ねぇ、笑って……?

深冬 芽以

7.鎖-3

*****


 翌朝、長時間の移動で疲れていたのと、目覚ましがなかったのとで、起きた時には昼近かった。二年ぶりに袖を通したパジャマの上にカーディガンを羽織って、私は部屋を出た。
「おはよう」
 仁也さんはソファに座ってコーヒーを飲んでいた。手にはタブレット。二年前と変わらない朝の光景。
 いつもはビシッと後ろに撫でつけられている前髪が目にかかっているのも、常に着崩れなくキッチリとネクタイを締めたスーツ姿がティシャツとスラックス姿なのも、変わっていない。
 違うのは痩せて、やつれているところ。
「おはようございます」
「朝ご飯、ありがとう。先に食べたよ」
「いえ……」
 仁也さんに『ありがとう』と言われるのが、くすぐったかった。彼は私を束縛したけれど、いつも『ありがとう』と言ってくれた。
 私は顔を洗って着替えてから、昨夜用意しておいたみそ汁と鮭を温めた。
「仁也さん……お昼ご飯はどうしますか?」
「適当に済ませるから、いいよ」
 私は少し考えてから、冷蔵庫を開けた。手早くサラダを作り、食パンをトースターに入れる。
 私は遅い朝食、仁也さんは少し早い昼食を一緒に食べた。
「仁也さん、これからどうするんですか?」
 後片付けも済ませて、私はコーヒーを淹れながら聞いた。
「ん?」
「仕事……とか……」
「しばらく休みを取ってある。君も来る前に職場に連絡したんだろう?」

 相変わらず……お見通しか……。

「はい」と、私は正直に答えた。
「他に聞きたいことは?」と言って、仁也さんがタブレットをテーブルに置いた。
 私はコーヒーをカップに注いで、リビングのテーブルに運んだ。
「何が……あったんですか?」
 私はテーブルを挟んで仁也さんと向かい合って座った。
「俺の話をする前に――」
 仁也さんが眼鏡を外して、タブレットの上に置いた。
「――君に聞いてもいいか?」
 紫苑のことを聞かれるのではと、身体が身構えた。
「どうして、俺を訴えなかった?」
 意外な問いだった。
「え……?」
「君は頭がいい。俺のストーカー行為を警察に訴えようと思えば、出来たろう?」
「それは……」
 仁也さんの出張中に会社を辞め、マンションを出て、携帯の番号も変えた。けれど、二か月後には彼の気配を感じるようになり、非通知で着信があるようになった。電話に出ると、仁也さんは私の名前を呼んだ。
 警察に訴えるのであれば、会話を録音して、マンション前の防犯カメラを確認してもらえば、きっと証拠となった。
「最初は……君が戻ってきてくれるんじゃないかと思ったんだ。恐怖だろうと何だろうと、君が俺の気配を感じてくれたら、戻ってきてくれると思った。けれど、半年経っても一年経っても戻って来てはくれなかった……」
 少しの沈黙。
 トラックが走り去る音が聞こえた。
「意地になっていたんだと思う。君に忘れられたくなかった。そばにいられなくても、時々君の顔が見られるだけで良かった。でも、彼が現れた……。嫉妬でおかしくなりそうだったよ。彼は君の手を引いて歩き、君を抱き締め、君を抱いて……君はそれに応える……。俺には出来なかったことを……、俺には与えられなかった幸せを、彼は君に与えられる。俺が欲しかった幸せを、君に与えてもらえる」
「そんな……」
「わかってる。これは俺の問題だ。どんなに求めても、彼のように君を幸せに出来ないのは、俺が欠陥品だからだ。それを認めたくなくて……君を傷つけた」
『君が俺に相応しい女性になるまで待つよ』
 一緒に暮らし始めた夜、仁也さんは私に言った。付き合って三か月が過ぎても、仁也さんは私に触れなかった。彼に潔癖なところがあるのは知っていたけれど、私にそれを強いることはなかったから、一緒に暮らそうと言われて拒む理由がなかった。けれど、仁也さんが私に触れない理由が、私が処女でないことだと言われた時はショックだった。
 私は彼に認められるよう、努力した。男性社員とは必要最低限しか言葉を交わさず、飲み会への参加もしない。男性社員に『葉山さんは笑顔が可愛い』と言われ、私は人前で笑うことをやめた。

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