ねぇ、笑って……?

深冬 芽以

7.鎖-9

「お父さまに遺言状を書き換えてもらいましょう。あなたには一銭も入らない」
「いくらあんたに騙されていても、会社を渡すほど色惚けちゃいないと思うが?」
「どうかしら? 試してみる?」
 私はキッチンから、二人の攻防を見ていた。
 お互いに核心には触れない。
「やってみろよ。俺は親父の遺産なんて興味はない。誰もがみんな自分のように金の亡者だと思うな」
 仁也さんはいつも穏やかで、誰にでも優しい。会社でも、『すぎる』ほど出来た人間だと、いつも注目されていた。
 けれど、私だけは知っている。
 仁也さんが優しいのは、この女性がいるから。仁也さんの怒りや憎しみといった負の感情の全てが、この女性に向けられているから。だから、他の人には優しくできる。
「秘密が暴かれて得をする人間はいないのよ。みんな傷ついて、好奇の目に晒されて、後藤田の家も会社も潰される。そんなこと、あなたは望んでないでしょう?」
 先に弱腰になったのは社長夫人。
「そう思うなら、あんたは法定通りの遺産を受け取って、自由に生きればいい」
 仁也さんの話では、社長の遺産は六億近いらしく、単純に妻として半額を受け取れば三億は手に入る。
 けれど、会社は別だ。
 社長ともなれば、毎年数千から数億円を手に出来る。
「会社を継ぐのは聖也よ。あなただって、それに異論はないでしょう?」
「聖也が会社を継ぎたいと言ったのか?」
「思っていても言えないのよ。あんたに遠慮して」
「あんたに遠慮して、会社を継ぎたくないと言えないんじゃないのか」
 二人の声が次第に大きくなっていく。だから、気がついていないようだった。リビングのドアの向こうの人影に。
「知った口をきかないで! 聖也のことは私が誰よりもよくわかってるわ!」
「母親だから……?」
 私は言った。
「だったら、仁也さんは?」
 社長夫人がぐりんっと首を回して、まさに鬼の形相で私を見た。三流ホラーのワンシーンのようだ。
「何が言いたいのよ!」
 彼女はゆっくりと立ち上がり、私と向き合った。
「役立たずの彼氏から何を聞いたか知らないけど、聖也は私と主人の子よ、あんたの彼氏は関係ない!」
「だったら、この鑑定書は?」
 仁也さんが白封筒を見せた。
「そんなもの、どうにでも――」
「――だったら本人を連れてラボに行くか? 目の前で唾液でも毛髪でも採取すれば納得か?」
「そんなことさせないわ!」
 社長夫人が振り返って、仁也さんに声を張り上げた。
「会社から手を引け」
「嫌よ……」
「遺産を持って、男とどこにでも行け」
「嫌よ!」
 金切り声が家中に響く。
「聖也が会社を継ぎたいのなら、正当な手順で継がせる。だが、あんたは関わらせない」
「その言葉を信用しろと? 冗談じゃないわ。私は聖也のそばを離れないわよ」
「そうやってあんたの異常な執着に聖也が苦しんでることが、どうしてわからない!」
 仁也さんがテーブルに両手を叩きつけて、立ち上がった。
「あんた狂ってるよ! 二十も上の男と結婚して、後継者欲しさに――」
「――狂ってるのはあんたじゃない!? そんな妄想、誰が信じるのよ!」と言いながら、社長夫人は胸の前で腕を組む。
 まさに悪女を演じる女優のようだが、見え透いた強がりが痛々しい。
「妄想だと……?」
「鑑定書が何よ! 今となっては真実なんて誰にも分らないわ」
「だったら、聖也にこれを見せてもいいな」
 仁也さんがテーブルに置かれた白封筒を指さす。
「どうぞ? 母親がレイプされて生まれた子だと知ったら、聖也はさぞ悲しむでしょうね!!」
 パンッ――!
 リビングのドアが小さく揺れた瞬間、仁也さんの右手が社長夫人の頬を弾いていた。

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