ねぇ、笑って……?

深冬 芽以

3.彼女の過去-4

*****

 付き合っていた頃の朱音なら、間違いなく平手が飛んでくる状況だった。
 木曜日。
 俺は結城さんに頼み込んで、朱音を誘い出してもらった。当然、俺を見た朱音は驚き、それはすぐに冷え切った眼差しに変わった。
 朱音は陰でこそこそするのが嫌いだ。
 気のせいか、朱音の表情が金曜日とは違って見えた。すっきりしたような、付き合っていた頃の朱音のような、凛々しさ。
「結城さんには、俺が無理言って頼んだんだ」
 朱音の隣で結城さんが気まずそうにうつむいていた。
「ごめんね、結城さん。ありがとう」
「紫苑、私がこういうの嫌いだって知ってるわよね」
「やっと、らしくなってきたね」
 俺は平静を装いながら、心の中では喜んでいた。
「ふざけないで」
「嫌ならもう逃げんな」
 一触即発の状況に、名達は結城さんを連れて店を出た。
 二人には、後日改めてお礼しようと思う。
 二人の協力を無駄にしないためにも、ちゃんと話をしなければ。
 店に入ってすぐに、後で呼ぶからと注文を断った店員に手を上げて呼び、ビールと生グレープフルーツサワーを注文した。
「結城さんから何を聞いたの」
「朱音が素直に教えてくれないようなこと」
 平然と答えたものの、はっきりと拒絶されたらどうしようかなんて不安が汗となって滲む手の平を、おしぼりで拭う。
 店員が飲み物を運んできて、俺はシーザーサラダと軟骨のから揚げ、ソーセージの盛り合わせを注文した。どれも、朱音の好物だ。
 俺はもう一度おしぼりで手を拭くと、グレープフルーツを絞り始めた。
「頼めばいいのに……」
「いいんだよ、俺が好きでやってるんだから」
 朱音は黙って俺がグレープフルーツを絞るのを見ていた。
「もう一つ……、先に謝っとく」
「何?」
「前の会社でのことも聞いた」
「――――っ」
 朱音が息を吞むのが聞こえた。
 怒られると思った。
 殴られると思った。
 けれど、泣かれるとは思っていなかった。
「ごめん……」
「ど……して……」
「俺の同期に影井ってのがいるんだけど、そいつの姉さんが後藤田不動産で建築士やってて……」
 話しながら、絞ったグレープフルーツをグラスに入れて、よくかき混ぜる。そして、グラスを朱音の前に置いた。
 店員が料理を運んできたが、俺たちの微妙な空気を読んで、手早く料理を置いて去った。
「何があったか……確かなことはわからないけど、何があったのだとしても俺は朱音のそばにいたい」
「…………」
 朱音は答えなかった。
 彼女の頬に涙が伝う。
 俺は朱音のおしぼりを彼女の顔に押し付けた。朱音はそれで涙を拭った。
「朱音の印……消えちゃったよ」
 朱音は顔を上げて、ずずっと洟をすすると、グレープフルーツサワーをグイッと飲んだ。
「またつけるだけよ」

 ああ……、先輩だ。
 俺の好きな先輩だ。

 それから、朱音は吹っ切れたように、料理を口に運んだ。
 ちゃんと話してくれる、と思って何も聞かなかった。
 ただ、どうしようもない話をしながら、腹いっぱい食べた。
 店を出ても、朱音は自分のマンションに帰ろうとしなかった。冗談めかしてホテルに誘ったら、俺の部屋がいいと言ったから、連れてきた。今度は電車で。
「どこまで聞いたの?」
 部屋に着いてコーヒーマシンのスイッチを入れた俺に、朱音が聞いた。俺はコーヒーを淹れながら、影井から聞いたことを話した。影井の姉さんが朱音に会いたがっていると伝えると、朱音の表情が和らいだ。
 俺と朱音は無言でコーヒーを飲んだ。
 じっと、彼女の声を待つ。
 そして、思った。
 人間は欲深い。
 つい二週間前までは一度でいいから朱音に会いたいと思っていた。朱音に会えたら、抱き締めたくなった。抱き締めたらキスしたくなって、キスしたら抱きたくなった。
 そして、抱いてしまったら離したくなくなった。
 離れていた間のことも、知りたくなった。
 彼女のすべてを、知りたくなった。
 どうしても知られたくないと言われたら、きっとそれ以上は聞けない。どんなに知りたくても。
 それでも、彼女への想いが変わることはない。ないけれど、知る必要はあると思う。

 朱音が笑わない理由を……。

「朱音……」
 俺はカップをテーブルに置いて、朱音の正面から隣に移動した。
「ネクタイ……外して」
 朱音に選択の余地を残すことが、俺の精一杯の優しさだった。
 朱音がネクタイに手を触れなければ、俺はなけなしの理性をフル回転させる。

 でも、朱音がネクタイを外したら……もう二度と離さない————。

 朱音はカップを離さなかった。
 俺は潔く諦めて、テーブルの上のカップに手を伸ばした。
「コーヒー……飲んでから——ね?」
 体温が三度は上がったと思う。
 俺は朱音の手からカップを取り上げた。
「待てない」
 俺のキスに唇を開きながら、朱音は俺のネクタイを解いた。

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