完璧御曹司が、なぜか私にだけ意地悪をしてきます

小達出みかん

兄、来襲

チェリーピンク色のローズヒップティーのグラスが、氷にあたってからんからんといい音がする。花園は白いテーブルにグラスを置いた。

「ちょっとすっぱいよな、このお茶って」

「でも、ほのかに薔薇の匂いがして美味しいです。アイスティーにぴったりですね。」

 もったいなくてちびちび飲みながら、郁美は再び庭を眺めた。午前の日差しに照らされて、花の木々もその生をいきいきと謳歌している。様々な緑の息遣いが、聞こえてきそうなほどに。

「ここに連れてきてくれて……ありがとうございます」

 唐突にお礼を言った郁美に、花園は肩をすくめた。

「いや、良く知ってる場所だしな。たいしたとこじゃないよ」

「でも、大事な場所、なんでしょう?」

「まぁ……そうかもな」

 花園はちらりと屋敷を仰ぎ、また庭に目を戻して言った。

「この世界で一番、好きな場所だった」

 過去形である事が気になりながら、郁美は聞いた。

「おばあ様は……どんな方だったんですか」

「優しいばあちゃんだった。いい人だったよ。だから――あんなに早く、死んだのかな」

「おいくつで……?」

「68。俺が8歳の年だった」

「それはたしかに、お若いですね……」

「ああ。あの時の事は忘れられない。夜中に救急車が来て――」

 8歳の男の子に、それはたしかにショックな出来事だろう。状況は違うが、郁美も若い時分に母を亡くした。だから自然と、当時の花園の気持ちが想像できてしまった。

「それは……辛い思いをしましたね」

 郁美が言葉少なにそう言うと、花園は首を振った。

「いや、大変なのはそれからだ。ばあちゃんが死んで、この家には大人がいなくなったから、俺も出て行ったんだ。」

「それが、今の花園家、なのですか?」

 おそるおそる聞いた郁美に、花園は無言でうなずいた。

(本当に、あの時はキツかったな――。でも、当時は自分の気持ちすら、かえり見ている余裕がなかった)

 その時の事を、花園は脳内で反芻した。面倒を見てくれていた祖母が死んで、花園はあの忌まわしい本家に引っ越しをした。この家と比べたら、あの家庭は毎日が戦場だった。耐えられなくなったある日、この庭まで歩いてきて、塀を乗り越えて花たちを眺めた。

 しかしその時、花々の美しさは、かえって幼い花園の心を痛めつけた。

(こんなに綺麗に咲いているのに、これを見て喜ぶおばあちゃんは、もういない……)

 いくら咲き誇ったって。頑張ったって。もう、見てもらえない。喜んでもらえない。褒めてもらえない……。

 花たちと自分の境遇が重なって、花園は打ちのめされた。

 もう、自分を気にかけてくれる人は、この世に一人もいないのだという真実に。

 だから、訪ねる機会はだんだんとなくなっていった。

(だけど……今日は、綺麗なこの庭を見ても、ぜんぜん苦しくない)

 おばあちゃんと同じくらい熱心に、隣で花を愛でる人がいる。目を輝かせて、花園に『ありがとう』と言ってくれる。

 今はもう、一人じゃない。

 郁美が隣にいるおかげで、花園はまた子どものころと同じ気持ちで、この庭を美しいと思う事ができたのだ。

(俺のほうこそ……ありがとう、郁美)

 顔をほころばせながら花々を眺める郁美の横顔に向かって、花園は心の中でそうつぶやいた。



「今日はありがとうございました。お茶もご馳走になって」

「いえいえ、ぜひ、またお庭を見に来てくださいね。薔薇の季節が終わったら、次は紫陽花なので」

 帰りしな、西田さんのその言葉に郁美は目を輝かせた。紫陽花は憧れの花だ。梅雨時の憂鬱な日々にそっと寄り添う、鞠のような花の群れたち。だけどこれらは、庭でなければ見れない光景だ。

「それは楽しみですね……!」

 乗り気の郁美に、花園は苦笑した。

「じゃ、また来月も来るか」

 するとその時。後ろから誰かが歩いてくる音がして、西田さんの穏やかな表情がひきしまった。郁美と花園は振り返った。

「偶然だな、彰」

 瞬間、花園の纏う空気が鋭いものへと変化した。

「兄さん、ここに何の用だい?」

 郁美や西田さんに向けるものとは、温度の全く違う冷たい笑みを花園は浮かべた。

「いや、新居の下調べにね」

 その言葉に、場の空気が変わった。

「兄さん、ここに住むつもり?」

「ああ、妻が新しい家を欲しがっていてね。今の家は古いが、文化財がどうとか言って、建て替えができない。ここならそんな事ないだろうと思ってね」

「へぇ。でもここの所有権は、兄さんだけものじゃないと思うけど」

「そうだな。ばあさんは誰にも譲渡せず死んだみたいだから、親族全員に権利がある事になる。でもまぁ、父さんたちはこんな古い家、興味なんてないだろうし、お前だって俺の頼みは聞いてくれるだろ?」

 すると花園の口角が、すっと上がった。それは刃のような、思わずひやりとするけれど同時に見とれてしまいそうな、完璧な笑顔だった。

「いいや? 悪いけど、この家は俺が住むから」

「父さんには言ったのか?」

「言っていないけれど? それこそ、息子がどこに住もうと興味なんてないだろう」

「ふぅん……」

 清もまた、薄ら笑いで花園を見下ろした。目に見えない火花が散るように2人は見つめ合っていたが、ふと清が郁美の方をチェックして嗤った。

「そう言えばお前、磯谷グループの千鶴嬢を振ったんだってな? そういう事か」

「振ったなんてとんでもない。彼女に俺が釣り合わない、それだけですよ」

「お前、これで磯谷のじいさんに合わせる顔がないな」

「見くびらないでほしいな。俺は政略結婚そんなことにたよらなくても、しっかり結果は出せるから」

 その瞬間、清が色めきたったのがわかった。額に濃い皺がよる。

「お前……俺を馬鹿にしているつもりか」

「そんな事、一言も言っていないけど? 兄さんの選択は兄さんのものだ。恥じることなんてないさ」

「この野郎……っ」

 低く清はつぶやいて手を上げようとしたが、はっとしてその手を下げた。そして郁美と西田さん、そして最後に花園に目を戻して言った。

「……とにかく、俺はこの家も、庭も全部潰して、新しい家を建てるから、そのつもりでいてくれ」

 にやっと笑って、彼は去っていった。西田さんが、玄関の床に膝をつく。

「どうしましょう……敦子さんの、お庭が」

 花園は西田さんを助け起こした。郁美もそれを手伝う。

「すみません西田さん、見苦しい兄弟げんかを見せてしまって。あいつの好き勝手にはさせませんよ」

「でも……こういう時、どうすれば」

 そうつぶやく西田さんに、郁美は聞いた。

「この家の登記は、おそらくまだおばあさん、敦子さんのものなのですよね?」

「ええ、そうよ。病状が急に悪化して……手続きなんかは、していなくて」

「なるほど……それだと親族全員に権利がある事になってしまいますね」

 花園はちっと舌打ちした。

「あいつの事だ、今日にも重機を寄こして取り壊して、無理やり押し切る可能性があるな」

「そんな力技を?」

 驚く郁美に、花園はうなずいた。

「あいつはそういう奴なんだよ。仕事はイマイチのくせに、嫌がらせとなると行動が早くて頭が切れるんだ」

 花園の家庭内が、こんなに厳しいものだとは。郁美は彼のプレッシャーがどこからきているか、わかった気がした。

「とりあえず、今夜はここに三ツ矢に居てもらおう。俺は今日明日で、書類をそろえて法的に手出しができないようにする」

「わ、わかりました」

「郁美と西田さんは、もう帰ろう。何かあったら心配だからな」

 そう言って、その日はお開きとなった。



「くそ……たしかに郁美の言う通りだったか」

 次の日、三ツ矢は即、弁護士と連絡を取ってくれた。登記などの書類によれば、たしかにあの家の所有はまだ敦子のものになっていて、となると死後は親類全員に平等に権利が発生する事になる。弁護士は花園に説明した。

「様々なケースがありますが、よくある方法では、その家の新たな所有人となる人が、他の親族にいくらか包み、相続を放棄してもらうという手続きですね」

 しかし花園は首を振った。

「そんな常識的な手段に従う兄貴じゃないし、俺もあいつに金なんて包みたくもないね」

 三ツ矢もうなずいた。

「そうなった場合、彼は死んでも相続放棄にサインしないでしょうしね」

「となると……裁判、でしょうか」

 弁護士の提案に、花園は再び首を振った。

「いや、事を表ざたにはしたくない。登記を変える合法的な手は、他にないか」

「……遺族のご遺言でもあれば、あるいは」

 花園はため息をついた。彼女が亡くなってもう、10年以上たつのだ。ないと思ったほうが自然だろう。

「……そうか」

 弁護士と別れ、三ツ矢の運転で花園は渋谷へ向かった。今日は自社ビルの一室で、花園自身が会議を開く事になっている。花園が探して集めた建築家、デザイナー、プランナーを交え、一斤屋に新しい風を吹き込むアイディアを煮詰めるのだ。

(今日の会議は、もう3度め……そろそろ企画書を、父さんに見せるところまでこぎつけそうだ)

 彼らは、『一斤に新しい風を吹きこみ、これまでにない層からの売り上げを出す』という花園のプランを様々な面で精査し、作り替え、ブラッシュアップしてくれた。仕事に関しては完璧主義の花園も納得できるレベルの企画が、あと少しで産声を上げるのだ。

(ここまですれば……父さんも、俺の意見を取り入れてくれるかもしれない)

 正直、ギャンブルだ。きっと清も同じように、自分の居る店舗の計画を練っているに違いない。

(でも、ここは勝ちたい。一斤本店で、俺の意見が採用されれば――やっと兄貴のあのムカつく面に、一発食らわせられる)

 もう二度と、自分に舐めた態度を取られないように、結果で認めさせたい。その気持ちが、花園の中には常にあった。

(それに、おばあちゃんの家もだ。あいつに壊される前に、なんとかしなくては――)

 郁美の顔が目に浮かぶ。あの庭でお茶を飲んでいる瞬間までは、なにもかもうまくいって、満ち足りていたのに。

(本当に、何かいい事があれば、必ず悪い事がある。俺の人生、いつもそうだ)

 花園はシートにもたれて目を閉じた。

(……郁美に会いたいなぁ)

 昨日会ったばかりなのに、花園はすでに、そう思っていた。

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