜が過ごせたから」
別に真実を教えてあげてもよかったんだけど、ちょっと意地悪を言ってみたら彼女が本気で青ざめたから、このままうやむやにしておくのもいいかと思えてきた。
「もっとゆっくり過ごしたいところだけど、俺はもう行かないと。フロントでレイトチェックアウトにしてもらっとくから、ハナちゃんはもう少しゆっくりしてから出ていいよ」
「え? あ、ちょっと……ちょ、ちょっと待ってください。いろいろ記憶ないですけど、ホテル代は払います。いくらですか?」
酔っぱらった自分を襲ったかもしれない男に、律儀にホテル代を支払おうとする彼女の真面目さに、つい吹き出しそうになる。
「いいよ。これをもらったお礼だから、気にしないで」
「いや。そういうわけには……」
勝手に連れてきたのは俺だし、ホテル代をもらう義理もない。
昨夜彼女からもらったブーケを笑って持ち上げると、彼女が可愛く、困った顔をした。その表情を見た瞬間、足が勝手にベッドのほうに引き返していて。冷静な頭で、「あーあ、せっかく一晩我慢したのにな」と思う。
「そこまで言うなら、ホテル代もいただこうかな」
彼女の左頬に触れた俺は、欲望のままにそんなことを口走り。自制できずに、彼女の唇を塞いでいた。
衝動を抑えられなかった自分を一瞬悔いたけれど、俺のキスに驚いて大きく目を見開いている彼女の反応が可愛すぎて。思わず笑みがこぼれる。
「またね、ハナちゃん」
茫然とする彼女をそのまま連れ去りたい気分だったけれど、昨夜の記憶のない彼女にとって、俺はただの一夜の過ちなわけで。彼女の心の中にはきっとまだ、「蒼ちゃん」がいる。それに、今焦って彼女を連れ去らなくても、また会えることはわかっている。
ホテルの部屋を出て、エレベーターに乗り込んだ俺は彼女からもらった明るい色のブーケを見つめて頬を緩めた。
裏切った男とその結婚相手のために作ったブーケだというのに、そこからは結婚したふたりへの優しい気持ちしか感じられない。
ふと、唇に触れてみた指先が、別れ際のキスを思い出して熱くなる。ホテル代に託けて、我慢できずに一度だけ奪った唇は、魅惑的で甘い味がした。
もし、もう一度君に会ったときにやっぱり心が動いたらそのときは……。
君の隣にいる権利を奪うために、本気になってみてもいいかな。
fin.
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