嘘と微熱〜甘美な一夜から始まる溺愛御曹司の愛執〜

桜月海羽

一章 はじまりはひとつの嘘/三、嘘で壊れた境界線【2】

触れていただけの唇が離れて目を開けると、瞬時に視線が交わる。
怜悧な双眸はもういつも通りで、さきほど見え隠れしていた困惑や迷いはない。
それどころか、熱を孕んだ瞳の奥には獣じみた鋭い光を宿していて、今にも喰いつかれてしまうんじゃないかと思った。


「茉莉花」


落ち着いた重低音が、私を呼ぶ。
再び唇が重なり、今度は角度を変えるようにして何度もキスが落とされた。


オミくんに名前を呼んでもらえると、自分自身の名前がとても特別なもののように感じられて嬉しかった。
セグレートで待ち合わせをしているときだって、私に気づいた彼が柔らかい笑みを浮かべて『茉莉花』と声をかけてくれるたび、鼓動は甘い音を奏でていた。
私が結婚すれば、きっとあのささやかな幸せはなくなってしまうのだ。


これまでが特別だっただけなのに、唯一無二の時間が終わる予感に悲しくなる。
けれど、何度も唇を重ねてくるオミくんの熱に心が囚われ、他のことを考える余裕なんてなくなっていった。


不意に、触れ合うだけだった唇を食まれた。
肩が小さく強張り、拍動がさらに速くなる。
オミくんは、私の唇の形や感触を丁寧に確かめるように、繰り返し啄んでくる。
触れるだけだったキスとは違った感覚に、下腹部に淡い疼きが芽生えた。


キスの経験すらなかったのに、身体がこんな風になってしまうのはどうしてだろう。
遺伝子に組み込まれた人間の本能か、それとも女としての本能か。
答えはわからないけれど、ただひとつ言えるのは身体が彼を欲しているということ。
なにも知らないはずの身体なのに、ひっそりと育っていた恋心が、微かに戦慄き始めた下腹部が――目の前の男性を求めている。
これが欲情だと、初めて知った。


「茉莉花、口を開けて」


鼻先が触れ合うほどの至近距離にいるオミくんの吐息が、肌にふわりと触れる。
言われるがまま口を小さく開ければ、彼が瞳をたわませた。
「そのままだよ」と囁いたオミくんが、再び唇を重ねてくる。
直後、唇に熱いものが触れ、それが口内に押し入ってきた。


熱塊が彼の舌だと気づいたのは、恐らくすぐのこと。
どうすればいいのかわからない私の口腔は、たちまち侵食されてしまう。
舌先が歯列を舐め、頬の内側をくすぐって。口の中を味わうようにうごめき、強引に支配していく。
舌を捕らえられたときには呼吸もままならなくて、足がわずかに震えた。


「ん、っ……ふっ、ぅ」


艶めいた水音の合間に、吐息とくぐもったような声が零れる。
容赦のない激しさで口内を蹂躙されながら、私は無意識のうちにオミくんの胸元を握っていて。そんな中で、思考が鈍っていく感覚だけが妙に鮮明だった。
搦め取られた舌を結んでは解かれ、また絡んでは離れる。
彼に抱かれた腰がじんと熱くなって、今にも膝から崩れてしまいそうだった。


ようやくして顔が離れたとき、唇は腫れぼったいような感覚に包まれていた。
呼吸を整えることに必死だった私の頭の中は、なんだか靄がかかったみたい。そのせいで、視界が反転したことに気づくのが一瞬遅れてしまった。


オミくんに身体を倒されたのだと理解したときには、彼が私に覆い被さってくるところだった。
しっかりとしたマットレスに、大人ふたり分の体重が乗る。


「茉莉花。ちゃんと見ていて」


スプリングが軋み、ベッドに残っていたオミくんに香りが鼻先をかすめる。
私を組み敷く彼からはもっと濃い匂いがして、頭の芯がくらりと揺れた。


「自分の身体が誰にこじ開けられて、初めてをどんな風に奪われるのか」
「……っ」


生々しい言葉に、脳が酩酊感に包まれる。
色香を纏った瞳に射抜かれて、思い知らされる。
目の前にいるのは、優しい兄のような男性じゃない。雄の欲望を纏った男だ、と。

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