【コミカライズ配信中!】社長、この偽婚約はいつまで有効ですか?(原題:花束と婚約指輪)

月ヶ瀬 杏

Promise.Ⅸ

「ハナちゃん、ハナちゃん」

 身体を左右に揺すられて、目を閉じたまま眉間を寄せる。呼びかけてくる声を意識のどこか遠くで聞きながら寝返りを打とうとすると、さらりと前髪を撫で上げられた。

「ハナちゃん、今日仕事は? そろそろ起きなくて大丈夫?」

 仕事……? そうだ、起きないと。

 浅い微睡みの中で麻耶さんの顔を思い浮かべながら、まだ眠たい目を擦る。

「ハナちゃん、やっと起きた?」

 声の聞こえた右側にぼんやりと顔を向けると、私の顔を覗き込むタローさんと目が合った。

 え? あ!? タローさん!?

 驚いて、寝起きの頭が一気に冴える。がばっと身体を起こすと、片肘をついてベッドに横になったタローさんが私を見上げてクスリと笑う。

 なんとなく既視感のある光景。だけど、いつかと違うのは、部屋の雰囲気。それから、そばで横になっているタローさんが上半身裸だってことと、私が見覚えのない男物のTシャツを着せられているということだ。ぶかぶかでスカスカする胸元には、下着だってついてない。

「あの、タローさん。おはようございます……」
「おはよう、ハナちゃん」

 まるで何事もなかったみたいに笑いかけてくるタローさんがやけにまぶしい。いそいそとベッドに身体を沈め直すと、ブランケットを頭の上まで引き上げる。そうしてタローさんから姿を隠すと、昨夜のことを思い出して声もなく悶えた。

 突然のレイナさんの出現で取り乱した私を朝までずっと抱きしめてくれたタローさんは、とても優しかったから。

 私の身体は、タローさんの触れ方やキスの温度を克明に覚えていて。初めて彼と出会った夜のことが何故全く記憶に残っていないのかが不思議なくらいだ。

 布団の中でもぞもぞとしていると、いきなり、ブランケットが引き剥がされる。両腕で自分の肩を抱くようにして身体を丸めている私を見下ろして、タローさんがクスッと笑った。

「何恥ずかしがってるの?」

 奪われたブランケットに手を伸ばすけれど、タローさんは意地悪く目を細めるだけで、私にそれを返してくれない。絶対わざとだ。

 今更だけど、上半身裸のままでそばにいるタローさんへの目のやり場に困って、ぐるっと彼に背を向ける。両手で顔を覆うと、頬がものすごく熱かった。

「いえ、あの……、初めて会ったときにホテルのスイートルームで目覚めたときのことを思い出しちゃって」
「あぁ、あのときのハナちゃんもすごく可愛かったよね」

 背中からタローさんの揶揄うような声が聞こえてきて、熱くなった頬がさらに火照る。

「でも私、初めて会った夜にタローさんとしてしまったときのことを全く覚えてなくて……」
「残念だな。あんなに積極的だったのに」
「え!?」

 クスリと笑ったタローさんが、とんでもないことを言うから、焦って変な声が出る。咄嗟に振り向くと、熱っぽい眼差しでこちらを見つめるタローさんと目が合う。

「なんて……」

 小さな声でそうつぶやくと、タローさんが私の前髪を撫で上げて、ちゅっと額にキスをした。優しい触れ方にぽやんとする私を見下ろして、タローさんがふっと笑う。

「あのときはうやむやにしたまま別れたけど、あの夜は何もしてないよ」
「え?」

 嘘。だって、元婚約者の結婚式に出席したあの夜、私はものすごく自暴自棄でなって、かなりお酒を飲んでいたし。目を覚ましたときは、ホテルのスイートルームのベッドでバスローブを羽織った状態だった。酔っぱらって失態を犯したことは確実だと思っていたのに……。

 ぽかんと口を開いたままでいる私を見て、タローさんが息を吐くように笑う。それから、愛おしそうに私の髪を撫でると、私の顔を胸に引き寄せるようにして抱きしめた。

 頬に直接触れる、タローさんの肌が熱い。ドキドキしながらちょっと甘えるみたいにすり寄ると、タローさんがくすぐったそうに笑った。

「あの夜、ハナちゃん、強くもないのに大量にウィスキー飲んだでしょ。バーを出るときにはもうフラフラで、そのまま一人では歩けないくらいだったんだよ。気分が悪いって言うし、家もわからないから、とりあえずホテルの部屋に運んで介抱した。着ていたドレスだけはシワになっちゃうから、着替えさせてもらったけど、変なことはしてないよ」
「そ、そうですか……それは、多大なご迷惑を……」

 と、言うか。それって、酔っぱらって一線を越えちゃった以上に大失態じゃないか。そんなことだったら、目覚めた直後に本当のことを教えてくれたらよかったのに。

「どうして、今までそのことを黙ってたんですか?」

 抱きしめられた腕の中で顔をあげて、タローさんの顔をジトッとした目で見つめると、彼がほんの一瞬躊躇うように瞳を揺らす。不思議に思って首を傾げると、タローさんが私の頭を押さえて、顔が見えないように腕の中に閉じ込めた。

「ハナちゃんの元婚約者の名前って『蒼ちゃん』って言うんだよね?」

 私の頭に鼻先を押し付けながら、タローさんが少し掠れた声で訊ねてくる。タローさんに元婚約者の名前を教えたことなどあっただろうか。ドキッとして肩を揺らすと、タローさんが私のことをいっそうきつく抱きしめてきた。

「あの夜、酔っぱらったハナちゃんのことを着替えさせて寝かせたあとに俺も着替えて寝ようとしたら、ハナちゃんが急に泣き出したんだ。『蒼ちゃん』って、名前を呼びながら」
「え?」
「俺の名前も『蒼大郎』で、子どものときにそういう呼び方をされたこともあるから、一瞬ドキッとしたよ。でも、ハナちゃんが泣きながら譫言みたいに呼んでたのは、お酒を飲みながらずーっと悪口を言ってたはずの元婚約者の名前だった。『どうして私じゃないの?』って、譫言みたいに婚約者だった彼の名前を呼びながら泣いてるハナちゃんの姿は苦しそうで痛々しくて、放っておけなかった」
「それで、朝までそばに居てくれたんですか?」
「うん。そばで話しかけられたら、ハナちゃん、俺のことを婚約者だった彼と勘違いしたみたいで。すごく怒って、殴りかかられたよ」
「え……!?」
「その場しのぎの思い付きだったんだけど、『俺が選んだのはハナちゃんだよ』って、元婚約者のフリしてあのエンゲージリングを嵌めたらようやく少し落ち着いて。そのあとは、俺の腕の中で眠ってた。あの夜に起きたできごとは、ただそれだけ」

 タローさんが、ふっと息を漏らしながら私の額に口付ける。

「それだけ、って。ものすごーく、多大にご迷惑をかけてるじゃないですか……!」

 そんな面倒な女、宿泊代を押し付けて、ホテルに置き去りにしたって仕方ないくらいなのに。朝までそばに居て、ホテル代も起き抜けのキスでチャラにしてくれて。そのうえ、再会後にこんなふうに恋人にしてくれるなんて。タローさんは優しすぎる。

「そうだよね。でも、なぜか全然迷惑だって思わなくて。それどころか、また会えたらいいなって思っちゃったんだ。実際に、すぐに会えることはわかってたし」
「どういう意味ですか?」
「初めて会った夜、ハナちゃんが俺にブーケをくれたでしょ。それに巻かれていたリボンに、Belle Fleur《ベル・フルール》っていう名前が印字されているのを見て、すぐに気が付いたよ。ハナちゃんが、うちと提携契約の打ち合わせをすることになっている花屋のスタッフだって。その時点では、ハナちゃんが店長なのかなって勘違いしていたんだけど。あんなカタチで偶然に提携契約を結びたいと考えている花屋のスタッフに会うなんて運命的だと思ったし、余計にハナちゃんに興味が沸いた」
「だから、別れ際に『またね』って……」

 ホテルのスイートルームでの別れ際、私にキスしたあとに、優美に微笑みかけてきたタローさんの顔を思い出す。あの時点で、タローさんは私との再会を予測していたのだ。だから、初対面の私の指に婚約指輪を残したまま立ち去ったのかもしれない。

「俺が店に現れたら、ハナちゃんがどんな反応するかなーって楽しみだったんだけど。トラブルが起きちゃったからね」
「そう、ですよね……」

 花束の取り違えのミスにタローさんがすごく怒っていたのは、きっと、期待して店を訪れてくれた彼をがっかりさせてしまったからだ。

「あのミスのあとに私がタローさんを追いかけなかったら、今、私がここにいることはあり得なかったんですかね……」
「どうかな」

 タローさんが、ふふっと笑いながら私の髪を撫でる。

「あの状況でハナちゃんが追いかけてこないなんて、そんな選択肢こそ、あり得なかったんじゃない?」
「そうですね」

 さすが、タローさんは私のことをよくわかっている。仮にあの場ですぐに追いかけられなかったとしても、何とかして麻耶さんの店がTateuchi Bridal Companyと提携してもらえるようにタローさんに頭を下げに行っただろう。

「いずれにしても、あの夜に出会った時点でハナちゃんが将来的に俺のものになることは決まってたと思うよ」
「どうことですか?」
「あの夜、手は出してないけど、ハナちゃんと結婚の約束はしてるからね」
「それ、何――……」

 タローさんが、私の身体を押して仰向けになるように転がす。それから、私の左手をとって指を絡み合わせて握ると、繋いだ手をベッドのシーツに押し付けた。

 上半身を起こして覆い重なってきたタローさんが、私の額に、睫毛に唇を落とす。

「好きだよ」

 私の横髪を掻き上げながら、タローさんが耳元にささやく。熱を帯びた吐息や掠れた声が、私の身体を熱くした。

「私も、タローさんが大好きです」

 見上げてささやき返すと、タローさんが眩しそうに目を細めて、少し急くように唇を重ね合わせてきた。優しくて、熱くて、少しずつ深くなるキスに思考が蕩ける。
 
 Tシャツの下から入り込んで素肌を撫でるタローさんの手付きに、腰が浮いてピクリと反応してしまう。

「タローさん、起きなきゃ……」
「少しだけ……」

 甘くささやいて、開かせた脚のあいだに身体を割り込ませてくるタローさんに抵抗できない。角度を変えて何度も重ねられる彼の唇を受け止めながら、幸せすぎてどうにかなりそうだった。

 タローさんのお誕生日の日。家に呼ばれてたくさん甘やかしてもらって、今が私の人生の最高潮だと思ったはずなのに。タローさんは私の最高潮は次々と更新させていくからすごい。タローさんのそばにいれば、私はいつでも人生の最高潮にいられるから。私の幸せは永遠だ。


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