【コミカライズ配信中!】社長、この偽婚約はいつまで有効ですか?(原題:花束と婚約指輪)
Promise.Ⅲ〈4〉
「少しは落ち着いた?」
「はい」
私の涙が治まるまで何も言わずに隣に座っていたタローさんが、そっとハンカチを差し出してくる。嫌味なく、さりげなく渡してくれたそれをありがたく受け取ると、私はそっと目元を拭いた。
「ありがとうございます。今度洗ってお返しします」
「いいよ、そんなこと気にしなくて。ドレスにはポケットないでしょ。もらっとく」
「でも……」
反論も虚しく、タローさんが颯爽と私の手からハンカチを抜き取っていく。
「それよりも。ハナちゃんが落ち着いたなら、約束どおり、最後までパーティーに付き合ってもらおうかな。店の業務提携がかかってるんだよね?」
そうだ。私がここに来たのは、麻耶さんの店との業務提携を円滑に進めてもらうため。それなのに、涙してまたもや情けない姿を見せてしまった私を見つめるタローさんの眼差しはとても優しい。
自分が彼との交換条件を交わしてこの場にいることを忘れてしまいそうになるくらいに。
「じゃぁ、行こうか」
先に立ち上がったタローさんが、私をエスコートするように手を差し伸べてくる。私は少し複雑な気持ちで、タローさんの手をとった。
パーティーのメイン会場に戻ったタローさんは、それからもたくさんの人に呼び止められた。
休憩を挟んで少しリフレッシュした私も、だんだんとタローさんの隣を歩くことに慣れてきて。パーティーが終わる頃には、何とか上手に笑顔を作ることができるようになっていた。
「お疲れさま、ハナちゃん。今日は最後まで付き合ってくれてありがとう」
パーティーが終わると、タローさんが私のことを労うように優しく声をかけてきた。
「いえ、こちらこそ。お役に立てていればいいですが……」
「充分だよ。部屋に戻って着替えたら、家まで送っていくから」
パーティー会場の出口のほうへと私の背中を押しながら、タローさんがあたりまえみたいにそう言うからドキリとした。
「いえ。大丈夫です。ちゃんとひとりで帰れますから」
「いや。もうだいぶ遅いし。付き合ってもらったのはこっちだから」
私は麻耶さんの店との業務提携を進めてもらうための交換条件でここに来たのに。送ってもらったりしたら、タローさんの方が割に合わないんじゃないだろうか。
考え込んで困っていたら、タローさんの後ろから彼と同世代くらいと思われる黒のスーツ姿の男性が近づいてきた。
「蒼大郎、帰るのか?」
「あー、基」
親しげに名前を呼び合うふたりは、どうやら知り合いみたいだ。パーティーの間、いろいろな人と挨拶したけれど、この人とは挨拶を交わした覚えがない。
タローさんも背が高いけれど、基と呼ばれた男の人も彼に引けを取らないくらいに背が高かった。高級そうなスーツを身に纏った彼も、タローさんと同じでどこかの企業の重役なのかもしれない。
「今日は大学のときのメンバーが何人か集まってるし、これから二次会行こうかっていう話が出てるんだけど。蒼大郎、お前もどう?」
「あー、せっかくだけど俺は今日はちょっと……」
タローさんが言葉を濁しながら、ちらっと私のほうを見た。そのとき初めて、隣にいる私に気付いたらしい基さんが目を瞬かせる。
「あれ、蒼大郎、彼女とは──」
基さんが何か言いかけて、やめる。それから少し考えたあと、親しげに私に笑いかけてきた。
「君、蒼大郎の新しい彼女? 名前聞いてもいい?」
優しく品のある笑みを浮かべている基さんだったけど、初対面の女相手に話し方が軽い。
扱いに慣れているんだろうし、実際にモテるんだろうな。
背の高い基さんを見上げて黙っていたら、タローさんが私を庇うように基さんと私の間に立った。
「彼女は今日だけ付き合ってもらっただけで、そういうんじゃないから」
タローさんの背中しか見えない私には、彼がどんな表情を浮かべているのかわからない。
けれど、基さんに対して否定したタローさんの声はとてもキッパリとしている。それが当然で、そうであるべきなのに、なぜか少し寂しいような気もした。
「へぇ。どういう関係なのか知らないけど、珍しいな。蒼大郎が一緒にいる女の子の肩持つの。付き合ってる彼女や婚約者ですら、隣にいてもあんまり興味なさそうだったのに」
基さんが珍しいものでも見るように、タローさんの横から私を覗き込んできてクスクス笑う。
何の話だろう……。
不思議に思いながらタローさんのことを見たら、彼が珍しく不快げに眉を寄せていた。
「余計なこと言うなよ」
「はいはい。それで、二次会は彼女と一緒に過ごすからパスってことだよな」
「送っていくだけだよ。誤解を与えるような言い方するな」
「へぇー」
タローさんのひとことで、基さんは余計に私に興味を持ったらしい。
含み笑いを浮かべて私とタローさんを交互に見ている基さんは、きっと私たちの関係を勘違いしているのだろう。私はただ、麻耶さんの店との業務提携のために一夜だけの婚約者に扮しているだけなのに。
タローさんと親しげに話す基さんは、まだ公にはなっていないというタローさんとレイナさんの破談を個人的に知っているんだろう。だとしたら、余計な勘違いでタローさんの立場を悪くするのは良くない。
「あの、タローさん。私はひとりで帰れるので、二次会行ってきてください」
「いや、でも……」
「平気です。私は今日、店との業務提携のためにここに来たので。送っていただいたりしたら、その分新たな借りができますし。着替えを取りたいので、さっきの部屋の鍵だけ開けていただけますか?」
パーティーの途中では少し失態も見せてしまったけれど、私だってプライベートと仕事の区別はきっちりつけられる。きっぱりとした口調でそう言うと、タローさんが少し考えてからスーツの内側の胸ポケットに手を入れた。
「わかった。ハナちゃんがそう言うなら、これ」
タローさんが手渡してきたのは、スイートルームのカードキーだった。
「ドレスはハンガーにかけて部屋に置いておいて。業者にクリーニングを頼むから」
「はい」
「ルームキーは、フロントに渡しておいてくれたらいいよ」
「わかりました」
「タクシーを手配しとくから、帰りはそれに乗って」
「いえ、そこまでしていただかなくても……。私、本当にひとりで大丈夫なので」
さすがにそこまでしてもらう義理がない。
慌てて首を横に振ると、タローさんが一度私に手渡した部屋のカードキーを奪い取った。
「だったら、やっぱり送っていくよ」
「ダメですってば。タローさんはちゃんとお友達と二次会に行ってください」
「だったら、ちゃんとタクシーで帰ってね。もう夜遅いから」
「それも大丈夫です。お気遣いは要りません」
カードキーを取り返そうと手を伸ばすと、タローさんがあたしの手首をつかんで引き寄せる。
「ハナちゃん、これは借りとか気遣いとかそういう問題じゃないよ。俺が、こんな遅い時間にハナちゃんのことをひとりで帰せないだけ」
タローさんが真面目な顔付きでそんなことを言うから、胸がドクンと鳴った。
「それでも言うことが聞けないっていうなら、業務提携の話は考え直すけど」
「え!?」
急に真顔でそんな条件を出してくるなんてずるい。私は約束どおり婚約者役を務めたのに。そりゃ、完璧ではなかったけど。
無言で睨み上げる私のことを、タローさんが涼しい顔で見下ろしてくる。全ての権限は自分にある、と。タローさんの目がそう言っていた。
「ハナちゃん? だっけ。適当なとこで諦めて言うこと聞いといたほうがいいよ。こいつ、自分的ポリシーはなかなか譲らないから」
私たちの様子を端から見ていた基さんが、愉しげに口元を歪めながら言葉を挟んでくる。
「基」
タローさんが、牽制するような低い声で呼ぶ。けれど基さんのほうは、タローさんの反応を気にするどころか、彼の一挙一動を観察して楽しんでいるみたいだった。
「ハナちゃん、気にせずタクシー手配してもらいなよ。蒼大郎は昔っから根が紳士だから、夜に女の子を一人で歩いて帰らせるとかできないんだよ」
「基、余計なこと言うなって」
タローさんが、不快げに基さんのことを横目で睨む。
「はっきり言ったほうがハナちゃんだって気ぃ遣わないしいいじゃん。体裁整えてかっこつけるから、蒼大郎はよく勘違いされんだよ」
クスクス笑う基さんのことをタローさんが呆れ顔で見つめる。それから、私を振り向いて苦笑いした。
「ごめんね。いろいろデリカシーなくて」
「いえ」
ゆるりと首を横に振って笑いながら、心のどこかで少しガッカリしている自分に気が付いた。
タローさんと基さんのやり取りを聞いて、タローさんが誰に対しても公平に優しいことを知ってしまったからかもしれない。
タローさんが夜道をひとりで帰ろうとする私を気にかけてくれるのは、決して私が特別だからではない。だから遠慮したりせずに、笑顔でこう言うのがきっと正解。
「そういうことなら、お言葉に甘えてタクシーを使わせてもらいます」
思ったとおり、タローさんは私の言葉に安堵したように表情を緩めた。
「じゃぁ、これ」
改めて、タローさんが差し出してきたカードキーを受け取る。
「今日はお疲れさまでした。二次会、楽しんできてください」
「ありがとう。またね、ハナちゃん」
優美に笑いかけてくるタローさんに、ペコリと頭を下げる。
「またね、か……」
私は曖昧なその言葉を口の中で反芻すると、パーティー会場をひとりきりで立ち去った。
◆
着替えるために戻ったスイートルームは、ひとりだと広すぎて、なんだか居心地が悪かった。
ベットルームの隅っこでドレスから私服に着替えたあと、靴を履き替えて、借り物のネックレスとイアリングを外す。それから最後に、左手薬指に嵌めてある高級ブランドの婚約指輪に指をかける。
細かなダイヤがぐるっとあしらわれたリングをつかんで引き上げた指輪が指先から抜け切る寸前、何故かとても名残惜しい気持ちになった。
これは初めから預かり物で、私の手に嵌るべきものなんかじゃないのに。どうかしてる。
頭を振ると、婚約指輪を一思いに薬指から引き抜く。家から持ってきたジュエリーケースに指輪を入れて、ベッドルームの鏡付きの棚の上に置くと、左手が急にものすごく軽くなったような気がした。
顔を上げると、手持ちで一番良いワンピース姿の私が鏡に映る。着ているのは私の一張羅でお気に入りだけれど、そこにのっかる華やかにヘアメイクされた顔は、服と全然合っていない。
メイクは落として、髪型も少し直して帰ったほうがよさそうだ。
私はバスルームの洗面所を借りると、そこにあったアメニティーのメイク落としと洗顔フォームを使って派手目なメイクをざっと落とした。
置いてあった白いフェイスタオルを顔にあてると、ふわふわして気持ちがいい。ゆっくりと水分を拭き取ってタオルをおろすと、バスルームの大きな鏡に見慣れた顔が映っていた。
そう。これが現実の私。
メイクを落とした自分の顔は、私服のワンピースにしっくりとくる。さっきまで、着飾って上層階級のパーティーに紛れ込んでいた女と同一人物とは思えない。
麻耶さんの店との業務提携のため。それとの交換条件で同行させられたパーティーだったけれど、終わってから思うと夢みたいな時間だった。
私の普段の生活からは考えられない、非日常な夢の世界。だけど、夢はおしまい。
鏡を見つめながら、アメニティーの化粧水と乳液を肌に馴染ませると、私物とは違う、強い香料の匂いが鼻を突く。
ほんの少しだけ夢の名残を肌に残して、私はスイートルームを後にした。
「はい」
私の涙が治まるまで何も言わずに隣に座っていたタローさんが、そっとハンカチを差し出してくる。嫌味なく、さりげなく渡してくれたそれをありがたく受け取ると、私はそっと目元を拭いた。
「ありがとうございます。今度洗ってお返しします」
「いいよ、そんなこと気にしなくて。ドレスにはポケットないでしょ。もらっとく」
「でも……」
反論も虚しく、タローさんが颯爽と私の手からハンカチを抜き取っていく。
「それよりも。ハナちゃんが落ち着いたなら、約束どおり、最後までパーティーに付き合ってもらおうかな。店の業務提携がかかってるんだよね?」
そうだ。私がここに来たのは、麻耶さんの店との業務提携を円滑に進めてもらうため。それなのに、涙してまたもや情けない姿を見せてしまった私を見つめるタローさんの眼差しはとても優しい。
自分が彼との交換条件を交わしてこの場にいることを忘れてしまいそうになるくらいに。
「じゃぁ、行こうか」
先に立ち上がったタローさんが、私をエスコートするように手を差し伸べてくる。私は少し複雑な気持ちで、タローさんの手をとった。
パーティーのメイン会場に戻ったタローさんは、それからもたくさんの人に呼び止められた。
休憩を挟んで少しリフレッシュした私も、だんだんとタローさんの隣を歩くことに慣れてきて。パーティーが終わる頃には、何とか上手に笑顔を作ることができるようになっていた。
「お疲れさま、ハナちゃん。今日は最後まで付き合ってくれてありがとう」
パーティーが終わると、タローさんが私のことを労うように優しく声をかけてきた。
「いえ、こちらこそ。お役に立てていればいいですが……」
「充分だよ。部屋に戻って着替えたら、家まで送っていくから」
パーティー会場の出口のほうへと私の背中を押しながら、タローさんがあたりまえみたいにそう言うからドキリとした。
「いえ。大丈夫です。ちゃんとひとりで帰れますから」
「いや。もうだいぶ遅いし。付き合ってもらったのはこっちだから」
私は麻耶さんの店との業務提携を進めてもらうための交換条件でここに来たのに。送ってもらったりしたら、タローさんの方が割に合わないんじゃないだろうか。
考え込んで困っていたら、タローさんの後ろから彼と同世代くらいと思われる黒のスーツ姿の男性が近づいてきた。
「蒼大郎、帰るのか?」
「あー、基」
親しげに名前を呼び合うふたりは、どうやら知り合いみたいだ。パーティーの間、いろいろな人と挨拶したけれど、この人とは挨拶を交わした覚えがない。
タローさんも背が高いけれど、基と呼ばれた男の人も彼に引けを取らないくらいに背が高かった。高級そうなスーツを身に纏った彼も、タローさんと同じでどこかの企業の重役なのかもしれない。
「今日は大学のときのメンバーが何人か集まってるし、これから二次会行こうかっていう話が出てるんだけど。蒼大郎、お前もどう?」
「あー、せっかくだけど俺は今日はちょっと……」
タローさんが言葉を濁しながら、ちらっと私のほうを見た。そのとき初めて、隣にいる私に気付いたらしい基さんが目を瞬かせる。
「あれ、蒼大郎、彼女とは──」
基さんが何か言いかけて、やめる。それから少し考えたあと、親しげに私に笑いかけてきた。
「君、蒼大郎の新しい彼女? 名前聞いてもいい?」
優しく品のある笑みを浮かべている基さんだったけど、初対面の女相手に話し方が軽い。
扱いに慣れているんだろうし、実際にモテるんだろうな。
背の高い基さんを見上げて黙っていたら、タローさんが私を庇うように基さんと私の間に立った。
「彼女は今日だけ付き合ってもらっただけで、そういうんじゃないから」
タローさんの背中しか見えない私には、彼がどんな表情を浮かべているのかわからない。
けれど、基さんに対して否定したタローさんの声はとてもキッパリとしている。それが当然で、そうであるべきなのに、なぜか少し寂しいような気もした。
「へぇ。どういう関係なのか知らないけど、珍しいな。蒼大郎が一緒にいる女の子の肩持つの。付き合ってる彼女や婚約者ですら、隣にいてもあんまり興味なさそうだったのに」
基さんが珍しいものでも見るように、タローさんの横から私を覗き込んできてクスクス笑う。
何の話だろう……。
不思議に思いながらタローさんのことを見たら、彼が珍しく不快げに眉を寄せていた。
「余計なこと言うなよ」
「はいはい。それで、二次会は彼女と一緒に過ごすからパスってことだよな」
「送っていくだけだよ。誤解を与えるような言い方するな」
「へぇー」
タローさんのひとことで、基さんは余計に私に興味を持ったらしい。
含み笑いを浮かべて私とタローさんを交互に見ている基さんは、きっと私たちの関係を勘違いしているのだろう。私はただ、麻耶さんの店との業務提携のために一夜だけの婚約者に扮しているだけなのに。
タローさんと親しげに話す基さんは、まだ公にはなっていないというタローさんとレイナさんの破談を個人的に知っているんだろう。だとしたら、余計な勘違いでタローさんの立場を悪くするのは良くない。
「あの、タローさん。私はひとりで帰れるので、二次会行ってきてください」
「いや、でも……」
「平気です。私は今日、店との業務提携のためにここに来たので。送っていただいたりしたら、その分新たな借りができますし。着替えを取りたいので、さっきの部屋の鍵だけ開けていただけますか?」
パーティーの途中では少し失態も見せてしまったけれど、私だってプライベートと仕事の区別はきっちりつけられる。きっぱりとした口調でそう言うと、タローさんが少し考えてからスーツの内側の胸ポケットに手を入れた。
「わかった。ハナちゃんがそう言うなら、これ」
タローさんが手渡してきたのは、スイートルームのカードキーだった。
「ドレスはハンガーにかけて部屋に置いておいて。業者にクリーニングを頼むから」
「はい」
「ルームキーは、フロントに渡しておいてくれたらいいよ」
「わかりました」
「タクシーを手配しとくから、帰りはそれに乗って」
「いえ、そこまでしていただかなくても……。私、本当にひとりで大丈夫なので」
さすがにそこまでしてもらう義理がない。
慌てて首を横に振ると、タローさんが一度私に手渡した部屋のカードキーを奪い取った。
「だったら、やっぱり送っていくよ」
「ダメですってば。タローさんはちゃんとお友達と二次会に行ってください」
「だったら、ちゃんとタクシーで帰ってね。もう夜遅いから」
「それも大丈夫です。お気遣いは要りません」
カードキーを取り返そうと手を伸ばすと、タローさんがあたしの手首をつかんで引き寄せる。
「ハナちゃん、これは借りとか気遣いとかそういう問題じゃないよ。俺が、こんな遅い時間にハナちゃんのことをひとりで帰せないだけ」
タローさんが真面目な顔付きでそんなことを言うから、胸がドクンと鳴った。
「それでも言うことが聞けないっていうなら、業務提携の話は考え直すけど」
「え!?」
急に真顔でそんな条件を出してくるなんてずるい。私は約束どおり婚約者役を務めたのに。そりゃ、完璧ではなかったけど。
無言で睨み上げる私のことを、タローさんが涼しい顔で見下ろしてくる。全ての権限は自分にある、と。タローさんの目がそう言っていた。
「ハナちゃん? だっけ。適当なとこで諦めて言うこと聞いといたほうがいいよ。こいつ、自分的ポリシーはなかなか譲らないから」
私たちの様子を端から見ていた基さんが、愉しげに口元を歪めながら言葉を挟んでくる。
「基」
タローさんが、牽制するような低い声で呼ぶ。けれど基さんのほうは、タローさんの反応を気にするどころか、彼の一挙一動を観察して楽しんでいるみたいだった。
「ハナちゃん、気にせずタクシー手配してもらいなよ。蒼大郎は昔っから根が紳士だから、夜に女の子を一人で歩いて帰らせるとかできないんだよ」
「基、余計なこと言うなって」
タローさんが、不快げに基さんのことを横目で睨む。
「はっきり言ったほうがハナちゃんだって気ぃ遣わないしいいじゃん。体裁整えてかっこつけるから、蒼大郎はよく勘違いされんだよ」
クスクス笑う基さんのことをタローさんが呆れ顔で見つめる。それから、私を振り向いて苦笑いした。
「ごめんね。いろいろデリカシーなくて」
「いえ」
ゆるりと首を横に振って笑いながら、心のどこかで少しガッカリしている自分に気が付いた。
タローさんと基さんのやり取りを聞いて、タローさんが誰に対しても公平に優しいことを知ってしまったからかもしれない。
タローさんが夜道をひとりで帰ろうとする私を気にかけてくれるのは、決して私が特別だからではない。だから遠慮したりせずに、笑顔でこう言うのがきっと正解。
「そういうことなら、お言葉に甘えてタクシーを使わせてもらいます」
思ったとおり、タローさんは私の言葉に安堵したように表情を緩めた。
「じゃぁ、これ」
改めて、タローさんが差し出してきたカードキーを受け取る。
「今日はお疲れさまでした。二次会、楽しんできてください」
「ありがとう。またね、ハナちゃん」
優美に笑いかけてくるタローさんに、ペコリと頭を下げる。
「またね、か……」
私は曖昧なその言葉を口の中で反芻すると、パーティー会場をひとりきりで立ち去った。
◆
着替えるために戻ったスイートルームは、ひとりだと広すぎて、なんだか居心地が悪かった。
ベットルームの隅っこでドレスから私服に着替えたあと、靴を履き替えて、借り物のネックレスとイアリングを外す。それから最後に、左手薬指に嵌めてある高級ブランドの婚約指輪に指をかける。
細かなダイヤがぐるっとあしらわれたリングをつかんで引き上げた指輪が指先から抜け切る寸前、何故かとても名残惜しい気持ちになった。
これは初めから預かり物で、私の手に嵌るべきものなんかじゃないのに。どうかしてる。
頭を振ると、婚約指輪を一思いに薬指から引き抜く。家から持ってきたジュエリーケースに指輪を入れて、ベッドルームの鏡付きの棚の上に置くと、左手が急にものすごく軽くなったような気がした。
顔を上げると、手持ちで一番良いワンピース姿の私が鏡に映る。着ているのは私の一張羅でお気に入りだけれど、そこにのっかる華やかにヘアメイクされた顔は、服と全然合っていない。
メイクは落として、髪型も少し直して帰ったほうがよさそうだ。
私はバスルームの洗面所を借りると、そこにあったアメニティーのメイク落としと洗顔フォームを使って派手目なメイクをざっと落とした。
置いてあった白いフェイスタオルを顔にあてると、ふわふわして気持ちがいい。ゆっくりと水分を拭き取ってタオルをおろすと、バスルームの大きな鏡に見慣れた顔が映っていた。
そう。これが現実の私。
メイクを落とした自分の顔は、私服のワンピースにしっくりとくる。さっきまで、着飾って上層階級のパーティーに紛れ込んでいた女と同一人物とは思えない。
麻耶さんの店との業務提携のため。それとの交換条件で同行させられたパーティーだったけれど、終わってから思うと夢みたいな時間だった。
私の普段の生活からは考えられない、非日常な夢の世界。だけど、夢はおしまい。
鏡を見つめながら、アメニティーの化粧水と乳液を肌に馴染ませると、私物とは違う、強い香料の匂いが鼻を突く。
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