【コミカライズ配信中!】社長、この偽婚約はいつまで有効ですか?(原題:花束と婚約指輪)

月ヶ瀬 杏

Promise.Ⅱ〈2〉

 店番をしながら担当のお客様のブーケの構想を練っていると、店の前で白の高級車が止まった。

 麻耶さんのお店にはたまに、予約なしで訪れて花束を購入していくお客様もやってくる。接客のためにさり気なく立ち上がると、高級車の運転席から背の高いスーツ姿の男性が降りてきた。

 腕時計に視線を落とす立ち姿が、やたらと絵になる人だ。ぼんやり眺めていると、その男性が不意に顔を上げた。

 男性の顔が見えた瞬間、私の胸がドキリとする。

 まさか……。

 男性の位置からは、おそらく奥のカウンターにいる私の姿は見えない。だけど私の位置からは、その顔がはっきりと見えていた。

 店に向かって姿勢のいい立ち姿で歩み寄ってくる男性。その人は、元婚約者の結婚式に出席した日の夜に、ホテルのバーで出会った『タローさん』だった。

 私、酔っ払った勢いで働いている店の名前を話したのかな。いったい、何しにきたんだろう。

 あ。もしかして、私の指につけ忘れていたエンゲージリングのことを思い出して取りに……?

 頭の中でぐるぐると思考を巡らせているうちに、タローさんが店の敷居を長い足で軽々と跨いで入ってきた。
 
 さっと店内を見回した彼が、奥のカウンターに身を隠すように立っている私に気付く。

 第一声何を言うべきか。挙動不審に視線を泳がす私を見ても、タローさんは少しの動揺も見せなかった。
それどころか、愛想よく私に微笑んで、まるで初対面の人に話しかけるようにこう言った。

「十時にお約束をさせていただいていた舘内たてうちですが、店長の佐々井様ですか?」

 無言で立ち尽くす私に、タローさんが笑顔のままほんの少し首を傾げてみせる。

「さ、佐々井はだだいま、取引先との打ち合わせに出ております」

 つっかえながらもようやく声を発すると、タローさんが困ったように眉根を寄せた。

「おかしいな。私のほうも、今日の十時でアポを取らせてもらったはずなんですが……」

 そう言うと、タローさんがスーツの内ポケットから革製の名刺入れを取り出した。その中から名刺を一枚取り出すと、私にすっと差し出してくる。そこには『Tateuchi Bridal Company』という社名と教会をモチーフにしたロゴ、それからタローさんの肩書きと名前が記されていた。

 社長兼取締役・舘内たてうち蒼大郎そうたろう

 タローさんの本名は蒼大郎さんというらしい。

 名刺を見つめて考えながら、その上に書かれた社名に既視感を覚えてハッとした。

 Tateuchi Bridal Companyって……。まさに今、麻耶さんが新規契約の打ち合わせに向かっているゲストハウスを運営する親会社だ。

 麻耶さんの店の近隣には、内装や景観の良さを売りにした、結婚式場として人気の高いゲストハウスがいくつかある。そのほとんどを経営しているのが、大手ブライダル会社であるTateuchi Bridal Companyだ。

 雑誌の情報や口コミの影響なのか、最近麻耶さんのお店に、Tateuchi Bridal Companyのゲストハウスで挙式する花嫁さんからブーケの依頼が増えている。
Tateuchi Bridal Companyとの提携はしていないから、麻耶さんの店にくる依頼は主に花嫁さんからの個人的なものだ。そのことを知ったTateuchi Bridal Companyが数週間前に麻耶さんの店にコンタクトをとってきた。麻耶さんの店と提携を結ぶことを前向きに検討したいというのだ。

 人気の式場をいくつも持つTateuchi Bridal Companyとの提携が決まれば、麻耶さんの店のビジネスチャンスは広がる。だから麻耶さんはすごく意気込んで、今日の打ち合わせに出かけていった。

 それなのに……、何か手違いがあったのだろうか。

「あ、の……、佐々井は御社との打ち合わせのためにそちらのゲストハウスに伺っているはずなのですが……」

 名刺からそっと視線をあげてそう伝えると、タローさんがスマホを取り出してスケジュールを確認し始めた。

「おかしいな。数日前に秘書が、十時に直接こちらに伺いたいという予定変更の電話を入れたはずなんだけど……」

 タローさんがそうつぶやいたとき、不意に店の電話が鳴った。

「ちょっと失礼します」

 軽く断りを入れてから、店の電話の受話器を上げる。

「はい。こちら……」
「あ、もしもしハナちゃん?今そっちに、Tateuchi Bridalの社長さんが来られてない?」

 店名を言おうとした私の声にかぶさって聞こえてきたのは、焦った様子の麻耶さんの声だった。

「いらっしゃってます。うちの店で打ち合わせの約束をされたって……」
「あー、やっぱり。実は二日前に、あちらの秘書さんが打ち合わせ場所の変更の電話を店にくれたみたいなの。私はその電話を受けた覚えがなくて……。その電話に対応してくれたのって、もしかしてハナちゃんだったのかな?」
「え……?」

 麻耶さんに言われて、電話の横に置いてある私専用のメモを見返してみる。そうしたら、数枚めくったメモの隅っこに「Tateuchi、アポ変更、10時に店」という走り書きが見えて、血の気が引いた。

 あれ。私、アポ変更の依頼を受けてる……。

 それと同じページには、二つほどお客様からの依頼メモの走り書き。そういえばこのメモを取ったとき、立て続けに電話での依頼があって、バタバタしてるうちにアポ変更の電話のことを麻耶さんに伝え忘れてしまったのだ。

「ごめんなさい! 麻耶さん、私が変更の電話受けてます……」

 どうしよう。

 受話器を握りしめて、ちらっとタローさんに視線を投げる。

 電話の声音が変わった私に気が付いたタローさんが、訝しげにこちらを見るのがわかった。

「そっか。その件については了解。あともうひとつあって、今日の十一時から挙式の梨木様のブーケなんだけど……挙式用の白いブーケは間違いないんだけど、披露宴で使うカラードレス用のブーケが梨木様のオーダーされたものと違っていたの。もしかしたら、今日店に直接受け取りに来られるお客様のものと入れ替わっているかもしれない。確認してもらえないかな?」
「え……?」

 麻耶さんの話す声はとても落ち着いていて、私を責めたり、怒ったりしていない。でも、その冷静さが余計に私を焦らせた。

 今日の依頼分のブーケをお客様ごとに仕分けたのは私だ。

 電話のミスに続いて、まさか……。

「待ってください。すぐに確認します!」

 受話器をカウンターに放り出すように置いて、ブーケの保管場所まで走る。

 今日の午前中にお渡しする予定のブーケは二つ。そのうちのひとつが、Tateuchi Bridal Companyのゲストハウスで挙式予定の梨木様。

 通常であれば宅配業者に配達を頼んでいるのだが、今日はそこで打ち合わせがある麻耶さんが、梨木様へのご挨拶も兼ねて直接届けに行った。だから、中身だってきちんと確認した……、はず。

 それなのに、店に直接受け取りに来てくださる予定のお客様用にセットされた箱の中には、ピンク系の花で纏めた梨木様用のブーケが収められていた。それを目にした瞬間、足先から身体が冷たくなっていく。

 どうしよう。

 今は既に十時前。梨木様の挙式予定のゲストハウスまでは車で三十分弱。

 ブーケを使用するのは披露宴のはずだから、それまでには間に合うようにお届けできる。だけど、もうひと組のお客様が店にブーケを受け取りに来るのは十一時頃の予定だ。今からタクシーを手配してゲストハウスまで行き、ブーケを交換して戻ってきても、もう一組のお客様との約束の時間に間に合うかどうかわからない。

 どうしよう。考えている間に、時は刻々と過ぎていく。

 私は梨木様のブーケをの箱をお店の紙袋に入れると、店のカウンターまで駆け戻った。

「麻耶さん、すみません。私が用意したときに間違えていました。梨木様のブーケは今手元にあります。とりあえず、今から届けます」
「そうしてもらえたら助かる。もう一組のお客様とのお約束は十一時よね? ハナちゃんとは入れ違いになるけど、私は今から手元のブーケを持って店に引き返すから」
「でも、Tateuchi Bridalとの打ち合わせは……」

 麻耶さんがゲストハウスまで出向いたのは、そのためだったのに……。私がお店のビジネスチャンスを台無しにしてしまった。

 受話器を握りしめたままタローさんを振り返ると、彼が腕組みしながら私のことを見ていた。

「今話しているのは店長さん? 何かトラブルですか?」
「…………」

 タローさんに不審げな表情で訊ねられて無言になる。

「ハナちゃん?」

 話の途中で黙り込んでしまった私に、麻耶さんの声が受話器越しに呼びかけてくる。

「何でもな……」
「もしもし。店長の佐々井さんですか? Tateuchi Bridal Companyの舘内です。当社で式を挙げられるお客様にも関係のあるお話のようですので、今の状況を聞かせていただけますか?」

 麻耶さんにそう言いかけたとき、後ろからタローさんに受話器を奪われた。

「ちょっと!」

 慌てて振り返ったけれど、タローさんは真剣なビジネスモードの顔で、麻耶さんと電話で会話を続けている。

「なるほど。わかりました。それでは、佐々井さんは私が到着するまでそちらで待っていてください。こちらもすぐに向かいますので。では、後ほど」

 どういう話になっているのかわからないけれど、タローさんが最後にそう言って麻耶さんとの電話を切った。

「あの……」

 話しかけた私を、タローさんが怖い目でじっと見おろす。思わず肩をビクつかせると、彼が私に低い声で言った。

「これから当ゲストハウスで挙式予定の梨木様のブーケをいただけますか?」
「え?」
「私が今から車で届けます」
「ちょっと待ってください。さっき麻耶さんには私が届けるって伝えていて……」

 当惑していると、タローさんに怒ったような目で睨まれた。

「その、佐々井さんとさっきお話して、私がブーケを持って戻るという話で纏まりました。ブーケは?」

 早口でそう言われて、電話の横のカウンターに置いていた紙袋を指差す。タローさんは素早く動いてその中身を確認すると、それを持って店を出て、車のほうに歩き出した。

 しばらく颯爽と歩いていくスーツ姿の背中を呆然と見つめていた私だったけれど、途中でハッとしてタローさんを追いかける。

「あの、待ってください! 私も一緒に……」

 車まで追いかけていくと、既にブーケの入った袋を積んで運転席に乗り込もうとしていたタローさんが私に一瞥を投げた。

「必要ないよ」

 冷たい声で突き放されて、込み上げてくるいろんな感情で、身体がカーッと熱くなる。

「そんな言い方……。これは私のミスなので」
「そう思うなら、出発の邪魔はしないでもらえないかな?」
「なっ……!」
「他のお客様の対応は? 十一時に一件アポがあるんだろ? これ以上トラブルを増やして、店の信用をなくしたらどうするんだ? 君は店長さんが戻ってくるまで店番をしておけばいいよ、ハナちゃん」

 タローさんが含みのある言い方をして、口元に笑みを浮かべる。その呼び方にハッとして私が固まっているあいだに、タローさんは車に乗り込んでエンジンをかけた。

 ひどい。

 タローさんは、店に入ってきたときから私のことに気付いてたんだ。

 恥ずかしいやら悔しいやらで、発進する車を見つめる目がチカチカとした。


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