ねぇ、笑って……?
4.彼の傷-2
*****
「あの……」
私が出社するのを待っていたように、結城さんが声をかけてきた。
仕事中のメイクが控えめなのは、入社時に先輩から注意を受けたから。
パーマがかった長い髪とはっきりメイクでは、派手だというのだ。
髪型を変えたくない彼女は、メイクを控えめに変えた。
そういえば、昨日はこのままのメイクで名達さんに会っていたな。
それほど、気を許せているということか。
「おはよう」
「……おはようございます」
結城さんは昨日のことを気にしているようだった。私を騙すような形で紫苑に会わせたことが、良いことだったのか心配なのだろう。
「昨日はごめんね? 面倒に巻き込んじゃって……」
「私は……全然……」
「おかげで仲直りできたの。ありがとう」
結城さんがホッと肩に力を抜いたのがわかった。
「良かったです。幕田さん……すごく葉山さんのこと心配してたから……」
「そう……」
付き合っていた頃から、紫苑は私を心配し過ぎるきらいがある。
『私の過去』を知っているから、心配しないでと言っても無理かもしれないけれど……。
今朝もマンションに帰ってメッセージを送ると、すぐに電話がかかってきた。四年経っても、紫苑の心配性は変わっていなくて安心すると同時に、罪悪感がよみがえる。
「名達さんにもお礼を伝えておいて?」
私は結城さんにもう一度お礼を言って、デスクに向かった。
紫苑が後藤田さんのことを知ってしまった。
隠しておけるものなら、隠しておきたかった。
けれど、知られてしまった以上、一刻も早くこの状況をどうにかしなければならなくなった。
もう、怖いなんて……言っていられない――。
今日は、金曜日。
規則性が崩れたのか、先週の金曜日が特別だったのか……。
夜になればわかる――。
夕方、紫苑から少し残業になるとメッセージが入った。私は少し迷って『食事の支度をして部屋で待ってる』と返事をした。
私は定時で退社して、寄り道せずに帰りの電車に乗った。転職してから、初めてのことだった。
電車を降りて、スーパーで買い物をする。何を作ろうかと店内を三周もして、会計を済ませた頃には鼓動が耳鳴りのように頭の中心で聞こえていた。
落ち着いて……。
まだ、明るいし人通りもある。
大丈夫。
私はエコバッグを両手に持って、マンションに向かった。偶然にも小さな子供を連れた母親のグループが前を歩いていて、マンションまで一人にならずに済んだ。
エレベーターに乗った時には、バッグを持つ手が汗で湿っていた。
私は綺麗に手を洗ってから、ハンバーグを作り始めた。
彼と別れてから、ハンバーグを作るのは初めてかもしれない。
帰宅してから一時間半ほどして、紫苑から電話がかかってきた。
『今から電車乗るけど、何か買って行くものある?』
紫苑の背後では不特定多数の話し声や、駅のアナウンスが聞こえていた。
「ビールは買ってあるけど……紫苑が飲みたいものあったら買って来て?」
『わかったよ』
こんな他愛のない会話が、くすぐったくて嬉しかった。
私はフライパンを火にかけた。
部屋に肉の焼ける匂いが充満して、私のお腹の虫が騒ぎ出した時、インターホンが鳴った。
「おかえり」
私はモニターで紫苑の姿を確認して、エントランスへのドアのロックを解除した。
モニターから紫苑の姿が消えると同時に、人影が写った気がした。見覚えのある横顔。
まさか――!
私は裸足のままで部屋を飛び出していた。
二階を通過したばかりのエレベーターが五階に到着するまで、私は息をするのを忘れていた。
紫苑、早く来て――!
祈るように、いや、祈っていた。
エレベーターの前で、祈るように両手の指を組んで、鼻先に押し付けていた。
紫苑――――!
「朱音? どうした?」
頭に響く鼓動が大きすぎて、エレベーターが到着していたことに気が付かなかった私は、紫苑の声にハッとして顔を上げた。
扉が開くと同時に現れた必死の形相の私に、紫苑もまた驚いている。
「紫苑……」
エレベーターに乗っていたのは紫苑一人だった。
「ひと……り……?」
乗客を降ろした鉄の箱は、一階に帰って行く。
「朱音、顔真っ青だぞ? 裸足だし……」
「紫苑……」
ホッとした瞬間、腰が抜けた私はその場に座り込んでしまった。
「どうした? 具合悪いのか?」
私は紫苑の無事を確かめようと、彼の腕にしがみつく。
温かい……。
「大丈夫か?」
紫苑に抱きかかえられて、私は部屋に戻った。
「風呂は?」
紫苑は私をバスルームに連れて行って、足を洗ってくれた。その間も、私は彼の首にしがみついたままだった。
「いい匂い。ハンバーグ?」
紫苑が私を抱えたまま、聞いた。ようやく、私は手を離した。
「おかえりなさい……」
「ただいま」
優しい、触れるだけのキスが与えられて、心底ホッとする。
「具合が悪いなら、ベッドに行く?」
私は首を振って、彼の膝から降りた。
「大丈夫……」
紫苑は何も聞かなかった。代わりに、私の作ったハンバーグを「美味しい」と五回も言ってくれた。
紫苑はいつも、私から話すのを待っている。
強く求めて拒絶されるのが怖いから。
紫苑が変わっていないことが嬉しくて、悲しかった。
『笑って……俺を許して――』
紫苑、あなたは何を許されたいの……?
私の不安を感じ取ってくれたんだと思う。
食事を終えた私たちは、どちらからともなく抱き合い、キスをして、ハンバーグの味がすると笑い合い、ベッドに入った。
ただ夢中で抱き合い、私は彼のぬくもりにひたすら安心した。
「ねぇ、朱音……」
セックスの後、ベッドの中で紫苑が真剣な表情を見せた。
「今も『あの夢』を見ることあるのか?」
やっぱり……気がついたか――。
「今は……ない」と、私は正直に答えた。
「最後に見たのは?」
「前の仕事を辞める少し前……」
紫苑はやっぱりという顔をして、私を抱き締めた。
「もう離れないから……」
成長ないな……。
ほんの少しだけ、紫苑との再会を悔やんだ。
「あの……」
私が出社するのを待っていたように、結城さんが声をかけてきた。
仕事中のメイクが控えめなのは、入社時に先輩から注意を受けたから。
パーマがかった長い髪とはっきりメイクでは、派手だというのだ。
髪型を変えたくない彼女は、メイクを控えめに変えた。
そういえば、昨日はこのままのメイクで名達さんに会っていたな。
それほど、気を許せているということか。
「おはよう」
「……おはようございます」
結城さんは昨日のことを気にしているようだった。私を騙すような形で紫苑に会わせたことが、良いことだったのか心配なのだろう。
「昨日はごめんね? 面倒に巻き込んじゃって……」
「私は……全然……」
「おかげで仲直りできたの。ありがとう」
結城さんがホッと肩に力を抜いたのがわかった。
「良かったです。幕田さん……すごく葉山さんのこと心配してたから……」
「そう……」
付き合っていた頃から、紫苑は私を心配し過ぎるきらいがある。
『私の過去』を知っているから、心配しないでと言っても無理かもしれないけれど……。
今朝もマンションに帰ってメッセージを送ると、すぐに電話がかかってきた。四年経っても、紫苑の心配性は変わっていなくて安心すると同時に、罪悪感がよみがえる。
「名達さんにもお礼を伝えておいて?」
私は結城さんにもう一度お礼を言って、デスクに向かった。
紫苑が後藤田さんのことを知ってしまった。
隠しておけるものなら、隠しておきたかった。
けれど、知られてしまった以上、一刻も早くこの状況をどうにかしなければならなくなった。
もう、怖いなんて……言っていられない――。
今日は、金曜日。
規則性が崩れたのか、先週の金曜日が特別だったのか……。
夜になればわかる――。
夕方、紫苑から少し残業になるとメッセージが入った。私は少し迷って『食事の支度をして部屋で待ってる』と返事をした。
私は定時で退社して、寄り道せずに帰りの電車に乗った。転職してから、初めてのことだった。
電車を降りて、スーパーで買い物をする。何を作ろうかと店内を三周もして、会計を済ませた頃には鼓動が耳鳴りのように頭の中心で聞こえていた。
落ち着いて……。
まだ、明るいし人通りもある。
大丈夫。
私はエコバッグを両手に持って、マンションに向かった。偶然にも小さな子供を連れた母親のグループが前を歩いていて、マンションまで一人にならずに済んだ。
エレベーターに乗った時には、バッグを持つ手が汗で湿っていた。
私は綺麗に手を洗ってから、ハンバーグを作り始めた。
彼と別れてから、ハンバーグを作るのは初めてかもしれない。
帰宅してから一時間半ほどして、紫苑から電話がかかってきた。
『今から電車乗るけど、何か買って行くものある?』
紫苑の背後では不特定多数の話し声や、駅のアナウンスが聞こえていた。
「ビールは買ってあるけど……紫苑が飲みたいものあったら買って来て?」
『わかったよ』
こんな他愛のない会話が、くすぐったくて嬉しかった。
私はフライパンを火にかけた。
部屋に肉の焼ける匂いが充満して、私のお腹の虫が騒ぎ出した時、インターホンが鳴った。
「おかえり」
私はモニターで紫苑の姿を確認して、エントランスへのドアのロックを解除した。
モニターから紫苑の姿が消えると同時に、人影が写った気がした。見覚えのある横顔。
まさか――!
私は裸足のままで部屋を飛び出していた。
二階を通過したばかりのエレベーターが五階に到着するまで、私は息をするのを忘れていた。
紫苑、早く来て――!
祈るように、いや、祈っていた。
エレベーターの前で、祈るように両手の指を組んで、鼻先に押し付けていた。
紫苑――――!
「朱音? どうした?」
頭に響く鼓動が大きすぎて、エレベーターが到着していたことに気が付かなかった私は、紫苑の声にハッとして顔を上げた。
扉が開くと同時に現れた必死の形相の私に、紫苑もまた驚いている。
「紫苑……」
エレベーターに乗っていたのは紫苑一人だった。
「ひと……り……?」
乗客を降ろした鉄の箱は、一階に帰って行く。
「朱音、顔真っ青だぞ? 裸足だし……」
「紫苑……」
ホッとした瞬間、腰が抜けた私はその場に座り込んでしまった。
「どうした? 具合悪いのか?」
私は紫苑の無事を確かめようと、彼の腕にしがみつく。
温かい……。
「大丈夫か?」
紫苑に抱きかかえられて、私は部屋に戻った。
「風呂は?」
紫苑は私をバスルームに連れて行って、足を洗ってくれた。その間も、私は彼の首にしがみついたままだった。
「いい匂い。ハンバーグ?」
紫苑が私を抱えたまま、聞いた。ようやく、私は手を離した。
「おかえりなさい……」
「ただいま」
優しい、触れるだけのキスが与えられて、心底ホッとする。
「具合が悪いなら、ベッドに行く?」
私は首を振って、彼の膝から降りた。
「大丈夫……」
紫苑は何も聞かなかった。代わりに、私の作ったハンバーグを「美味しい」と五回も言ってくれた。
紫苑はいつも、私から話すのを待っている。
強く求めて拒絶されるのが怖いから。
紫苑が変わっていないことが嬉しくて、悲しかった。
『笑って……俺を許して――』
紫苑、あなたは何を許されたいの……?
私の不安を感じ取ってくれたんだと思う。
食事を終えた私たちは、どちらからともなく抱き合い、キスをして、ハンバーグの味がすると笑い合い、ベッドに入った。
ただ夢中で抱き合い、私は彼のぬくもりにひたすら安心した。
「ねぇ、朱音……」
セックスの後、ベッドの中で紫苑が真剣な表情を見せた。
「今も『あの夢』を見ることあるのか?」
やっぱり……気がついたか――。
「今は……ない」と、私は正直に答えた。
「最後に見たのは?」
「前の仕事を辞める少し前……」
紫苑はやっぱりという顔をして、私を抱き締めた。
「もう離れないから……」
成長ないな……。
ほんの少しだけ、紫苑との再会を悔やんだ。
「ねぇ、笑って……?」を読んでいる人はこの作品も読んでいます
-
-
5,217
-
2.6万
-
-
1.2万
-
4.8万
-
-
9,711
-
1.6万
-
-
3万
-
4.9万
-
-
9,448
-
2.4万
-
-
2.1万
-
7万
-
-
6,681
-
2.9万
-
-
8,191
-
5.5万
-
-
1.3万
-
2.2万
-
-
2,534
-
6,825
-
-
89
-
139
-
-
14
-
8
-
-
614
-
1,144
-
-
6,044
-
2.9万
-
-
614
-
221
-
-
6,237
-
3.1万
-
-
6,199
-
2.6万
-
-
450
-
727
-
-
1,301
-
8,782
-
-
164
-
253
-
-
1,000
-
1,512
-
-
62
-
89
-
-
3,224
-
1.5万
-
-
23
-
3
-
-
86
-
288
-
-
71
-
63
-
-
33
-
48
-
-
398
-
3,087
-
-
218
-
165
-
-
2,860
-
4,949
-
-
3,548
-
5,228
-
-
116
-
17
-
-
27
-
2
-
-
4,922
-
1.7万
-
-
1,658
-
2,771
-
-
7,474
-
1.5万
-
-
408
-
439
-
-
2,629
-
7,284
-
-
42
-
52
-
-
62
-
89
-
-
220
-
516
-
-
104
-
158
-
-
34
-
83
-
-
51
-
163
-
-
42
-
14
-
-
1,391
-
1,159
-
-
183
-
157
-
-
215
-
969
コメント