【コミカライズ配信中!】社長、この偽婚約はいつまで有効ですか?(原題:花束と婚約指輪)

月ヶ瀬 杏

Promise.Ⅷ〈4〉

 取り乱していた私を部屋の中に入れたあと、タローさんはリビングのソファーに私を座らせた。

 タローさんはあまり片付いていないと言っていたけれど、ダイニングの椅子に脱いだままのジャケットがかけられていたり、ソファーの前のローテーブルに仕事関係の書類が散らばっている程度で、散らかっているうちに入らないくらい綺麗だった。

「食事の用意をする前に、ちゃんと話をしといてもいい?」

 だけど、普段ほどの冷静さと余裕はないらしい。ソファーで隣合わせに座ったタローさんは、私を逃すまいとするかのように手をぎゅっと握る。それから、今まで私が詳しく知らなかったレイナさんとの関係や婚約が破談になった経緯をぽつり、ぽつりと話してくれた。

 タローさんとレイナさんの婚約は、もともとレイナさんの父親が持ちかけてきたものだったそうだ。

 レイナさんが父親の知人である会社経営者の御子息の結婚パーティーに出席したときに、偶然同じパーティーに来ていたタローさんのことが気に入って、かなり強引に婚約まで持ち込んだらしい。

 そのとき、お付き合いしている人も、特別に好意を持っている相手もいなかったタローさんは、レイナさんとの婚約を受け入れた。だけど、彼女のことを大切にしているフリはできても、彼女のことを本気の恋愛感情を持つことはできなかったそうだ。

 婚約者としてのせめてもの誠意を見せるために、タローさんはレイナさんが望むことはできるだけ叶えてあげていたし、高級ブランドのエンゲージリング(初めて出会った夜に、私が指に嵌めたやつだ)だって、彼女にせがまれるままに用意した。

 タローさんとしては、レイナさんの希望に答えることで愛情を示していたつもりだったけれど、彼女のほうはどんなに高価なものをもらっても、彼に愛されているという実感が持てずにいた。そんなときに、レイナさんに好意を寄せる別の男性が現れて、彼女の心が少し揺らいだ。

 私たちがホテルのバーで初めて出会ったとき。

『蒼大郎は私のことを好きじゃないわよね。私には他に想ってくれる人がいるからこれは要らない』

 タローさんはレイナさんにそう言われて、あの高級ブランドのエンゲージリングを返されたところだったのだそうだ。

「彼女にせがまれて、彼女の望む婚約指輪を用意して、それを突き返されたのに、実はあんまりショックじゃなかったんだ」

 タローさんが繋いだ私の手の甲を指でそっと撫でながら、うつむき加減に苦笑いした。

「麗奈だけじゃなくて、これまでにしてきた恋愛も似たようなもので。相手を大切にしてるフリはできても、いつもどこかで本気になれなかった。それを女の子のほうに見抜かれて別れるっていうのが、毎回のパターン。麗奈に婚約指輪を返されたときも、また失敗かって思っただけの自分が冷たい人間な気がしたよ」

 タローさんとバーで出会ったとき、私には彼がすごく落ち込んでいるように見えた。

 自分自身が婚約者に裏切られていたから、タローさんもレイナさんとの婚約がダメになって落ち込んでいるのかと思っていた。けれど彼は、婚約者にフラれてもなんとも思わなかった自分に憂えていたという。

 そんな経緯で、タローさんとレイナさんの婚約は両家の親の承認も経て正式に破談になった。

 それなのに、今頃になってレイナさんが再び現れたのは、タローさんとの婚約を破棄して付き合った男性との関係に綻びができ始めたからだった。

 新しくレイナさんと付き合い出した男性の家は、彼女の実家よりも財力が低いらしく。タローさんと婚約していたときのように、欲しいものが手に入らない。

 いざ結婚を視野に入れるという段階になって、レイナさんは、付き合っている彼の経済力が大丈夫なのか、途端に不安になったらしい。

 タローさんと婚約していたときは彼の心を求めたくせに、いざ誰かの心が手に入ると、それだけでは物足りなくなったのかもしれない。

 そんなとき、レイナさんは友人伝いにタローさんに恋人ができたという噂を聞きつけた。しかも相手は、なんの肩書きもない、私という一般庶民。

 レイナさんは、タローさんが選んだ相手が私であることに納得できなかったんだと思う。なんとしても彼を取り戻したかったのだろうけど、不純な動機でやってきた彼女にタローさんの心は靡かなかった。

 最終的にはレイナさんのお父さんに連絡をとって、コンシェルジュの前で駄々をこねる彼女を引き取ってもらったのだとか。

「今思うと、婚約中の麗奈には悪いことをしたと思う。彼女に対しては、ハナちゃんを求めるほどの必死さがなかったから」

 途中途中で私の反応を窺いながら話していたタローさんが、全てを打ち明け終わったあとに少し頼りなさげに笑う。それから、私が薬指から引き抜いて渡した指輪をジャケットのポケットから取り出して、ふっと息を漏らした。

「自分でもおかしいと思うんだけど、今の俺はハナちゃんに指輪を返されかけてすごく焦ってるんだよ。質屋に売れるくらいのものを突き返されてもなんとも思わなかったし、これは正式なエンゲージリングですらないのに……」

 タローさんが、指先でつまんだ指輪から私へと視線を移す。

「いろいろと余裕がなくて恥ずかしいんだけど、ハナちゃんが良ければ、もう一度これをもらってくれる?」

 僅かに眉根を寄せたタローさんが、私の意志を確かめるように首を傾げる。指輪を差し出す彼は、いつもよりも少し憂いを帯びた目をしているけれど、余裕がないようには見えない。

「タローさんが余裕ないなんて嘘ですよね」

 ふふっと笑いながら、手の甲を上にして左手を差し出すと、タローさんがその指先を手のひらでぎゅっと包んだ。

「嘘じゃないよ。今これを受け取ったら、二度と外させないつもりだけど。それでもいい?」

 私の顔を覗き込むように見つめるタローさんの瞳が蠱惑的に揺れる。僅かに口端を引き上げた彼の表情は、薄く微笑んでいるようにしか見えない。

 ほら、やっぱり。余裕がないなんて嘘だ。それでも、タローさんが言葉や態度で示してくれる私への想いや独占欲がたまらなく嬉しい。

「もう二度と、外さないで済むようにしてください。私はタローさんがくれる指輪しか欲しくないから」

 この先ずっと、タローさんだけは譲れない。

 ドキドキしながら精いっぱいのワガママを伝えると、タローさんが私の左手の薬指に指輪を嵌めた。戻ってきたそれを見つめて喜びに浸ったのも束の間、タローさんが私を抱き寄せる。距離が近付けばすぐ、お互いの熱を求めて唇が重なる。

「ごめん、ハナちゃん。パスタを作るのはあとでいいかな?」

 何度目かのキスのあとに、タローさんが熱い吐息とともにささやいた。そういえば、今日ここに来た目的は、タローさんと一緒にごはんを食べるためだった。

 けれど、この短時間で起きた出来事とタローさんとのキスで、胸も頭の許容量もいっぱいで。私のほうにも、パスタ作りを手伝う余裕なんてない。

 小さく頷いた私に、タローさんがもう一度優しく口付ける。キスしながら私が羽織っていたカーディガンを脱がすと、タローさんが私の身体を軽々抱き上げた。

「続きは向こうで」

 甘く掠れた声でささやかれて、身体が中心部からカーッと火照っていく。

 寝室まで大切に運ばれた私の身体は、タローさんの熱っぽい眼差しに惑わされ。柔らかなベッドに、背中から沈んだ。

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