【コミカライズ配信中!】社長、この偽婚約はいつまで有効ですか?(原題:花束と婚約指輪)
Promise.Ⅷ〈3〉
タローさんのマンションの最寄り駅近くのカフェに入ってカフェラテを飲んでいると、テーブルについてから三十分ほどして彼から連絡があった。
まもなく到着するというメッセージに、温くなったカフェラテを慌てて飲み干して店を飛び出す。
速足で駅まで戻って、タクシー乗り場のあるロータリーで待っていると、ほどなくしてタローさんの白の高級車が私の前に止まった。シートベルトを外したタローさんが、運転席から腕を伸ばして助手席のドアを内側から開けてくれる。
「待たせてごめんね」
「全然です」
助手席でシートベルトを締めながら笑いかけると、タローさんが私の頭に手をのせた。そのまま柔らかく笑いかけられて、じわっと胸が熱くなる。
「ごはん、何作りますか?」
「遅くなっちゃったから、簡単にできるものがいいよね。パスタでよかったら作ろうか」
シートベルトを締め直して車を発進させたタローさんが、さらっとさりげなくそんなことを言うから、驚嘆の声が漏れた。
「え、タローさんが作ってくれるんですか?」
「作るって言っても簡単なのだよ? 今日は急にうちで食べようって誘っちゃったし」
タローさんがフロントガラスの向こうを見ながら、小さく苦笑いする。
この前の誕生日の流れで、てっきり私が料理をするのかと思っていたから、彼の口からこぼれた提案に拍子抜けした。
ついでに、カフェで待っているあいだ、今日はタローさんに何を作ろうかな、なんて妄想してしまっていた自分がちょっと恥ずかしくなった。タローさんは何の自慢もアピールもしてこないけど、料理のできる人なのだ。
「どんなパスタ作ってくれるんですか?」
「だから、簡単なやつだよ。ベーコンとキャベツを入れたオイルパスタとか」
「ペペロンチーノみたいなやつですか?」
「そうなればいいけど、鷹の爪はないから、ペペロンチーノにはなりきれないやつね」
タローさんは謙遜気味に笑うけど、想像するだけで美味しそうだ。
「楽しみにしてます」
キッチンに立つタローさんの姿とホカホカのパスタを想像してにやけていると、横目で私を見た彼が、緩く握った左手の人差し指で、コツンと私の額を小突いた。
「ハナちゃんも手伝ってね」
「はーい」
額を撫でながら笑ったとき、車がタローさんのマンションに到着した。
「あ、ひとつだけ先に言っとくと」
駐車場からコンシェルジュのある階に繋がるエレベーターに乗り込むとき、タローさんが私の肩に手をのせながら、ひとこと断りを入れてきた。
「今日はこの前みたいに片付いてないから。がっかりしないでください。ちょっと、急だったから」
背中からぼそりと聞こえてきた声に振り向くと、タローさんがやや俯き加減にエレベーターの行き先ボタンに指を伸ばす。
この前家に招かれたのは、タローさんの誕生日だった。玄関に足を踏み入れた瞬間から、掃除が行き届いている綺麗な部屋だと思ったけれど。
「この前は、事前にお掃除してくれてたんですか?」
「……」
無言で足元に視線を落とす、タローさんの耳の後ろがほんのりと赤い。
タローさんの反応からして、事前のお掃除を頑張ってくれたのかもしれない。
オシャレで高そうな服ばかり着ているタローさんが掃除をしているところなんて、まるで想像できないけれど。私を招くために頑張ってくれたのかもしれないと思うと、優雅な雰囲気のタローさんとのギャップに萌えた。
「がっかりなんてしませんよ。むしろ、ちょっと散らかってるくらいのほうが安心します。タローさん、いつも完璧だから」
「あんまり買い被らないで。今日だって、見栄を張るよりも、少しでもハナちゃんに会いたいって気持ちが勝ったんだから」
いつも余裕そうな表情ばかり浮かべているタローさんが、恥ずかしそうに眉根を寄せる。
完璧に見えるタローさんにも、私と変わらない感情的な気持ちがあるのだと思ったら嬉しくて、愛おしくて。ここが防犯カメラのついたエレベーターの中でなければ、思いきり抱きつきたいくらいだった。
抱きつく代わりに、タローさんの左手にそっと触れる。ちらっと横を見ると、タローさんの胸元でシルバーのネクタイピンが光っていた。私がタローさんの誕生日にプレゼントしたものだ。
「それ、本当に付けてくれてるんですね」
くすぐったい気持ちでうつむくと、タローさんが繋いだ手に力を込める。
「毎日付けるって約束したから」
タローさんが、私に視線を移して目を細める。宙で絡み合うお互いの視線が、やけに甘ったるい。
タローさんの右手が私の頭を撫でたとき、コンシェルジュ階に着いたエレベーターのドアが開いた。それと同時に、もどかしそうに離れていくタローさんの手が熱くて。心音が高鳴る。
「行こうか」
タローさんが、私の手を引く。エレベーターホールからコンシェルジュに繋がる短い廊下を歩いているあいだも、僅かに残った甘い余韻が、私の胸をドキドキさせた。
マンションの住居階に続くエレベーターは、住人のためのセキュリティを配慮して置かれたコンシェルジュのカウンターを抜けた先にある。タローさんとともにコンシェルジュのカウンターのそばに差し掛かったとき、ヒステリックに話す女性の声が聞こえてきた。
コンシェルジュのカウンターにいるのは、以前ここに来たときと同じ、黒いスーツを着た三十代くらいの男性だ。この前見たときは、畏まった態度で礼儀正しく私に頭を下げてくれた彼が、今は女性の剣幕に押されてたじたじになっている。
「何かあったんですかね?」
カウンターを挟んで揉めている女性とコンシェルジュの男性に視線を向けながらタローさんに話しかけると、私たちに気付いたコンシェルジュの男性が縋るような眼差しでこっちを……というよりは、タローさんのことを見てきた。
コンシェルジュの男性の不自然な動きに気付いたのか、カウンターでヒステリックに声をあげていた女性もこちらを振り返る。その瞬間、タローさんの頬があからさまにピクリと引き攣った。
「蒼大郎!」
「麗奈?」
歓喜に瞳を揺らす女性と、不快げに眉を寄せたタローさんの声が重なる。
レイナ――?
タローさんが呼んだ女性の名前に、背筋が冷えた。薄いグレーの、清楚なシフォンワンピースを着た女性が、ワンピースと同色のパンプスのヒールを打ち鳴らしながら近づいて来る。
この女性が、タローさんの元婚約者?
やや釣り上がった眉と目尻が気の強そうな印象を与えるけれど、お嬢様っぽい上品さのある綺麗な人だ。一直線に歩み寄ってきたレイナさんが、タローさんと私が手を繋いでいることに気付いて、綺麗な顔を顰める。
「あぁ、貴女のことだったのね。ミナミが言ってた、蒼大郎のそばをうろついてる女って」
粘りつくような声でそう言ったレイナさんが、私に汚いモノでも見るような視線を向ける。嫌悪と悪意しか感じられないレイナさんの態度に、タローさんと繋ぐ手の指先が震えた。その手を、タローさんがぎゅっと握りしめる。
「挨拶もなしに、いきなり失礼だね。麗奈こそ、ここに何しに来たの?」
突然現れたレイナさんに対して、タローさんの態度は冷たかった。その態度に、少し安堵する。
「ミナミから話を聞いたから。私との婚約破棄が決まってから、蒼大郎のそばに付き纏ってる女がいるって。元々私が行く予定だったパーティーにこの子を連れて行ったって本当なの?」
「麗奈には関係ないよ。わざわざそんなことを言うためだけに、ここまで押しかけてきたの? 行こう、ハナちゃん」
タローさんに冷たい眼差しを向けられたレイナさんが、怒りを露わに顔を赤くする。
「その子のこと、随分気に入ってるみたいね。この前ミナミがモデルをやったウエディングドレスの新作発表会にも、その子を同行させたんでしょ?」
そういえば、レイナさんは、Tateuchi Bridalのゲストハウスオープンイベントで、新婦役のモデルを務めていたミナミさんと友達なんだっけ。
数週間前に連れて行ってもらったあのステージに、ミナミさんが出ていたとは気付かなかった。それに、タローさんと同行する私の姿が見られていたことも。
眉間を寄せて、目尻をつりあげているレイナさんにちらっと視線を向けると、彼女が唇を噛みながら怖い目で私を睨んできた。
「貴女、平凡な顔してるくせに、いつ、どうやって蒼大郎に近付いたの? 見たところ、肩書きなんてない一般人でしょ。私が蒼大郎と婚約しているときも、こんなふうにふたりで会ってたの?」
急に、レイナさんの怒りの矛先が私に向かってきて、恐怖で心臓が縮み上がる。
「私、は……」
「彼女には、何の責任もないよ。変な言いがかりをつけて怖がらせないで。仮にも婚約中に好き勝手してたのは、俺じゃなくて君のほうでしょ?」
レイナさんの眼差しに震えていると、タローさんが私の肩を庇うように抱いた。
「蒼大郎が私との婚約に乗り気じゃなかったのは、この子のせい? もしそうだとしたら、話は別でしょ。貴方のお父様は、婚約が破談になった理由が私のほうにあると思っていたみたいだけど」
含みを持たせた言い方をするレイナさんに、タローさんが苦々し気な視線を向ける。
「麗奈は何がしたくてここに来たの? もう君と俺とは無関係なんだから、勝手に家に押しかけてこられても困るんだけど」
「蒼大郎ともう一度きちんと話をしたいと思ったから。婚約破棄した途端にその子が蒼大郎のそばに現れたって聞いて、納得ができないの。婚約中に蒼大郎のほうにも不貞があったのだとしたら、おあいこなのかなって」
レイナさんが私に意味ありげな視線を向けて、自信たっぷりに口角を引き上げる。しばらくレイナさんのことを無言で見つめていたタローさんだったけれど、やがて諦めたような深いため息を吐いた。
「ハナちゃん、悪いんだけど、先に部屋にあがっておいてもらってもいい?」
スーツのポケットから部屋のカードキーを取り出しながら、タローさんが私に優しく微笑みかける。
私に話すときの声音も、柔らかな笑顔もいつものタローさんのものに違いないのに、どことなく憂いの色を帯びているように見える彼の瞳が私を少し不安にさせた。
「でも……」
「心配しないで。ハナちゃんの悪いようにはならないから」
タローさんが私の頭を抱いて胸元に引き寄せる。それから私を安心させるようにぎゅっと抱きしめると、繋いでいた手を離して部屋のカードキーを握らせた。
「行って、ハナちゃん」
タローさんが私の背中を軽く押して、住居階にのエレベーターへと促す。後ろ髪をひかれる思いでその場を離れようとしたとき、レイナさんが挑戦的な目で私を睨んでつぶやいた。
「勘違いしないでね。蒼大郎は返してもらうから」
「ハナちゃん、行って」
レイナさんの言葉に反応して立ち止まった私に、タローさんが普段よりもややきつい口調で指示を出す。私は小さく頷くと、ドアを開けて待っているエレベーターの中に逃げ込むように乗り込んだ。
ハイスピードで上昇していくエレベーターの中で、タローさんから受け取ったカードキーを握りしめる。ほんの数十分前まで、タローさんの隣で甘くて幸せな時間を感じていたはずなのに。まさかのレイナさんの出現と、彼女から向けられた敵意にカードキーを持つ手が震えた。
タローさんとレイナさんの婚約は、数ヶ月前に破談になっているはずだ。それなのに、今さら現れて「返してもらう」なんて。訳が分からない。ホテルのバーで初めてタローさんに出会ったとき、彼はレイナさんから婚約指輪を突き返されたみたいだったのに。さっきの雰囲気だと、まるでレイナさんのほうがタローさんに執着しているみたいだった。
ぐるぐると考えているうちに、エレベーターがタローさんの部屋のフロアで止まった。エレベーターを降りると、のろのろと廊下を歩いてタローさんの部屋へと向かう。だけど、いざタローさんの部屋の前に着いてカードキーを差し込もうとしたとき、急に言いようのない不安に襲われた。
『蒼大郎は返してもらうから』
不意に、ここにいるはずのないレイナさんの声が耳に蘇る。自信たっぷりに微笑む彼女の綺麗な顔が、元婚約者の隣で勝ち誇ったように口元を引き上げていたレイナの顔と重なった。
『責任をとらなければいけないから、ハナとは結婚できない』
『ハナちゃんも素敵な人と出会えるといいね』
レイナさんの声とともに、裏切りと婚約破棄の言葉を告げてきた元婚約者の顔や私を蹴落としておいて悪びれなく笑っていたレイナの顔が脳裏に浮かび上がってくる。
元婚約者のことはもうどうだっていい。好きだったときの感情のカケラすら残っていない。でも、元婚約者とレイナにされたことは、私の中で簡単には消せないトラウマになっている。
両手で包むように部屋のカードキーを握りしめると、右手の指先が左手の指輪に触れた。貴金属の異物感が、ほんの少しだけ掻き乱れそうになる心を落ち着かせてくれる。
目を閉じて、指輪を渡してくれたときのことを想った。
タローさんは優しい。タローさんはたぶん、私が思っているよりもずっと私のことを想ってくれている。タローさんが元婚約者とは違うということを、私が一番よくわかっている。
だけど——……。もしものときのことを想像したら、怖い。もし、タローさんから切り捨てられるようなことがあったら……。
そんなこと考えたくもないのに、考え出したら止まらない。震える手足に力が入らなくなって、膝からガクンと頽れる。
「ハナちゃん?」
部屋のドアの前で倒れかけた私の耳に届いたのは、心配そうなタローさんの声だった。
「まだ部屋に入ってなかったんだね。顔色悪いけど、大丈夫?」
いつのまにそばに来ていたのだろう。気配に気付かなかった。
私の身体を支えるように抱きしめたタローさんが、横から顔を覗き込んでくる。タローさんが、そばに居て抱きしめてくれている。そのことがとても嬉しいのに、私の心の中は不安でいっぱいだった。
「レイナさんは?」
「帰ったよ」
「タローさんのこと返してもらう、って……」
「俺は元から麗奈の所有物なんかじゃないよ」
タローさんが、泣きそうに見上げる私の頭に手をのせる。
「部屋に入ろう。一緒にパスタ作るでしょ?」
にこっと笑ったタローさんが、子どもをあやすみたいに私を撫でる。
タローさんが私を気遣ってくれているのはわかる。余計な心配をさせないようにしているのも。だけど、優しいその行為によって大事なことを誤魔化されているような気がした。
「もし、いずれこの関係が続けられなくなるってわかっているなら、今終わらせてください」
タローさんの胸を押しのけて距離を取ると、彼が驚いたように目を見開いた。
「ハナちゃん?」
「私、タローさんのことが好きです」
左手の指輪を右手の指でなぞりながら、タローさんを真っ直ぐに見つめる。
「タローさんの優しさに浮かれて期待して、会うたびにどんどん好きになって。それでまたもしダメになったら……それを考えたら怖いんです」
タローさんに出会ってから今まで、彼の優しさに甘えてずっと浮かれていたけれど。そもそも、ここに指輪を嵌めてタローさんの隣に立つのは私ではなくてレイナさんだった。
指輪をなぞる右手の動きを止めると、タローさんがくれたシルバーリングを薬指から抜き取る。
「今なら、まだギリギリ大丈夫です。タローさんとお別れしても、ちゃんと私の日常に戻れます。だから——」
最後は、喉が詰まってうまく言葉が出なかった。
「今まで、ありがとうございました」
外した指輪を手のひらにのせて、タローさんに差し出す。頬が引き攣るのを誤魔化しながら、必死に笑いかけようとしたそのとき。私を見下ろしていたタローさんが、怒ったようにその瞳を揺らした。
「ハナちゃんが大丈夫でも、俺は大丈夫じゃないよ。そんな一方的な別れ話を、俺があっさり受け入れると思う?」
掠れた声でそう言うと、タローさんが私の手から指輪を奪って、私の身体を抱き寄せる。
「ごめんね。俺のせいで、ハナちゃんに嫌なことを思い出させちゃったんだよね」
ぴったりとくっついて私の肩口に頭を預けたタローさんが、ため息交じりにつぶやいて、背中に回した腕に力を込めた。
「違います。タローさんは何も悪くなくて、私が……」
私に、自信がないから——。
「ダメになんかならないよ」
言葉を飲み込んだ私の耳元で、タローさんがささやく。
「言ったよね。いつか手作りのブーケを持ってウェディングドレスを着たハナちゃんの隣に立つのは俺がいいって。それは、絶対に譲れない」
付き合うときに、タローさんが私にくれたプロポーズ紛いの告白。あのとき私の胸をひどく高鳴らせた言葉が、再び私の心を奪う。
そうだ。私だって、もう譲りたくない。私も、いつか手作りのブーケを持って立つのはタローさんの隣がいい。それ以外は考えられない。
「タローさん。今終わらせてくださいって言ったこと、まだ取り消せますか?」
そっと視線を上げると、タローさんが唇で綺麗な弧を描くようにして優美に微笑んだ。
「取り消すも何も、初めから受け付けた覚えなんてないよ」
軽く細められたタローさんの瞳が、悪戯っぽく揺れる。ぎゅっと胸の奥が狭まるのを感じて目を伏せると、タローさんが私の顎をつかんで持ち上げる。
不敵な笑みを浮かべるタローさんにドキッと胸を揺らしたとき、彼が噛みつくみたいに私の唇を塞いだ。
まもなく到着するというメッセージに、温くなったカフェラテを慌てて飲み干して店を飛び出す。
速足で駅まで戻って、タクシー乗り場のあるロータリーで待っていると、ほどなくしてタローさんの白の高級車が私の前に止まった。シートベルトを外したタローさんが、運転席から腕を伸ばして助手席のドアを内側から開けてくれる。
「待たせてごめんね」
「全然です」
助手席でシートベルトを締めながら笑いかけると、タローさんが私の頭に手をのせた。そのまま柔らかく笑いかけられて、じわっと胸が熱くなる。
「ごはん、何作りますか?」
「遅くなっちゃったから、簡単にできるものがいいよね。パスタでよかったら作ろうか」
シートベルトを締め直して車を発進させたタローさんが、さらっとさりげなくそんなことを言うから、驚嘆の声が漏れた。
「え、タローさんが作ってくれるんですか?」
「作るって言っても簡単なのだよ? 今日は急にうちで食べようって誘っちゃったし」
タローさんがフロントガラスの向こうを見ながら、小さく苦笑いする。
この前の誕生日の流れで、てっきり私が料理をするのかと思っていたから、彼の口からこぼれた提案に拍子抜けした。
ついでに、カフェで待っているあいだ、今日はタローさんに何を作ろうかな、なんて妄想してしまっていた自分がちょっと恥ずかしくなった。タローさんは何の自慢もアピールもしてこないけど、料理のできる人なのだ。
「どんなパスタ作ってくれるんですか?」
「だから、簡単なやつだよ。ベーコンとキャベツを入れたオイルパスタとか」
「ペペロンチーノみたいなやつですか?」
「そうなればいいけど、鷹の爪はないから、ペペロンチーノにはなりきれないやつね」
タローさんは謙遜気味に笑うけど、想像するだけで美味しそうだ。
「楽しみにしてます」
キッチンに立つタローさんの姿とホカホカのパスタを想像してにやけていると、横目で私を見た彼が、緩く握った左手の人差し指で、コツンと私の額を小突いた。
「ハナちゃんも手伝ってね」
「はーい」
額を撫でながら笑ったとき、車がタローさんのマンションに到着した。
「あ、ひとつだけ先に言っとくと」
駐車場からコンシェルジュのある階に繋がるエレベーターに乗り込むとき、タローさんが私の肩に手をのせながら、ひとこと断りを入れてきた。
「今日はこの前みたいに片付いてないから。がっかりしないでください。ちょっと、急だったから」
背中からぼそりと聞こえてきた声に振り向くと、タローさんがやや俯き加減にエレベーターの行き先ボタンに指を伸ばす。
この前家に招かれたのは、タローさんの誕生日だった。玄関に足を踏み入れた瞬間から、掃除が行き届いている綺麗な部屋だと思ったけれど。
「この前は、事前にお掃除してくれてたんですか?」
「……」
無言で足元に視線を落とす、タローさんの耳の後ろがほんのりと赤い。
タローさんの反応からして、事前のお掃除を頑張ってくれたのかもしれない。
オシャレで高そうな服ばかり着ているタローさんが掃除をしているところなんて、まるで想像できないけれど。私を招くために頑張ってくれたのかもしれないと思うと、優雅な雰囲気のタローさんとのギャップに萌えた。
「がっかりなんてしませんよ。むしろ、ちょっと散らかってるくらいのほうが安心します。タローさん、いつも完璧だから」
「あんまり買い被らないで。今日だって、見栄を張るよりも、少しでもハナちゃんに会いたいって気持ちが勝ったんだから」
いつも余裕そうな表情ばかり浮かべているタローさんが、恥ずかしそうに眉根を寄せる。
完璧に見えるタローさんにも、私と変わらない感情的な気持ちがあるのだと思ったら嬉しくて、愛おしくて。ここが防犯カメラのついたエレベーターの中でなければ、思いきり抱きつきたいくらいだった。
抱きつく代わりに、タローさんの左手にそっと触れる。ちらっと横を見ると、タローさんの胸元でシルバーのネクタイピンが光っていた。私がタローさんの誕生日にプレゼントしたものだ。
「それ、本当に付けてくれてるんですね」
くすぐったい気持ちでうつむくと、タローさんが繋いだ手に力を込める。
「毎日付けるって約束したから」
タローさんが、私に視線を移して目を細める。宙で絡み合うお互いの視線が、やけに甘ったるい。
タローさんの右手が私の頭を撫でたとき、コンシェルジュ階に着いたエレベーターのドアが開いた。それと同時に、もどかしそうに離れていくタローさんの手が熱くて。心音が高鳴る。
「行こうか」
タローさんが、私の手を引く。エレベーターホールからコンシェルジュに繋がる短い廊下を歩いているあいだも、僅かに残った甘い余韻が、私の胸をドキドキさせた。
マンションの住居階に続くエレベーターは、住人のためのセキュリティを配慮して置かれたコンシェルジュのカウンターを抜けた先にある。タローさんとともにコンシェルジュのカウンターのそばに差し掛かったとき、ヒステリックに話す女性の声が聞こえてきた。
コンシェルジュのカウンターにいるのは、以前ここに来たときと同じ、黒いスーツを着た三十代くらいの男性だ。この前見たときは、畏まった態度で礼儀正しく私に頭を下げてくれた彼が、今は女性の剣幕に押されてたじたじになっている。
「何かあったんですかね?」
カウンターを挟んで揉めている女性とコンシェルジュの男性に視線を向けながらタローさんに話しかけると、私たちに気付いたコンシェルジュの男性が縋るような眼差しでこっちを……というよりは、タローさんのことを見てきた。
コンシェルジュの男性の不自然な動きに気付いたのか、カウンターでヒステリックに声をあげていた女性もこちらを振り返る。その瞬間、タローさんの頬があからさまにピクリと引き攣った。
「蒼大郎!」
「麗奈?」
歓喜に瞳を揺らす女性と、不快げに眉を寄せたタローさんの声が重なる。
レイナ――?
タローさんが呼んだ女性の名前に、背筋が冷えた。薄いグレーの、清楚なシフォンワンピースを着た女性が、ワンピースと同色のパンプスのヒールを打ち鳴らしながら近づいて来る。
この女性が、タローさんの元婚約者?
やや釣り上がった眉と目尻が気の強そうな印象を与えるけれど、お嬢様っぽい上品さのある綺麗な人だ。一直線に歩み寄ってきたレイナさんが、タローさんと私が手を繋いでいることに気付いて、綺麗な顔を顰める。
「あぁ、貴女のことだったのね。ミナミが言ってた、蒼大郎のそばをうろついてる女って」
粘りつくような声でそう言ったレイナさんが、私に汚いモノでも見るような視線を向ける。嫌悪と悪意しか感じられないレイナさんの態度に、タローさんと繋ぐ手の指先が震えた。その手を、タローさんがぎゅっと握りしめる。
「挨拶もなしに、いきなり失礼だね。麗奈こそ、ここに何しに来たの?」
突然現れたレイナさんに対して、タローさんの態度は冷たかった。その態度に、少し安堵する。
「ミナミから話を聞いたから。私との婚約破棄が決まってから、蒼大郎のそばに付き纏ってる女がいるって。元々私が行く予定だったパーティーにこの子を連れて行ったって本当なの?」
「麗奈には関係ないよ。わざわざそんなことを言うためだけに、ここまで押しかけてきたの? 行こう、ハナちゃん」
タローさんに冷たい眼差しを向けられたレイナさんが、怒りを露わに顔を赤くする。
「その子のこと、随分気に入ってるみたいね。この前ミナミがモデルをやったウエディングドレスの新作発表会にも、その子を同行させたんでしょ?」
そういえば、レイナさんは、Tateuchi Bridalのゲストハウスオープンイベントで、新婦役のモデルを務めていたミナミさんと友達なんだっけ。
数週間前に連れて行ってもらったあのステージに、ミナミさんが出ていたとは気付かなかった。それに、タローさんと同行する私の姿が見られていたことも。
眉間を寄せて、目尻をつりあげているレイナさんにちらっと視線を向けると、彼女が唇を噛みながら怖い目で私を睨んできた。
「貴女、平凡な顔してるくせに、いつ、どうやって蒼大郎に近付いたの? 見たところ、肩書きなんてない一般人でしょ。私が蒼大郎と婚約しているときも、こんなふうにふたりで会ってたの?」
急に、レイナさんの怒りの矛先が私に向かってきて、恐怖で心臓が縮み上がる。
「私、は……」
「彼女には、何の責任もないよ。変な言いがかりをつけて怖がらせないで。仮にも婚約中に好き勝手してたのは、俺じゃなくて君のほうでしょ?」
レイナさんの眼差しに震えていると、タローさんが私の肩を庇うように抱いた。
「蒼大郎が私との婚約に乗り気じゃなかったのは、この子のせい? もしそうだとしたら、話は別でしょ。貴方のお父様は、婚約が破談になった理由が私のほうにあると思っていたみたいだけど」
含みを持たせた言い方をするレイナさんに、タローさんが苦々し気な視線を向ける。
「麗奈は何がしたくてここに来たの? もう君と俺とは無関係なんだから、勝手に家に押しかけてこられても困るんだけど」
「蒼大郎ともう一度きちんと話をしたいと思ったから。婚約破棄した途端にその子が蒼大郎のそばに現れたって聞いて、納得ができないの。婚約中に蒼大郎のほうにも不貞があったのだとしたら、おあいこなのかなって」
レイナさんが私に意味ありげな視線を向けて、自信たっぷりに口角を引き上げる。しばらくレイナさんのことを無言で見つめていたタローさんだったけれど、やがて諦めたような深いため息を吐いた。
「ハナちゃん、悪いんだけど、先に部屋にあがっておいてもらってもいい?」
スーツのポケットから部屋のカードキーを取り出しながら、タローさんが私に優しく微笑みかける。
私に話すときの声音も、柔らかな笑顔もいつものタローさんのものに違いないのに、どことなく憂いの色を帯びているように見える彼の瞳が私を少し不安にさせた。
「でも……」
「心配しないで。ハナちゃんの悪いようにはならないから」
タローさんが私の頭を抱いて胸元に引き寄せる。それから私を安心させるようにぎゅっと抱きしめると、繋いでいた手を離して部屋のカードキーを握らせた。
「行って、ハナちゃん」
タローさんが私の背中を軽く押して、住居階にのエレベーターへと促す。後ろ髪をひかれる思いでその場を離れようとしたとき、レイナさんが挑戦的な目で私を睨んでつぶやいた。
「勘違いしないでね。蒼大郎は返してもらうから」
「ハナちゃん、行って」
レイナさんの言葉に反応して立ち止まった私に、タローさんが普段よりもややきつい口調で指示を出す。私は小さく頷くと、ドアを開けて待っているエレベーターの中に逃げ込むように乗り込んだ。
ハイスピードで上昇していくエレベーターの中で、タローさんから受け取ったカードキーを握りしめる。ほんの数十分前まで、タローさんの隣で甘くて幸せな時間を感じていたはずなのに。まさかのレイナさんの出現と、彼女から向けられた敵意にカードキーを持つ手が震えた。
タローさんとレイナさんの婚約は、数ヶ月前に破談になっているはずだ。それなのに、今さら現れて「返してもらう」なんて。訳が分からない。ホテルのバーで初めてタローさんに出会ったとき、彼はレイナさんから婚約指輪を突き返されたみたいだったのに。さっきの雰囲気だと、まるでレイナさんのほうがタローさんに執着しているみたいだった。
ぐるぐると考えているうちに、エレベーターがタローさんの部屋のフロアで止まった。エレベーターを降りると、のろのろと廊下を歩いてタローさんの部屋へと向かう。だけど、いざタローさんの部屋の前に着いてカードキーを差し込もうとしたとき、急に言いようのない不安に襲われた。
『蒼大郎は返してもらうから』
不意に、ここにいるはずのないレイナさんの声が耳に蘇る。自信たっぷりに微笑む彼女の綺麗な顔が、元婚約者の隣で勝ち誇ったように口元を引き上げていたレイナの顔と重なった。
『責任をとらなければいけないから、ハナとは結婚できない』
『ハナちゃんも素敵な人と出会えるといいね』
レイナさんの声とともに、裏切りと婚約破棄の言葉を告げてきた元婚約者の顔や私を蹴落としておいて悪びれなく笑っていたレイナの顔が脳裏に浮かび上がってくる。
元婚約者のことはもうどうだっていい。好きだったときの感情のカケラすら残っていない。でも、元婚約者とレイナにされたことは、私の中で簡単には消せないトラウマになっている。
両手で包むように部屋のカードキーを握りしめると、右手の指先が左手の指輪に触れた。貴金属の異物感が、ほんの少しだけ掻き乱れそうになる心を落ち着かせてくれる。
目を閉じて、指輪を渡してくれたときのことを想った。
タローさんは優しい。タローさんはたぶん、私が思っているよりもずっと私のことを想ってくれている。タローさんが元婚約者とは違うということを、私が一番よくわかっている。
だけど——……。もしものときのことを想像したら、怖い。もし、タローさんから切り捨てられるようなことがあったら……。
そんなこと考えたくもないのに、考え出したら止まらない。震える手足に力が入らなくなって、膝からガクンと頽れる。
「ハナちゃん?」
部屋のドアの前で倒れかけた私の耳に届いたのは、心配そうなタローさんの声だった。
「まだ部屋に入ってなかったんだね。顔色悪いけど、大丈夫?」
いつのまにそばに来ていたのだろう。気配に気付かなかった。
私の身体を支えるように抱きしめたタローさんが、横から顔を覗き込んでくる。タローさんが、そばに居て抱きしめてくれている。そのことがとても嬉しいのに、私の心の中は不安でいっぱいだった。
「レイナさんは?」
「帰ったよ」
「タローさんのこと返してもらう、って……」
「俺は元から麗奈の所有物なんかじゃないよ」
タローさんが、泣きそうに見上げる私の頭に手をのせる。
「部屋に入ろう。一緒にパスタ作るでしょ?」
にこっと笑ったタローさんが、子どもをあやすみたいに私を撫でる。
タローさんが私を気遣ってくれているのはわかる。余計な心配をさせないようにしているのも。だけど、優しいその行為によって大事なことを誤魔化されているような気がした。
「もし、いずれこの関係が続けられなくなるってわかっているなら、今終わらせてください」
タローさんの胸を押しのけて距離を取ると、彼が驚いたように目を見開いた。
「ハナちゃん?」
「私、タローさんのことが好きです」
左手の指輪を右手の指でなぞりながら、タローさんを真っ直ぐに見つめる。
「タローさんの優しさに浮かれて期待して、会うたびにどんどん好きになって。それでまたもしダメになったら……それを考えたら怖いんです」
タローさんに出会ってから今まで、彼の優しさに甘えてずっと浮かれていたけれど。そもそも、ここに指輪を嵌めてタローさんの隣に立つのは私ではなくてレイナさんだった。
指輪をなぞる右手の動きを止めると、タローさんがくれたシルバーリングを薬指から抜き取る。
「今なら、まだギリギリ大丈夫です。タローさんとお別れしても、ちゃんと私の日常に戻れます。だから——」
最後は、喉が詰まってうまく言葉が出なかった。
「今まで、ありがとうございました」
外した指輪を手のひらにのせて、タローさんに差し出す。頬が引き攣るのを誤魔化しながら、必死に笑いかけようとしたそのとき。私を見下ろしていたタローさんが、怒ったようにその瞳を揺らした。
「ハナちゃんが大丈夫でも、俺は大丈夫じゃないよ。そんな一方的な別れ話を、俺があっさり受け入れると思う?」
掠れた声でそう言うと、タローさんが私の手から指輪を奪って、私の身体を抱き寄せる。
「ごめんね。俺のせいで、ハナちゃんに嫌なことを思い出させちゃったんだよね」
ぴったりとくっついて私の肩口に頭を預けたタローさんが、ため息交じりにつぶやいて、背中に回した腕に力を込めた。
「違います。タローさんは何も悪くなくて、私が……」
私に、自信がないから——。
「ダメになんかならないよ」
言葉を飲み込んだ私の耳元で、タローさんがささやく。
「言ったよね。いつか手作りのブーケを持ってウェディングドレスを着たハナちゃんの隣に立つのは俺がいいって。それは、絶対に譲れない」
付き合うときに、タローさんが私にくれたプロポーズ紛いの告白。あのとき私の胸をひどく高鳴らせた言葉が、再び私の心を奪う。
そうだ。私だって、もう譲りたくない。私も、いつか手作りのブーケを持って立つのはタローさんの隣がいい。それ以外は考えられない。
「タローさん。今終わらせてくださいって言ったこと、まだ取り消せますか?」
そっと視線を上げると、タローさんが唇で綺麗な弧を描くようにして優美に微笑んだ。
「取り消すも何も、初めから受け付けた覚えなんてないよ」
軽く細められたタローさんの瞳が、悪戯っぽく揺れる。ぎゅっと胸の奥が狭まるのを感じて目を伏せると、タローさんが私の顎をつかんで持ち上げる。
不敵な笑みを浮かべるタローさんにドキッと胸を揺らしたとき、彼が噛みつくみたいに私の唇を塞いだ。
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