ねぇ、笑って……?
8.彼女の闇-5
*****
翌朝、六時五十分。俺は新幹線のホームにいた。
レンタカーを走らせようとしたが、名達に止められた。この三日、ろくに眠っていなかった俺の運転じゃ危ないからと。
「幕田!」
発車十分前、俺は名前を呼ばれて、ホーム内を見渡した。
「名達……?」
名達は青い顔をして、走って来た。
「間に……あ――」と、言葉も切れ切れに肩で息をしながら、名達が俺の前にしゃがみこむ。
「なんで――」
「――俺はっ……朝は弱いんだよ!」と言って、名達は立ち上がった。
会社ではいつも朝からはつらつとしているから、朝が弱いとは信じられなかった。
「いや、そうじゃなくて……」
「杏菜が、心配だから一緒に行けってうるさいから来たんだよ」
「結城さんが?」
「そーだよ! はぁ……」
名達はゆっくりと呼吸を整え、ジャケットの襟を正した。
「頭のいい奴ほどキレたらなにするかわかんねぇだろ」
新幹線がホームに入って来て、名達は慌てて売店でパンとコーヒーを買った。
平日の早朝の新幹線は空いていて、俺たちの前後は空席だった。
「もしも……もしもだぞ? 朱音さんが後藤田とよりを戻すつもりだったらどうするんだ?」
名達が缶を開けながら聞いた。
「朱音の気持ちが百パーセント後藤田にあるのでない限り、取り戻す」
「まぁ、朱音さんはお前の子供を妊娠してるわけだし、そんなことはないだろうけど……」と言って、名達はパンを頬張った。
俺は名達から渡されたコーヒーを一口飲み、ほうっと息を吐いた。
「どうだろうな……」
「は?」
「朱音は後藤田の元に帰りたいのかもしれない」
「は?」と、名達はもう一度聞き返した。
「再会した朱音が変わってしまった理由を……俺は朱音に直接聞いてないんだよ」
「それは後藤田の束縛が――」
「――大筋では、だろ? 朱音が笑わなくなったのには、もっと理由があったはずなのに、俺は聞かなかった」
朱音が後藤田と一緒にいると知ってから、ずっと不安と後悔が拭えない。
昨夜、後藤田に関するものがないかと朱音の私物を見ていて、通帳を三冊見つけた。一冊は給与振り込み用の通帳で、頻繁に使われていた。もう一冊は大学時代に使っていたもので、この四年の記帳はなかった。そして最後の一冊は、母親からの入金用の通帳だった。十数年前から年に一度、百万から百五十万の入金があった。最後の入金は三年ほど前で、金額は三百七十二万。
「どうして聞かなかったんだ?」
「朱音の気持ちが、まだ後藤田にあるような気がして……怖かった」
「朱音さんは後藤田の出張中に逃げたんだろ?」
いくつパンを買ったのか、名達は俺にサンドイッチを差し出した。
「嫌いになって逃げたのかな……」と言いながら、俺はそれを受け取った。
「うまく言えないけど……、朱音の中にはまだ後藤田がいる気がする。それが愛情なのか恐怖なのかはわからないけど……」
「じゃあ、朱音さんに会ったら聞けよ!」
名達はコーヒーを飲み干し、シートを倒して目を閉じた。
俺は目を閉じても眠れず、二時間ずっと窓の外を眺めていた。
新幹線を降りる時には名達もすっきりした表情で、俺たちは電車に乗り換えた。
目的地に到着したのは十時を少し過ぎた頃。潮の香りがした。
真新しい家の前には黒のアウディが停まっていて、そばで二十歳くらいの男が家の様子を窺っていた。
「この家の方ですか?」
名達が声をかけると、男は慌てたように周囲を見た。
男は、まだ男の子にも見える幼さがあり、声も男にしては高めで、俺を基準にしても身長は百七十あるかないかで、体つきも華奢だ。髪はさらっさらのストレートで、風が吹くたびに前髪が目に入って邪魔くさそうだ。髪を払う仕草ひとつ見ても、中学生でも通用するんじゃないかと思える。
もこもこのトレーナーにジーンズ、スニーカーという格好が、余計に幼い印象を与えるのだろう。
翌朝、六時五十分。俺は新幹線のホームにいた。
レンタカーを走らせようとしたが、名達に止められた。この三日、ろくに眠っていなかった俺の運転じゃ危ないからと。
「幕田!」
発車十分前、俺は名前を呼ばれて、ホーム内を見渡した。
「名達……?」
名達は青い顔をして、走って来た。
「間に……あ――」と、言葉も切れ切れに肩で息をしながら、名達が俺の前にしゃがみこむ。
「なんで――」
「――俺はっ……朝は弱いんだよ!」と言って、名達は立ち上がった。
会社ではいつも朝からはつらつとしているから、朝が弱いとは信じられなかった。
「いや、そうじゃなくて……」
「杏菜が、心配だから一緒に行けってうるさいから来たんだよ」
「結城さんが?」
「そーだよ! はぁ……」
名達はゆっくりと呼吸を整え、ジャケットの襟を正した。
「頭のいい奴ほどキレたらなにするかわかんねぇだろ」
新幹線がホームに入って来て、名達は慌てて売店でパンとコーヒーを買った。
平日の早朝の新幹線は空いていて、俺たちの前後は空席だった。
「もしも……もしもだぞ? 朱音さんが後藤田とよりを戻すつもりだったらどうするんだ?」
名達が缶を開けながら聞いた。
「朱音の気持ちが百パーセント後藤田にあるのでない限り、取り戻す」
「まぁ、朱音さんはお前の子供を妊娠してるわけだし、そんなことはないだろうけど……」と言って、名達はパンを頬張った。
俺は名達から渡されたコーヒーを一口飲み、ほうっと息を吐いた。
「どうだろうな……」
「は?」
「朱音は後藤田の元に帰りたいのかもしれない」
「は?」と、名達はもう一度聞き返した。
「再会した朱音が変わってしまった理由を……俺は朱音に直接聞いてないんだよ」
「それは後藤田の束縛が――」
「――大筋では、だろ? 朱音が笑わなくなったのには、もっと理由があったはずなのに、俺は聞かなかった」
朱音が後藤田と一緒にいると知ってから、ずっと不安と後悔が拭えない。
昨夜、後藤田に関するものがないかと朱音の私物を見ていて、通帳を三冊見つけた。一冊は給与振り込み用の通帳で、頻繁に使われていた。もう一冊は大学時代に使っていたもので、この四年の記帳はなかった。そして最後の一冊は、母親からの入金用の通帳だった。十数年前から年に一度、百万から百五十万の入金があった。最後の入金は三年ほど前で、金額は三百七十二万。
「どうして聞かなかったんだ?」
「朱音の気持ちが、まだ後藤田にあるような気がして……怖かった」
「朱音さんは後藤田の出張中に逃げたんだろ?」
いくつパンを買ったのか、名達は俺にサンドイッチを差し出した。
「嫌いになって逃げたのかな……」と言いながら、俺はそれを受け取った。
「うまく言えないけど……、朱音の中にはまだ後藤田がいる気がする。それが愛情なのか恐怖なのかはわからないけど……」
「じゃあ、朱音さんに会ったら聞けよ!」
名達はコーヒーを飲み干し、シートを倒して目を閉じた。
俺は目を閉じても眠れず、二時間ずっと窓の外を眺めていた。
新幹線を降りる時には名達もすっきりした表情で、俺たちは電車に乗り換えた。
目的地に到着したのは十時を少し過ぎた頃。潮の香りがした。
真新しい家の前には黒のアウディが停まっていて、そばで二十歳くらいの男が家の様子を窺っていた。
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名達が声をかけると、男は慌てたように周囲を見た。
男は、まだ男の子にも見える幼さがあり、声も男にしては高めで、俺を基準にしても身長は百七十あるかないかで、体つきも華奢だ。髪はさらっさらのストレートで、風が吹くたびに前髪が目に入って邪魔くさそうだ。髪を払う仕草ひとつ見ても、中学生でも通用するんじゃないかと思える。
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