【コミカライズ配信中!】社長、この偽婚約はいつまで有効ですか?(原題:花束と婚約指輪)

月ヶ瀬 杏

Promise.Ⅲ〈3〉

 タローさんの知り合いの結婚披露パーティーは、当たり前だけど、私が今まで参加したどのパーティーよりも豪勢で華やかだった。

 おそらくこのホテルで一番広いと思われる高層階のパーティー会場は、窓がほぼ全面ガラス張りになっていて、街の夜景が見渡せる。天井には美しい天使の絵画が描かれていて、ステンドグラスでできたシャンデリアに思わず目が奪われてしまう。パーティーは立食形式で、バーカウンターで好みのドリンクを自由にオーダーができる。上品で豪華な食事が並べられたテーブルには、ピンクと白のバラが華やかに飾り付けられていた。

 パーティーに出席している人たちは、タローさんのように会社の経営者が多いのだろうか。ゲストたちの服装はどれもとても上質そうだったし、彼らの立ち振る舞いには気品があった。

 きっとここには、私のような庶民はひとりもいない。

 タローさんの腕をとって、高いヒールの靴で彼の隣を歩きながら、ひどく場違いなところいる気がして落ち着かなかった。

 隣でにこにこしていればいいなんて言われたけれど。ボロが出ないように背筋を伸ばして会場を歩くだけで精一杯で、とても笑顔を振りまく余裕はない。タローさんが誰かと挨拶するたびに、ぎこちない笑顔でなんとか会釈するばかりだった。

「初めてお会いしましたが、噂に聞いていたとおりお綺麗な方ですね。麗奈さん、でしたか?」

 もう何人目になるかわからない相手に頭を下げたとき、その人が私にも笑顔で話しかけてきた。

「あ、えっと……」

 不意打ちをくらったのと、その人が口にした名前に戸惑って、つい目を逸らしてうつむいてしまう。

 タローさんの元婚約者は、レイナさんという名前だったんだ……。まさかここで、その名前を聞くことになるなんて。

 思ってもみなかった偶然に、胸の奥で小さな傷が疼いた。

「どうかされましたか?」

 目の前の相手にそう訊ねられたとき、不意にタローさんに肩を抱き寄せられた。

「おそらく、どなたか別の方と勘違いされているかと。彼女の名前は『ハナコ』といいます」

 驚いて顔をあげると、私を守るように抱き寄せたタローさんが、目の前の相手に穏やかに微笑んでいた。

「麗奈さん、でしたか?」と訊ねてきたその人は、少し首を横に傾げてから、改めて私に視線を移す。

「そうでしたか。それは大変失礼しました、ハナコさん」
「いえ」

 小さく首を横に振って少し笑顔を作ると、その人も私に軽く笑いかけてきた。それからすぐに、私への興味は失ったようにタローさんと話し始める。

 タローさんたちの話は経営に関する話がメインで、横で聞いていてもほとんどチンプンカンプン。見た目だけはどこかのお金持ちの令嬢みたいにしてもらったけれど、私がタローさんの隣でパーティーを立ち回ることに何の意味があるのかわからない。パーティーが始まってから、タローさんは私を連れ歩くだけで何も言ってはくれない。

 向かい合う男性と談笑するタローさんの横顔を盗み見ながら、ここにいるのが本当に私でよかったのか不安になった。

 周りを見渡すと、同伴している女性のほとんどがパートナーの男性との会話に入って綺麗に微笑んでいる。

 元婚約者のレイナさんだったら、きっとあんなふうに上手にタローさんのサポートができたんだろう。レイナさんなら……。

 タローさんともうずいぶん長いこと話し込んでいる目の前の男性は、最初に私に声をかけて以降全くこっちを見なかった。

 私に話しかけてきたのはただの社交辞令で、元々興味なんてなかったんだろう。それなら、初めから話しかけないでほしかった。

 だって、彼のたった一言が私に負の記憶を思い出させてしまったのだから。

 タローさんの元婚約者の名前は奇遇にも、私の元婚約者だった男を奪った女と同じ名前だった。

 元婚約者のアイツと彼女とは、当然だけど結婚式以来全く連絡を取っていない。結婚式が終わって業務的にコンタクトを取る必要がなくなってからは、彼らのことを考える時間も少しずつ減っていた。

 でも、ひさしぶりに『レイナ』の名前を聞いて、嫌な記憶がどっと蘇ってきてしまった。タローさんの隣で何もすることがないせいで余計に、嫌な記憶ばかりが次々と浮かんでくる。

 私にプロポーズまでしてくれた元婚約者の心が『レイナ』に揺れるきっかけになったのは何だったんだろう。

 彼との関係はうまくいっていると思っていたのに、それは私の勘違いだった。

 結婚という響きとその準備に夢中になって、私の彼に対する配慮やサポートが欠けていたのだろうか。もしかしたら『レイナ』のほうが、私よりずっと上手に彼に寄り添えていたのかもしれない。

 考えれば考えるほど、不相応なドレスに身を包んでこんなところに立っている自分が惨めな気持ちになってくる。

「ちょっと失礼します」

 落ち込んだ気持ちでうつむいたとき、タローさんがそんな言葉で向かい合う男性との会話を中断させた。会話が止まったことに気付きながらもぼんやりしていると、不意に肩から身体を抱き寄せられた。

「ハナちゃん、疲れた? 大丈夫?」

 私に顔を寄せたタローさんのささやき声に、思わずドキリとする。

 他のパーティー客と話し込んでいるタローさんが、隣にいる私の顔色なんかに気付いているとは思わなかった。

 驚いて顔を上げると、気遣わしげに私を見つめるタローさんと目が合う。私を見つめる彼の優しい眼差しに、つい顔が火照ってしまいそうだった。

「いえ、あの……」

 麻耶さんの店との業務提携の約束と引き換えにパーティーの同伴者という役目を務めているところなのに。元婚約者のことを思い出して勝手に落ち込んでいたなんて絶対に言えない。

 おどおどしながら口ごもると、タローさんが私の肩を抱いたままさっきまで話していた男性のほうに向き直った。

「申し訳ありません。彼女が少し気分が悪いようなので、一旦失礼させてください」
「もちろんです。人の多さに酔ってしまったのかもしれませんね」

 最初に私に話しかけて以来、全くこっちに興味がなさそうだった男性が、気遣うように私に視線を投げかけてきた。

「そうですね。向こうで少し休ませます。それでは」

 タローさんはにこやかに微笑んで会釈すると、私の肩を抱いて支えるように歩き始めた。

「大丈夫? 何か飲み物を持ってこようか?」
「いえ、大丈夫です」
「でも、本当に顔色が悪いよ。慣れない場所で疲れているだろうから、ちょっと座ったほうがいい」
「ちょっとぼんやりしてただけなんです。ごめんなさい。タローさん、お話の途中だったし戻ったほうが……」

 気になって振り向こうとする私を、タローさんが引き寄せる。

「気にしないでいいよ。あの人、話し出すと長いんだ」

 そう言って綺麗な顔を歪めたタローさんが意外で、思わずクスッと笑ってしまった。

「セレブの人付き合いも大変ですね」
「どうだろう。たしかに、常に打算的なことばかり考えながら相手と話しているかもね」
「それは疲れちゃいますね。それなのに、役立たずですみません。私はタローさんの隣でにこにこできていたかどうかも怪しいです」

 落ち込んで肩を落とすと、タローさんの手が私の頭をぽんっと軽く撫でてきた。その手があまりに優しく温かくて、ドキリとしてしまう。

 上目遣いに視線を上げると、微笑むタローさんと目が合った。

「ハナちゃんは、まっすぐで正直なところがいいと思うよ。たとえ自分がミスを犯したとしても、なかなか他人のためにあんなふうに潔くは頭を下げられない」
「え?」

 私が大きく目を見開くと、タローさんが片側の口端をきゅっと引き上げて、ゆるりと首を左右に振った。

「ハナちゃん、少しそこに座ったら?」

 話を中途半端に切り上げてしまったタローさんが、バーカウンターのそばにいくつか設置されている休憩用のテーブル席に私を案内してくれる。

 私だけを椅子に座らせたタローさんだったけど、彼自身が座って休む気配はない。それどころか、私から距離をとってどこかに歩き出そうとするから、このままここに置いていかれるのかと思って少し焦った。

「あの、タローさん!」

 慌てて呼び止めると、彼がゆっくりと私を振り返る。

「飲み物とってくるけど、ハナちゃんは何がいい?またウィスキーにする?」

 何かを思い出したようにクスリと笑ったタローさんに悪戯っぽく訊ねられて、羞恥で顔が熱くなる。

「いえ、それはちょっと……、やめておきます」

 顔の前で手のひらをブンブンと横に振ると、緩く握った手を口元にあてたタローさんにクスクスと笑われた。

 置いて行かれるわけではないとわかってほっとしたけど。初対面のタローさんに晒した失態については、あまり思い出さないでもらいたい……。

「じゃぁ、軽くて甘いのをもらってくるよ」
「ありがとうございます」

 タローさんは私に優しく笑いかけると、バーカウンターのほうに歩いて行ってしまった。

 颯爽と歩くタローさんの後ろ姿は背筋がすっと伸びていて、堂々としていてかっこいい。長身でスタイルの良い彼の姿は、パーティー会場の他の招待客のなかに紛れてもよく目立っていた。
 
 麻耶さんの店との業務提携を盾に私を騙したところはちょっとどうかと思うけど。その点を除けば、タローさんはスマートで優しくて素敵な人だ。

 名の知れた企業の社長の肩書きを持っていて、こんな豪華な結婚披露パーティーに招待されてしまう。普通であれば、私なんかがお近付きになれるような人ではないはずだ。タローさんの隣が相応しいのはきっと…… 。

 煌びやかに着飾ったほかの女性客たちを見渡してから、左手薬指のダイヤの指輪に視線を落とす。

 リング部分にまで細かなダイヤがあしらわれたこの高級婚約指輪を付けていた『レイナ』さんはどんな女性だったのだろう。薬指に嵌められたダイヤの指輪はとても素敵で華やかだけど、私が薬指に付けてしまうとなんだか紛い物みたいで、少しだけ重い。

「ハナちゃん?」

 名前を呼ばれて顔を上げると、いつのまにかタローさんが戻ってきていた。

「やっぱり、本当に疲れてる? カシスオレンジもらってきたけど、水とかソフトドリンクのほうがよかったかな?」

 テーブルにお酒のグラスを置いたタローさんが、私の隣に座って心配そうに横から顔を覗き込んでくる。それまでぼんやりとタローさんのことを考えていた私は、不意打ちで彼の綺麗な顔が近づいてきたことにひどく動揺していた。

「あ、いえ。カシスオレンジは大好きです」

 挙動不審に目の前のグラスをグッと引き寄せると、タローさんが苦笑した。

「そう? じゃぁ、乾杯」

 タローさんが白ワインの入ったグラスを持ち上げる。ワイングラスを持っているだけなのに、それがタローさんだとやけに様になるから不思議だ。

 少し目を伏せながら私もグラスを持ち上げると、ふたりのグラスが軽くぶつかり合った。その音に、なぜか私の胸まで高鳴ってしまう。

「ハナちゃん、これを飲んだら会場を出ようか?」

 カシスオレンジのグラスを持ったままでなかなか口を付けられずにいると、タローさんが声をかけてきた。

「慣れない場所に長い時間付き合ってもらってありがとう。もうパーティーも後半に差し掛かっているし、いつ抜けても大丈夫だから」

 顔を上げると、タローさんが私を気遣うように笑いかけてくる。その笑顔を見て、ハッとした。

 おそらくタローさんは、私がパーティー疲れしておとなしくなったと思っているのだ。

 元婚約者だったアイツのこと、タローさんの元婚約者だった『レイナ』さんのこと。それから今、タローさんの隣で彼の婚約者のフリをして座っている偽りの私。

 本来ここに来た目的を忘れて、余計なことばかり考えてしまっていた私は、軽い自己嫌悪に陥ってしまった。

「タローさん、すみません。パーティーには最後まで責任持って参加します。私がここに来たのは、麻耶さんの店との業務提携の約束を果たしてもらうためですから」

 気合いを入れ直してピシッと背筋を伸ばす。ついでに、まだ口を付けていなかったカシスオレンジをゴクゴクと一気に半分ほど飲むと、タローさんが慌てたように私のグラスをつかんで止めた。

「待って! ハナちゃん、ペースが速すぎる。君、ほんとうはそんなにお酒強くないでしょ?」
「軽いやつなら、平気です。早く飲んで、パーティーに戻りましょう。タローさん、まだご挨拶しなきゃいけない方がいますよね?」
「それはハナちゃんが気にすることじゃないから。ムリしないほうがいい」

 自信たっぷりに宣言した私を、タローさんが呆れた目で見つめる。それから無言で、私からカシスオレンジのグラスを取り上げた。

「俺が言うのもなんだけど。ハナちゃんは、よく知らない男の前で許容量以上に飲まないほうがいいよ。やっぱりお水かジュースを持ってきてあげるね」

 カシスオレンジのグラスを持ったタローさんが、ため息を吐いて立ち上がる。呆れた様子のタローさんの横顔を見て、私はまた失敗してしまったと思った。

「ごめんなさい。『レイナさん』ならきっと、もっとうまく立ち回ってタローさんのサポートができましたよね……」
「ハナちゃん、やっぱり今ので酔いが回ったんじゃない?」
「酔ってません」
「だったらどうして急にレイナの話なんか……」
「私の元婚約者を奪った彼女も『レイナ』って言うんです」

 低い声でぼそりと告白すると、呆れ顔で私を見ていたタローさんの表情が変わった。

 眉尻を下げて、少し同情するような目をした彼が、カシスオレンジのグラスをテーブルに置いて私の隣に座り直す。

「タローさんの元婚約者の名前が『レイナさん』だったって知ってから、ずっと考えてました。もし今ここにいるのが『レイナさん』なら、この会場にいる他の女性たちみたいに、タローさんの同伴者としてもっとうまく立ち回れたんだろうな、って。私の元婚約者が選んだ『レイナ』だって、きっと私よりうまく彼に寄り添うことができたから──」
「ハナちゃん。やっぱり酔ってるよ」

 タローさんが、私の言葉を遮るようにピシャリとそう言った。

「酔ってません」

 勝手に決めつけてくるタローさんを睨むと、彼が困ったように微笑んで私の頬に手を添えた。

「だったら、泣きそう、って言ってあげたほうが正しい?」

 頬に触れるタローさんの手が温かい。

 私のことなんて、大して知らないはずなのに。タローさんの言っていることは正しい。

『レイナ』という名前を聞いていろいろなことを思い出してしまった私は、ものすごい劣等感と自己嫌悪で泣きそうだ。

 うつむいて黙り込んだ私の頭上で、タローさんがため息を吐く。

 タローさんだって、何をやっても失敗ばかりの私に呆れてるだろう。

 ますます自己嫌悪に陥ってしまった私がさらに項垂れていると、タローさんが私の頬に触れていた手を顎に移動させてグイッと持ち上げた。無理やりにあげさせられた目線が、タローさんと正面からかち合う。

 恐々覗き込んだタローさんの瞳には、呆れの色も失望の色も浮かんではいなかった。むしろ、温かな優しい目で私を見つめてくれている。戸惑って左右に視線を泳がすと、タローさんがクスリと笑った。

「ハナちゃんて、ほんとうに正直だよね。困ったときはあからさまに『困った』って顔をするし、悲しいときは泣きそうだし、腹が立ってるときは全身で怒ってる」
「すみません、単純で……」

 改めて指摘されてみると、タローさんには出会ったときから感情的なところばかり見せている気がする。
恥ずかしくなって手のひらで顔を覆うと、タローさんが口元を緩めて軽く目を細めた。

「俺がハナちゃんにパーティーの同伴をお願いしようと思ったのは、君の正直さが良いと思ったからだよ。君の先輩の店との業務提携という交換条件はあるけど、良いと思わない人間を婚約者の代役になんて選ばない」
「タローさん……?」

 私を慰めるためにそんなふうに言ってくれているのかもしれない。

 だけど、タローさんの言葉は私の心の奥まで届いて沁みた。

「『レイナ』のせいで、嫌な記憶を思い出させてしまってごめんね」
「いえ、タローさんのせいではないので……」

 私の心が未熟なだけで、タローさんは何も悪くない。

 小声で口籠ると、タローさんがふわりと私の頭に手をのせた。

「『レイナ』と比べる必要なんてないよ。ハナちゃんはハナちゃんでいいって思う人間もいるんだから」

 タローさんが優しく微笑んで、私の頭を撫でる。

 初めて会ったときからそうだったけど、タローさんはとても聞き上手で人の心を慰めるのが上手だ。

 私よりいくつも年上だからか、タローさんがもともと持っている包容力なのかはわからないけど。酔っ払った私が、初対面のタローさんに心を許してしまったのも少しだけわかる気がする。

 私の髪を撫でるタローさんの手があんまり温かいから、胸の奥から沢山の感情が込み上げてきて。なんだかすごく、泣けてしまった。



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