あの公園へ

「お疲れ様っす！」

　ぺこりと挨拶をして、淳史はバイト先を出た。もう夜遅い。今日も郁美の方が先に帰っているだろう。郁美より給料は低いのに家事があまりできなくなるので少し申し訳ない気持ちはあるが、今の仕事はとてもやりがいがあって続けられそうだ。淳史は明るい気持ちで家路を急いでいたが、ふと振り返った。

「おい！　そこにいるやつ、出てこいよっ」

　暗い夜道、後ろからじっと淳史を見つめる背の高い男の影があった。

「昨日もおとといも……俺に何の用？　言わないと警察呼ぶよ」

　携帯をかざすと、ぴたりと止まっていた黒い影は淳史の前まで歩いてきた。

「……申し遅れました。私、花園の秘書、三ツ矢と申します」

　淳史は警戒して一歩下がった。

「やっぱりあの人の関係者か。姉ちゃんが、何をしたっていうんですか」

「淳史様は、さきほどのライブハウスで、ボーイとして働いてらっしゃるんですよね？」

「え？　そ、そうだけど……」

「一度マスコットボーカルとして、舞台に立っていましたね。僭越ながら、聞かせていただきました。とても良い歌でした」

「それは、どうも……」

「過去には、アマチュアでバンド活動をされていたとか？」

　質問攻めに、淳史はさらにもう一歩下がった。危ない話なら、逃げ出そう。

「だから何だっていうんです？」

　すると、三ツ矢はにっこりと笑って名刺を出した。

「中野様にその気がおありなら、ぜひ私どもの紹介で、大手プロダクションに入って活動されてみませんか」

「は、はぁ？」

「せっかくの歌の才能を、生かしたいと思いませんか。大きな会場で歌って、ＣＤデビューしてみたいと思いませんか」

　淳史は後ずさるのをやめて、まっすぐ相手を見つめた。もう、10代のころの淳史ではないのだ。自分に大した才能がない事は、よくわかっている。

「……何が目的ですか？　姉ちゃん？」

　すると少し間を置いたあと、三ツ矢はうなずいた。

「その通りでございます。郁美様と別れて、あのアパートを出ていってはもらえませんか。もちろんその費用は私どもが用意します」

　淳史はぞっとして首を振った。

「別れてって……なんでそんな事のために、俺をしらべ上げて、金を出すんすか？　あんたら姉ちゃんを……どうするつもりなんです？」

「ただ、別れて欲しいだけなのです。郁美様に危害を加えるような事は、決して」

「そんな事、信じるわけないでしょ。それに、あんたらの話に乗る気もないっす」

　淳史は財布から保険証を出して、三ツ矢に見せた。

「ほらこれ、中野淳史って書いてあるでしょ。俺は正真正銘、姉ちゃんの弟。彼氏じゃないから、別れるなんてできないよ」

　三ツ矢は少し目を見開いたあと、丁寧に言った。

「……お写真撮らせていただいても？」

「いいよ。悪用しないなら」

「とんでもない。確認のためです」

「あの上司の人に、言っといてください。あの時姉ちゃんがこれ出すの止めたのは、俺が不甲斐ないのを庇おうとしたからだって」

「と、言いますと？」

「優しいんすよ。俺が姉ちゃんの扶養に入ってる事を馬鹿にされるのを、心配しただけなんです。悪気はないんだ。だから、職場で姉ちゃんを虐めるような事はやめてほしい」

　すると三ツ矢は一礼した。

「承知いたしました。たしかにお伝えいたします。それと、この事は……」

「姉ちゃんには言うなって？　……わかったよ」

　三ツ矢は頭を上げて、夜の暗さにまぎれるようにして元来た道を引き返していった。淳史は寒くもないのにぶるっと肩を震わせた。

（なんなんだ？　おっかなかった……）

　ヤクザなどの類ではない。物腰は柔らかで暴力とは無縁そうな人物だった。けれど、郁美に対して張り巡らされている監視網があると知って、淳史は心配だった。

（姉ちゃん、何と関わってるんだ？　大丈夫なのかな……）



　三ツ矢はパーキングに駐車してあった車に戻り、スマホを取り出した。電話を入れると、3コール内で花園は出た。

「どうだった？」

「彰さん、彼は本当に恋人ではなく弟のようです」

「はぁ？そんなわけないだろ」

「保険証を確認しました。写真も撮ってあります」

　ふうというため息が、携帯越しに聞こえた。

「マジかよ……」

「今回は、彰さんの勘違い、という事ですね」

「いやいや、だっていきなりあんな顔のいい男と歩いてたら、弟なんて思わないだろ……」

　たしかに。淳史の風貌を思い出しつつ、三ツ矢はひそかにうなずいた。郁美と彼は全く似ていない。茶色く染めたふわふわの髪が良く似合う、子犬っぽい愛らしい顔立ち。専門学校に在学中のころから長年バンドをやっていて、今は姉に、精神的にも経済的にも依存している――。

これが、花園に命じられ数日彼の身辺調査をしてわかった事実だった。三ツ矢は要点をまとめて、それらを花園に伝えた。

「……という事でした。ここ数年は、二人で一緒に暮らしているようです。普通の姉弟とは違って、かなりあの二人の絆は強いとみえます」

「そうか……」

「ここは郁美様にちゃんと謝ったほうがいいかと」

「う……で、でも、彼氏だろうが弟だろうが、俺との予定を無視したのはあっちが悪いだろ？」

　三ツ矢は少し考えたあと、言った。

「……弟さんは、姉に悪気はないから、職場で追い詰めるようなことはやめてほしいと言っていましたよ」

「は？　悪気？」

「とりあえず、今日のご報告はここまでです。明日また、お迎えにあがりますから」

　三ツ矢は事実だけ述べ、電話を切った。



　再び、金曜日の夜がめぐってきた。郁美の携帯に、これまでうんともすんとも言ってこなかった花園からメッセージが来ていた。郁美は思わず、開くのをためらった。

（え……怖いんだけど……）

　バラ園の前で別れて以来、お互い私的な会話は交わしていない。例によって今週も、花園は一斤本店にいない事が多かった。だから郁美は、もう終わることができたのだとほっとしていたのだった。

　その気持ちの中には、少しだけ後ろめたさや後悔も含まれていたが。

（なのに……今になって、何だろう）

　無視するわけにもいかず、郁美はメッセージを開いた。すると。

『話したいから、退勤後公園に来て』

　簡潔すぎるメッセージに、郁美は頭を抱えた。

（話すって……何を！？）

　前回ので終わりじゃなかったのか。また淳史の事で、責められるのだろうか。

　見なかった事にしたい――そう思っていると、追加でメッセージが来た。

『逃げたら許さないから』

　仕事の事、弟の事、そして千鶴嬢の事――。さまざまなしがらみが郁美の脳内に浮かんでは消える。命令を無視したら、花園は仕事で郁美に報復するだろうか。けれど千鶴には、『もう関わらない』と言ってしまったのだ。

（とにかく……今日怒鳴られるにしろ責められるにしろ、それは甘んじて受けよう。で、話を聞いたら、即、帰ろう）

　これで、婚約者を裏切る事にはならないだろう。

　そう決めた郁美は仕事後、あの公園に向かった。街灯がぽつんぽつんと灯るベンチに、人影がある。郁美は一礼しながら声をかけた。

「すみません花園さん、お待たせ……！？」

　しかし、ベンチから立ち上がって郁美を睨みつけたのは、千鶴だった。

「やっぱりここで、待ち合わせしてたわけね。性懲りもなく」

　その剣幕に、郁美は思わず後ずさった。

「ち、違います――」

「何が違うのよ」

「ただ、その、花園さんと、話し合う事がありまして……」

「話すって何をよ。一斤じゃ話せないこと？」

「それは……その」

　郁美の言葉がしりすぼみになる。千鶴にとって悪い事をしているという罪の意識が、郁美の行動を弱気にさせる。

（人の婚約者とこんな風に会うなんて、たしかに良くない……）

「何よ……被害者ぶって！　今度という今度は、私も許せない。あなたのやっている事、上に報告しますから」

「そ……れは、ちがうんです、彼とはここで話をするだけで」

　郁美の身体がこわばる。それだけは困る。必死に考えながら、郁美は千鶴に頭を下げた。

「でも、彼と寝たんでしょう？」

「い、いやいやいや……！」

　郁美は慌てて否定した。しかし、嘘をついている罪悪感で、背中が冷たい。

（確かに私は、花園さんと『寝た』。でもそれは、望んでしたわけじゃなくて――）

　しかし、借金だの身体で返すだの、そんな話を他人に言えるわけもない。それに、最後の方は郁美も確かに彼に絆されていたのだ。ずっと拒否していたわけではない。もどかしくて、郁美は思わず唇を噛んだ。

　千鶴は苛々したように舌打ちした。

「何よ、言いたい事があるなら言いなさいよ！　本当にとんでもない性悪ね。そうやって大人しいふりをして、彰さんをたぶらかしたわけね」

（違いますが……！）

　郁美は内心で叫んだ。が、口はギリギリ閉じたままだった。

「同僚にも上司にも……そうよ、あなたの後輩にも、現場の主任にも言ってやる！　中野郁美は、人の婚約者に手を出す最低の性悪女だって！」

　その激しい言葉に、とっさ言い返すこともできず、郁美はただうつむいた。じっとりと嫌な汗を、全身にかいている。

（それだけは……！　なんとか、なんとか怒りをおさめてもらわないと）

　押し黙って必死に考える郁美に向かって、千鶴は手のひらを振り上げた。

「その被害者面が、ムカつくって言ってんの！」

　郁美はやってくる痛みに身構え、思わず目をつぶった。