【コミカライズ配信中!】社長、この偽婚約はいつまで有効ですか?(原題:花束と婚約指輪)
Promise.Ⅰ〈2〉
ウイスキーを喉の奥にキュッと流し込むと、氷だけになったグラスを乱暴にテーブルの上に置く。
飲み慣れないウイスキーが流れていく喉やお腹の奥が、焼けるみたいに熱かった。
普段あまりアルコールは摂取しないし、決してお酒に強い方じゃない。でも今夜は文字通り、飲まないとやっていられなかった。
この辺りでは格式が高いことでも有名な高級ホテル。そのバーのカウンターにひとりきりで座って酒を呷る、私の心は荒れていた。
「おかわりください!」
空になったグラスを、カウンターを挟んで立つバーテンダーに突きつける。
私からグラスを受け取った若いバーテンダーは、呆れた目でこちらを見ながらも黙って新しいお酒を作ってくれた。
チラリと椅子の足元に視線を投げると、そこにあるのはホテルのロゴが入った紙袋。その中から覗く、暖色系の花で纏められたミニブーケが嫌でも目に映る。
私がオーダーを受けて、私が作ったブーケプルズ用の花束。それを見事に引き当てた、自分の運の悪さを呪いたい。
『ハナちゃんも素敵な人と出会えるといいね』
悪びれのない顔で微笑む花嫁の声が耳に蘇る。
「あんたにだけは言われたくないし!」
周りの目を気にする羞恥心よりも、怒りの感情のほうが勝っていた。
思い出したくもないのに脳裏に浮かぶのは、純白のドレスに身を包んだ幸せそうな新婦の顔。そんな彼女の横で、私の存在に気付きながらも素知らぬフリをする、私と結婚予定だった新郎。
「アイツだって、少しは私を気遣えよ」
恨みのこもった低い声でつぶやくと、抑えきれない怒りをウィスキーで喉の奥に押し流す。
式や披露宴の最中、少しお腹の膨らみが目立ち始めた新婦の肩をときどき気遣うように支えていたアイツの顔を思い出すとまだムカムカする。式の最中に飛び出して、殴りかかってやったっていいくらいだったのに。式でも披露宴でもおとなしく座っていたことに感謝してもらいたい。
ヤケ酒して愚痴を零しながら、私はアイツの嫌なところだけを思い出そうとしていた。そうでないと、ふと冷静になった瞬間の自分がひどく惨めで、なりふり構わず泣きたくなってしまうからだ。
最悪な別れをした時点で、アイツのことは吹っ切ったつもりだった。私とアイツとの関係を知っていて結婚式に招待した新婦にも、最後まで毅然とした態度を貫こうと思っていた。
だけど……バージンロードを歩いてくる新婦を優しい目で見つめるアイツの姿を見たら、ダメだった。
彼の隣であんなふうに優しい眼差しを向けられるのは、本当は私だったはずだ。そう思ったら、自分でも抑えきれないくらいの怒りと嫉妬で、目頭と喉が熱くなった。
新郎新婦に対して祝福の言葉や拍手が向けられるたび、頬が引きつって顔が歪んだ。
私と結婚の口約束をしておきながら、ほかの女を──それも、多少なりとも私と面識があった女と浮気して結婚した。そんなアイツに、私は未練がある。そんなこと考えたくもなかったのに、身をもって思い知らされてしまった。
新しくグラスに注がれたウィスキーを飲み干すと、足元の紙袋の中のミニブーケを鷲掴む。
「アイツらなんかのために、作らなきゃよかった……」
喉の奥を絞るような掠れた声でぼやきながら、掴んだブーケを振り上げる。そのまま床に振り落とそうとして。それでも、寸手のところで思いとどまった。
腹が立つし、自分の運の悪さに吐き気がするけど、この花たちに罪はない。そっとカウンターにブーケを載せたとき、隣の椅子に誰かが腰をおろした。
他にもいっぱい席はあるのに……。わざわざ結婚式帰りの惨めな酔っ払い女の横に座るなんて、どうかしている。
酔いが回った頭で冷静にそんなことを考えながら顔をあげると、高級そうなダークスーツに身を包んだ、エレガントな雰囲気の男性ににこりと微笑みかけられた。全くの初対面だけれど、一度見たらきっと忘れない。それくらいに整った顔立ちの男性だったから、思わずドキリとした。
「綺麗ですね」
「え?」
私……?
突然現れたイケメン男性に褒められて、アルコールの効果も相まり、ふわっと心がくすぐられる。火照った頬に手のひらを当てたら、彼が微笑みながらカウンターのミニブーケをすっと指差した。
「これ」
「あ、あぁ。ありがとうございます」
褒められたのは花のことだったのか。
イケメンが嫉妬に塗れた初対面の酔っ払い女を褒めるはずなんてないのに。勘違いして恥ずかしい。
耳朶まで熱くしながらミニブーケに視線を落としたら、彼が優美に微笑んだ。
「これをもらって帰ってきたってことは、次の花嫁候補は君かもしれない。もっと嬉しそうにしたっていいのに、どうしてそんなに泣きそうな顔してるの?」
泣きそうな顔──?
そんなはずはない。だって私はこのバーの席に座ってから、ずーっと怒っているんだから。
周りの客たちに引かれるくらいにお酒を飲みながら、恨みと怒りの言葉を撒き散らしている。それなのに、会ったばかりの人に「泣きそう」だなんて言われて、妙な苦さがジワリと咥内に広がった。
「これが気に入ったのなら差し上げます」
カウンターの上のブーケをイケメンの方にそっと滑らせる。
こんなブーケに私の結婚運が左右されることなんてない。それは誰よりも、私自身が一番よくわかっている。
突然横流しにしたところで断られるかと思ったのに、イケメン男性はブーケを受け取った。
「ありがとう。これで俺にも少しは運が巡ってきたらいいんだけど」
ブーケを持ち上げて眺めた彼が、ため息をこぼして苦笑いする。
どこか淋しそうにも見えるその横顔が、私の関心を誘った。じっと見ていると、私の視線に気づいた彼が振り向く。それからスーツの上着のポケットに手を突っ込むと、小さなアクセサリーケースを取り出してカウンターに置いた。
「ちょうど今さっき、俺も失敗したところ。こんなものはただの見せかけで、俺に彼女への気持ちがないことを完全に見透かされてた」
彼が苦笑いを浮かべながら、指で弾くようにして小箱を開く。小箱にはエンゲージリングが収まっていて、バーのライトが照す光を受けて美しく輝いていた。
リングのトップについているダイヤは、主張しすぎない程度に大粒で、光の反射に合わせてキラキラと魅せ方を変幻させる。ケースはこの指輪が贈られたときのものとは違うのか、ブランド名も何も書かれていない。けれど、エンゲージリング自体はおそらく相当高価なものだ。
つい最近結婚会見をしていた芸能人のカップルが、これと似たような指輪を記者会見で見せていたような気がする。絶対に一般男性の給料三ヶ月分なんかで買えるような代物ではなさそうだ。
そんなエンゲージリングを突き返すような女性はいったいどんな人なのだろう。
穴が開きそうなくらいにそのエンゲージリングをじーっと見つめていると、イケメン男性が困ったように笑った。
「よかったら、いる?ブーケのお礼に」
「え、そんな! とんでもない!」
知らず知らずのうちに、物欲しげな目をしてしまっていたのだろうか。だとしたら、ものすごく恥ずかしい。
それよりも、こんな高級そうなエンゲージリングをさらっと初対面の女に渡そうとするなんて。いったい、このイケメン男性はどういう立場の人なのだろう。
お金持ちにしたって、気前が良すぎて逆に怪しい。
「私に渡すくらいなら、返品するとか。それが無理なら、質屋に売るとかしてください」
「質屋……」
大真面目に言ったつもりなのに、イケメン男性が口元を押さえてクスクスと笑う。
「そうだね。考えてみようかな」
ひとしきりに笑ったあと、彼がアクセサリーケースの蓋を閉めて、それをじっと見つめる。少し物憂げにも見える彼の横顔が、なんだかとても気になった。
こんな高価なエンゲージリングを女性にプレゼントできてしまう彼と私なんかを比べるのはおこがましいけれど、予定していた婚約か結婚が破談になったのだとしたら……そんなの、悲しく思わないわけがない。だって、私も絶望的に悲しかったもの。
高級ホテルのバーカウンター。そこで、偶然出会った似たような境遇を持つ彼に対して、私は勝手に仲間意識を抱いてしまっていた。
「あの……エンゲージリングはさすがにいただけませんけど、よかったらお話し聞きますよ。一緒に飲みませんか?」
空っぽになったウィスキーグラスを軽く持ち上げてゆらりと傾ける。
「ありがとう」
私の誘いに、彼が好意的に微笑み返してくれる。
「何飲む?」
私のほうにほんの少し体を寄せて、彼がドリンクメニューを開く。
「私はこれをおかわりで」
ウィスキーのグラスをバーテンダーに差し出したら、苦笑いとともにおかわりを注がれた。
「じゃぁ、俺も彼女と同じもので……」
彼とウィスキーで乾杯をした、そのあとの記憶は曖昧だ。
イケメンの愚痴を聞いてあげるつもりが、彼のほうが聞き上手で、結局私の話ばかりしていたような気がする。
度数の強いアルコールを乱暴に喉に流しながら、ときどき怒り混じりに、ときどき泣き上戸で。私は初対面のイケメンに、アイツとの結婚が破談になった経緯を語った。
アイツと知り合ったきっかけは、前の職場の顔見知りの女の子から誘われた飲み会だった。たまたま近くの席に座ったアイツと意気投合し、数回のデートしたのちに、アイツに告白された。
お互いになんとなく結婚を意識しながら付き合って、ちょうど一年目の記念日にプロポーズを受けた。
付き合い出したときから、結婚するならこの人だと思っていたから、アイツからのプロポーズが死ぬほど嬉しかった。
エンゲージリングは私が好きなブランドのものを買ってくれるというから、好みのデザインの指輪を求めて資料集めをしまくった。お互いの両親に挨拶への挨拶を済ませて、婚約指輪の下見や結婚式場の下見などの準備を進め始めた。
何もかもが順調だと思っていたそんな矢先。結婚式場の下見を兼ねたデートの待ち合わせ場所に、アイツがなんの前触れもなく、私の前の職場の顔見知りの女の子を連れてきた。
私とアイツが出会うきっかけを作ったのは、彼女が誘ってくれた飲み会だった。けれど、ただの顔見知り程度だった彼女と私は、その飲み会以降個人的な連絡はとっていなかった。
突然彼女を連れて現れたアイツはものすごくバツの悪そうな顔をしていて、私の顔を正面から見なかった。嫌な予感がした。
私から目を逸らすアイツとは対照的に、彼女のほうは勝ち誇った目で私のことを真っ直ぐに見て微笑んでいたから。
顔見知りの彼女を連れてきたアイツが私に持ちかけてきたのは、突然の婚約破棄と別れ話だった。
私にプロポーズをする一ヶ月ほど前、アイツが私も顔見知りの彼女と浮気した。彼女を含んだ複数人で飲みに行ったアイツは家に帰れなくなるくらいに酔っぱらい、飲み屋の近くのホテルで彼女に介抱されて、一夜を共にした。浮気はその一回きりだったというのだが、どうやらその一回で、彼女が妊娠したらしい。
「責任をとらなければいけないから、ハナとは結婚できない」
見たこともないくらいに青ざめた顔で、情けないくらいに声を震わせながら、アイツは私に頭を下げた。
浮気されて、結婚まで破談になった私への責任はどう取ってくれるんだ!?
深々と頭を垂れるアイツを呆然と見下ろしながら、怒ればいいのか、泣けばいいのか、それともいっそのこと殴ってやればいいのか。あまりに突然の告白に、頭も心もぐちゃぐちゃで、どうすればいいのかわからなかった。
婚約していたにも関わらず、ほかの女を妊娠させたことを知って一番激しく怒ってくれたのは私の両親で。両親が私のために怒り狂ってくれたことで、ようやくアイツと別れるための気持ちの整理がついた。そんな最低な別れ方をして、もう二度とアイツとは関わり合わないはずだったのに……。
私はアイツと花嫁のためにミニブーケを作り、さらには結婚式にまで出席させられるという事態が起きてしまった。
ひとつひとつ思い出しながら話していると、無理やり押し込めていた感情が一気に溢れ出てしまって。苦しさでいっぱいになった。
イケメンと飲んでいたときの記憶は曖昧で、ところどころ飛んでいる。
溜まっていたものを全部吐き出した私は、自分勝手にも飲みすぎによる吐き気に襲われた。ふらふら立ち上がった私を、彼が支えてくれたのは薄っすら覚えている。吐き気を押さえながらバーを出て、そこからどうしたのかはほとんど記憶がない。
ふらつく私を支えて歩くイケメンが、たぶん私にこう訊いた。
「今さらだけど、名前は?」
「ハナコ」
「ふーん。じゃぁ、俺はタローってことで」
「何、その適当なの」
そう返して、その日初めて、ちょっと笑ったような気がする。
飲み慣れないウイスキーが流れていく喉やお腹の奥が、焼けるみたいに熱かった。
普段あまりアルコールは摂取しないし、決してお酒に強い方じゃない。でも今夜は文字通り、飲まないとやっていられなかった。
この辺りでは格式が高いことでも有名な高級ホテル。そのバーのカウンターにひとりきりで座って酒を呷る、私の心は荒れていた。
「おかわりください!」
空になったグラスを、カウンターを挟んで立つバーテンダーに突きつける。
私からグラスを受け取った若いバーテンダーは、呆れた目でこちらを見ながらも黙って新しいお酒を作ってくれた。
チラリと椅子の足元に視線を投げると、そこにあるのはホテルのロゴが入った紙袋。その中から覗く、暖色系の花で纏められたミニブーケが嫌でも目に映る。
私がオーダーを受けて、私が作ったブーケプルズ用の花束。それを見事に引き当てた、自分の運の悪さを呪いたい。
『ハナちゃんも素敵な人と出会えるといいね』
悪びれのない顔で微笑む花嫁の声が耳に蘇る。
「あんたにだけは言われたくないし!」
周りの目を気にする羞恥心よりも、怒りの感情のほうが勝っていた。
思い出したくもないのに脳裏に浮かぶのは、純白のドレスに身を包んだ幸せそうな新婦の顔。そんな彼女の横で、私の存在に気付きながらも素知らぬフリをする、私と結婚予定だった新郎。
「アイツだって、少しは私を気遣えよ」
恨みのこもった低い声でつぶやくと、抑えきれない怒りをウィスキーで喉の奥に押し流す。
式や披露宴の最中、少しお腹の膨らみが目立ち始めた新婦の肩をときどき気遣うように支えていたアイツの顔を思い出すとまだムカムカする。式の最中に飛び出して、殴りかかってやったっていいくらいだったのに。式でも披露宴でもおとなしく座っていたことに感謝してもらいたい。
ヤケ酒して愚痴を零しながら、私はアイツの嫌なところだけを思い出そうとしていた。そうでないと、ふと冷静になった瞬間の自分がひどく惨めで、なりふり構わず泣きたくなってしまうからだ。
最悪な別れをした時点で、アイツのことは吹っ切ったつもりだった。私とアイツとの関係を知っていて結婚式に招待した新婦にも、最後まで毅然とした態度を貫こうと思っていた。
だけど……バージンロードを歩いてくる新婦を優しい目で見つめるアイツの姿を見たら、ダメだった。
彼の隣であんなふうに優しい眼差しを向けられるのは、本当は私だったはずだ。そう思ったら、自分でも抑えきれないくらいの怒りと嫉妬で、目頭と喉が熱くなった。
新郎新婦に対して祝福の言葉や拍手が向けられるたび、頬が引きつって顔が歪んだ。
私と結婚の口約束をしておきながら、ほかの女を──それも、多少なりとも私と面識があった女と浮気して結婚した。そんなアイツに、私は未練がある。そんなこと考えたくもなかったのに、身をもって思い知らされてしまった。
新しくグラスに注がれたウィスキーを飲み干すと、足元の紙袋の中のミニブーケを鷲掴む。
「アイツらなんかのために、作らなきゃよかった……」
喉の奥を絞るような掠れた声でぼやきながら、掴んだブーケを振り上げる。そのまま床に振り落とそうとして。それでも、寸手のところで思いとどまった。
腹が立つし、自分の運の悪さに吐き気がするけど、この花たちに罪はない。そっとカウンターにブーケを載せたとき、隣の椅子に誰かが腰をおろした。
他にもいっぱい席はあるのに……。わざわざ結婚式帰りの惨めな酔っ払い女の横に座るなんて、どうかしている。
酔いが回った頭で冷静にそんなことを考えながら顔をあげると、高級そうなダークスーツに身を包んだ、エレガントな雰囲気の男性ににこりと微笑みかけられた。全くの初対面だけれど、一度見たらきっと忘れない。それくらいに整った顔立ちの男性だったから、思わずドキリとした。
「綺麗ですね」
「え?」
私……?
突然現れたイケメン男性に褒められて、アルコールの効果も相まり、ふわっと心がくすぐられる。火照った頬に手のひらを当てたら、彼が微笑みながらカウンターのミニブーケをすっと指差した。
「これ」
「あ、あぁ。ありがとうございます」
褒められたのは花のことだったのか。
イケメンが嫉妬に塗れた初対面の酔っ払い女を褒めるはずなんてないのに。勘違いして恥ずかしい。
耳朶まで熱くしながらミニブーケに視線を落としたら、彼が優美に微笑んだ。
「これをもらって帰ってきたってことは、次の花嫁候補は君かもしれない。もっと嬉しそうにしたっていいのに、どうしてそんなに泣きそうな顔してるの?」
泣きそうな顔──?
そんなはずはない。だって私はこのバーの席に座ってから、ずーっと怒っているんだから。
周りの客たちに引かれるくらいにお酒を飲みながら、恨みと怒りの言葉を撒き散らしている。それなのに、会ったばかりの人に「泣きそう」だなんて言われて、妙な苦さがジワリと咥内に広がった。
「これが気に入ったのなら差し上げます」
カウンターの上のブーケをイケメンの方にそっと滑らせる。
こんなブーケに私の結婚運が左右されることなんてない。それは誰よりも、私自身が一番よくわかっている。
突然横流しにしたところで断られるかと思ったのに、イケメン男性はブーケを受け取った。
「ありがとう。これで俺にも少しは運が巡ってきたらいいんだけど」
ブーケを持ち上げて眺めた彼が、ため息をこぼして苦笑いする。
どこか淋しそうにも見えるその横顔が、私の関心を誘った。じっと見ていると、私の視線に気づいた彼が振り向く。それからスーツの上着のポケットに手を突っ込むと、小さなアクセサリーケースを取り出してカウンターに置いた。
「ちょうど今さっき、俺も失敗したところ。こんなものはただの見せかけで、俺に彼女への気持ちがないことを完全に見透かされてた」
彼が苦笑いを浮かべながら、指で弾くようにして小箱を開く。小箱にはエンゲージリングが収まっていて、バーのライトが照す光を受けて美しく輝いていた。
リングのトップについているダイヤは、主張しすぎない程度に大粒で、光の反射に合わせてキラキラと魅せ方を変幻させる。ケースはこの指輪が贈られたときのものとは違うのか、ブランド名も何も書かれていない。けれど、エンゲージリング自体はおそらく相当高価なものだ。
つい最近結婚会見をしていた芸能人のカップルが、これと似たような指輪を記者会見で見せていたような気がする。絶対に一般男性の給料三ヶ月分なんかで買えるような代物ではなさそうだ。
そんなエンゲージリングを突き返すような女性はいったいどんな人なのだろう。
穴が開きそうなくらいにそのエンゲージリングをじーっと見つめていると、イケメン男性が困ったように笑った。
「よかったら、いる?ブーケのお礼に」
「え、そんな! とんでもない!」
知らず知らずのうちに、物欲しげな目をしてしまっていたのだろうか。だとしたら、ものすごく恥ずかしい。
それよりも、こんな高級そうなエンゲージリングをさらっと初対面の女に渡そうとするなんて。いったい、このイケメン男性はどういう立場の人なのだろう。
お金持ちにしたって、気前が良すぎて逆に怪しい。
「私に渡すくらいなら、返品するとか。それが無理なら、質屋に売るとかしてください」
「質屋……」
大真面目に言ったつもりなのに、イケメン男性が口元を押さえてクスクスと笑う。
「そうだね。考えてみようかな」
ひとしきりに笑ったあと、彼がアクセサリーケースの蓋を閉めて、それをじっと見つめる。少し物憂げにも見える彼の横顔が、なんだかとても気になった。
こんな高価なエンゲージリングを女性にプレゼントできてしまう彼と私なんかを比べるのはおこがましいけれど、予定していた婚約か結婚が破談になったのだとしたら……そんなの、悲しく思わないわけがない。だって、私も絶望的に悲しかったもの。
高級ホテルのバーカウンター。そこで、偶然出会った似たような境遇を持つ彼に対して、私は勝手に仲間意識を抱いてしまっていた。
「あの……エンゲージリングはさすがにいただけませんけど、よかったらお話し聞きますよ。一緒に飲みませんか?」
空っぽになったウィスキーグラスを軽く持ち上げてゆらりと傾ける。
「ありがとう」
私の誘いに、彼が好意的に微笑み返してくれる。
「何飲む?」
私のほうにほんの少し体を寄せて、彼がドリンクメニューを開く。
「私はこれをおかわりで」
ウィスキーのグラスをバーテンダーに差し出したら、苦笑いとともにおかわりを注がれた。
「じゃぁ、俺も彼女と同じもので……」
彼とウィスキーで乾杯をした、そのあとの記憶は曖昧だ。
イケメンの愚痴を聞いてあげるつもりが、彼のほうが聞き上手で、結局私の話ばかりしていたような気がする。
度数の強いアルコールを乱暴に喉に流しながら、ときどき怒り混じりに、ときどき泣き上戸で。私は初対面のイケメンに、アイツとの結婚が破談になった経緯を語った。
アイツと知り合ったきっかけは、前の職場の顔見知りの女の子から誘われた飲み会だった。たまたま近くの席に座ったアイツと意気投合し、数回のデートしたのちに、アイツに告白された。
お互いになんとなく結婚を意識しながら付き合って、ちょうど一年目の記念日にプロポーズを受けた。
付き合い出したときから、結婚するならこの人だと思っていたから、アイツからのプロポーズが死ぬほど嬉しかった。
エンゲージリングは私が好きなブランドのものを買ってくれるというから、好みのデザインの指輪を求めて資料集めをしまくった。お互いの両親に挨拶への挨拶を済ませて、婚約指輪の下見や結婚式場の下見などの準備を進め始めた。
何もかもが順調だと思っていたそんな矢先。結婚式場の下見を兼ねたデートの待ち合わせ場所に、アイツがなんの前触れもなく、私の前の職場の顔見知りの女の子を連れてきた。
私とアイツが出会うきっかけを作ったのは、彼女が誘ってくれた飲み会だった。けれど、ただの顔見知り程度だった彼女と私は、その飲み会以降個人的な連絡はとっていなかった。
突然彼女を連れて現れたアイツはものすごくバツの悪そうな顔をしていて、私の顔を正面から見なかった。嫌な予感がした。
私から目を逸らすアイツとは対照的に、彼女のほうは勝ち誇った目で私のことを真っ直ぐに見て微笑んでいたから。
顔見知りの彼女を連れてきたアイツが私に持ちかけてきたのは、突然の婚約破棄と別れ話だった。
私にプロポーズをする一ヶ月ほど前、アイツが私も顔見知りの彼女と浮気した。彼女を含んだ複数人で飲みに行ったアイツは家に帰れなくなるくらいに酔っぱらい、飲み屋の近くのホテルで彼女に介抱されて、一夜を共にした。浮気はその一回きりだったというのだが、どうやらその一回で、彼女が妊娠したらしい。
「責任をとらなければいけないから、ハナとは結婚できない」
見たこともないくらいに青ざめた顔で、情けないくらいに声を震わせながら、アイツは私に頭を下げた。
浮気されて、結婚まで破談になった私への責任はどう取ってくれるんだ!?
深々と頭を垂れるアイツを呆然と見下ろしながら、怒ればいいのか、泣けばいいのか、それともいっそのこと殴ってやればいいのか。あまりに突然の告白に、頭も心もぐちゃぐちゃで、どうすればいいのかわからなかった。
婚約していたにも関わらず、ほかの女を妊娠させたことを知って一番激しく怒ってくれたのは私の両親で。両親が私のために怒り狂ってくれたことで、ようやくアイツと別れるための気持ちの整理がついた。そんな最低な別れ方をして、もう二度とアイツとは関わり合わないはずだったのに……。
私はアイツと花嫁のためにミニブーケを作り、さらには結婚式にまで出席させられるという事態が起きてしまった。
ひとつひとつ思い出しながら話していると、無理やり押し込めていた感情が一気に溢れ出てしまって。苦しさでいっぱいになった。
イケメンと飲んでいたときの記憶は曖昧で、ところどころ飛んでいる。
溜まっていたものを全部吐き出した私は、自分勝手にも飲みすぎによる吐き気に襲われた。ふらふら立ち上がった私を、彼が支えてくれたのは薄っすら覚えている。吐き気を押さえながらバーを出て、そこからどうしたのかはほとんど記憶がない。
ふらつく私を支えて歩くイケメンが、たぶん私にこう訊いた。
「今さらだけど、名前は?」
「ハナコ」
「ふーん。じゃぁ、俺はタローってことで」
「何、その適当なの」
そう返して、その日初めて、ちょっと笑ったような気がする。

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